朝、目が覚めた。途端に目をギュッと閉じる。眩しい……郁は半分寝ぼけながら、手でカーテンの端を掴んで一気に閉めた。ようやく開けられた視界には、見慣れた天井が写る。
「開けたまま寝てたの、か…」
カーテンの隙間から差し込む初夏の陽射しに、再び目が眩みそうになる。起きなければと額に当てた手は、ひんやりとした温度を伝える。カーテンを開け放っていたにも関わらず、熱くなっていないとは。郁は不思議に思いながらベッドから下りる。そして右足の小指をぶつけて、そんな疑問と眠気はお空の彼方へ飛んでいった。
痛みに悶えながらもとりあえず前進をする。いつものようにハンガーにかかっている制服を引っ張って、身につけていく。スカートのホックを止める頃には足の痛みも退いて、郁はその足で軽やかに階段を降りた。
「姉ちゃん」
リビングから声がする。覗いてみれば、弟のタケルが手にバターとジャムを持ち、首を傾げていた。郁は、ビシッと右手を指差す。
「バターで!」
「了解」
パンの焼ける香ばしい匂いに、お腹をさする。おなかすいた。というわけで、適当に髪をとかして、郁はリビングへと急いだ。席についた同時にタケルが憂鬱そうに口を開く。
「……俺の自転車が昨日パンクしたんだよ」
「なにそれ、いじめ?」
「だとしたら倍返し」
できないことは口にしない方がいいぞ。そんなことを思いながら視線を皿の上に投げると、タケルの手からバターのぬられたパンが置かれた。それを口にして、お腹をふくらませることに勤しむ。
「だから姉ちゃん乗っけて」
なんだそういうことか。確かに歩いて通学するには遠いだろうが、こいつを後ろに乗せて行くのはごめんこうむりたい。
「タケルがこぐならいいよ」
それしかお前には選択肢がない。すると、タケルは「だよね……」と力ないリアクションを返しながら了承した。
「そ、それで……今日朝練あるから早く行きたいんだよ」
「朝練?」
郁はパンの粉を落としていた手を止める。朝練なんてこいつの口から初めて聞いたぞ。いったいどう言うことだ。
「朝練って……いや、その前に部活ってなにしてたっけ」
「?…テニスだけど」
「テニス? え、文化部だと思ってた」
あれ、でも中学の文化祭で写真部の活動やってたよね。見事な中学二年生作品展示してたよね。あれはなに?助っ人?写真部に助っ人?
「やば! 姉ちゃん、遅刻する!」
「いやだから、ちょ、わかったよ行くから……」
違和感と胸のもやもやを振り切るように、郁は椅子にかけておいた鞄を肩にかける。そして母の用意してくれたお弁当をつかみ、自転車の鍵をタケルへ投げた。
「いってえ!」
「自転車の鍵」
見事に命中した。うん、今日はよくわからないことばかり起こるが、いいことはありそうだ。鍵が鼻先に当たって悶絶しているタケルの横を通って、玄関へ。ローファーを履く頃にはタケルも玄関に来てた。
「…あれ、タケル。制服ってブレザーだった?」
靴を履いてるタケルにそう言うと、タケルはまた「はあ?」ともらした。どうやらまた私の勘違いらしい。……へんなの。
その後、タケルがこぐ自転車の後ろに乗って学校へ向かった。「暑いね〜」「いや、乗ってるだけでしょ」一生懸命こいでいる弟の背中と話しているうちに、自転車が止まった。
「じゃあ俺行く」
「はいよ」
荷台に乗っていた私が先に降りて、前に座り直す。タケルは携帯を見て時間を確認する。まだ時間に余裕があるようだ。
「あ、帰りもメールすっから、迎えよろしく」
「は?」
「今日は基礎練習だし、そんなに遅くならないから。じゃ!」
「ちょ、」
私が反論する前にタケルは校門をくぐってしまっていた。あいつ…。小さくなっていくタケルの背中を睨み、ため息。というか、タケルの中学ってこんなとこだったか。校門や校舎の様子に見覚えがない。
「へんなの」
色々なことに違和感を覚えながら、私も学校を目指して自転車をこぎ始めた。
さて、放課後です。
携帯画面には「6時すぎに肛門」というメールが表示されている。校門だろ。肛門とか、一大事だろ。打ち間違いがひどすぎるこのメールの送り主は、タケルくん。メールはもう少し確認してから送るべきだと思うよ。さもないとお尻を攻略されるぞ。まぁ、今はそんなことより
「いないのかよ」
こっちが問題です。
指示された通りに校門前へと来てみたが、タケルの姿は見当たらない。こんなんだったら途中で寄り道してくればよかった。そもそも、「6時すぎ」ってアバウトすぎるよね。極端に言えば7時でも6時すぎなわけで。なんとも腹立たしい状況です。そして居心地も非常に悪い。
「ほんとかっこよかったね!」
「あの色気……見惚れちゃう……」
「結局またタオル渡せなかったなぁ」
「次がんばろ!」
みたいな会話をする女子集団が、校門から出てくる。そんな少女たちの視線が刺さって仕方がない。校門前で立っているだけでも注目を集めるのに、その人物が高校の制服を着ていたらそりゃ目立つだろう。郁も人目につかないようにと校門の端にいるのだが、街頭があるためあまり意味もない。
いまはもう諦めて、少女たちを観察することに徹していた。なかには片手に文字が書かれたうちわを持っている子なんかもいて、ライブ帰りかよと呆れる。それともアイドルでも転校してきたのだろうか。
「姉ちゃん」
思案していた郁に、キャップを深く被った少年が声をかけてきた。いや、誰がお前の姉だ。あいにく私はタケルの姉で手一杯なんだが……。虫を見るような目で見ていると、我慢しかねた相手が帽子のつばを軽く上にあげた。あ、タケルだ。
「……遅い!」
顔を見た途端に出ていたのは、苛立ちを含んだ文句だった。詰め寄ってやろうと足を進めると、背中に視線を感じた。しかし、いまはそんなもの気にしていられるほどに郁の精神は穏やかではなかった。
「タケルあんた何分待ったと、」
「ちょ、黙って!」
「はあ?」
噛みつくように吠えていた郁の動きが止まる。いつもやられっぱなしのタケルが反抗するというのは、いままであまりない状況だ。まじまじと観察する。よくわからないが、タケルはとても焦っているようだった。
「ごめん、とりあえず自転車どこ?」
「……自転車ならこっちだけど」
校門から少し離れたところに止めた自転車を指差す。それを確認したタケルは、再び帽子を深く被って無言のままに歩き出した。まるで校門から逃げているようだった。意味がわからないままその背中を追いかけていると、あっという間に駐輪場に着いた。タケルがようやく帽子を脱ぐ。
「……あのさ、それかっこいいと思ってるの?」
「は?」
「帽子だよ、帽子。朝被ってなかったでしょ?」
なぜそんな物を着けているのかもわからないが、大方あれだろう。中二病的な、あれだ。まだこじらせてるのかよ。
「あと、なんでそんなにこそこそしてんの? しかも待ち合わせ遅れてきておきながら無言ってお前な。亭主関白ごっこなの?」
「ご、ごめん……とにかく、いまは早くここから離れよう」
「いやだから、なんでそんなにそわそわしてるの。トイレ?」
「ちげぇよ!」
否定するところはしっかり否定して、タケルはちゃっかり自転車に乗っていた。それにまたちょっとイライラしながらも乗ってやると、自転車はすいすいと進み始める。なかなかの速度だ。もちろん郁がそのまままっすぐ帰らせるわけはなく、途中でコンビニに寄って肉まんを奢らせた。ほかほかの肉まんを食べながら、郁は自転車の後ろでタケルの背中をつつく。
「ねえ、なんでさっきあんなに急いでたの?」
タケルが口ごもったので、脇腹辺りに肘鉄を食らわせる。なかなかに痛かったようで、タケルはため息混じりに口を開いた。
「見つかったら、女子がうるせぇんだよ」
「…………ぶふぅ!」
いくらなんでもそのジョークはないだろ!つくならもっとマシな嘘をつけよと大笑いした帰り道でした。
090319 知らない間にフライ/完
140212 修正
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