02

翌朝、郁は清々しい朝を迎えた。窓から聞こえてくるさえずりが郁の耳を楽しませる。寝起きのぼんやりとした思考が浮上し、微笑を浮かべる。

「夢オチじゃないんだねー」

なぜなら、郁の自宅は鳥がさえずるには高すぎるビルにあるのである。ということはこれは正真正銘、現実。ではここはどこなのか。窓から外を覗こうと起き上がるが、切り取られたような景色しか見えない。慣れない手つきで窓を開けてみる。その際に首の辺りで激痛が走る。

「いったぁ……」

手のひらをあてて撫でる。まるで殴られたあとのような痛みだ。首をぐるぐると回してみると、真上を見上げたときにちょうど痛むようだ。今日一日中真上が見れないとは……どんだけ寝相が悪いんだ。ベッドが破損していなくてよかった。

首が痛まないように気を付けながら顔を出す。周辺を見渡すと、この建物が住宅街のなかに建っていることがわかった。一度自分の状況を把握したいんだけどな……目の前は家々の壁が立ちふさがる。残るは……

周りの気配を探ってみる。人の気配がないことを確認してから、その次に腰の高さにある窓枠に降り立ち、上を見上げる。次の瞬間には郁は屋根の上に立っていた。見渡す限り、同じような高さの低い建物が建っている。海原のように眼下に広がるそれらをひとつひとつ確認していくと、その向こう側にある建造物に気づいた。あれは、壁だ。ぐるりと輪郭をなぞるように全貌を目に納めて、郁は改めて目を丸くした。どうやらこの一帯を取り囲むようにしてあの壁が建っているようだ。つまり、ここはなにかの要塞ってことか。ということは、なにか明確で大きな敵がいるということになる。またバトル系の世界なのか……そろそろ平穏な日常系の世界に行ってみたい。スペックだけ高くなるばかりで、その割りに毎回まったく原作に食い込めないのだ。土壇場で郁が尻込みしていることも原因のひとつではあるが、いわゆる器用貧乏というわけである。

うーん

郁は悩む。きっと敵はあの壁の向こうにいるのだろう。気になる。初めから敵のことがわかっていれば逃げることも容易だろうし、見つからないようにしていれば観察くらいできるとも思う。いつからかかくれんぼが特技になっていた郁は、勢いをそのままに足元の屋根を蹴った。

◇◇◇

ノミ蟲のように家から家へとピョンピョン跳ねて、壁へと到着した。途中でとんでもなく視線を感じたので、なるべく気配が消えるように祈りながら来た。そのお陰もあってか、かなりの跳躍で50メートルもある壁の上に着地した郁に騒ぐ者はいなかった。腑抜けたような顔をした見張りの男の横を通りすぎて、壁の外側へと身を乗り出す。そこにはただなにもない平野が広がっていた。敵の山城も、蠢く人害生物も見当たらない。申し分程度に木が群生しているだけで、本当になにもなかった。地平線を眺めて思うことは、この世界の人間は地平線アレルギーか引きこもり体質なのかもしれないというだけだった。

それでもまぁ、ここまで来た手前、せっかくだし壁の外を見てこよう。軽く飛び上がり、郁は躊躇なく壁の向こうに体を投げた。空気を切る音を耳で聞きながら、自分が降りる場所を見定める。空中で上体を起こし、着地。足の裏に軽い衝撃を受けたが、音はそれほどたたなかった。

「さて、探検といくか」

自分の身体能力が欠片も落ちていないのはいまわかったし、これならどこへでも行ける。いや、さすがに空腹は堪えられないからお腹すいたら帰ろう。少し減り始めたお腹をさすり、平野を歩き始めた。

「あ、リンゴだ」

壁からだいぶ歩いたところで、リンゴの木を見つけた。唐突すぎる出会いに驚きながら、しげしげと果実を眺める。鼻を近づければ、リンゴ特有の甘酸っぱい香りが郁の鼻先をかすめた。間違いない、リンゴだ。これまで視界に捉えてきた木々はなぎ倒されていたり、幹の途中からなくなっていたりして、まるで嵐がきたのかと思うほどであったがここは無事であったらしい。林を荒らしたのは嵐とか竜巻の仕業かと思っていたが、どうやら他の原因があるようだ。

「とりあえず持っていこう」

ここまで真面目に考えていた郁だったが、飽きてしまったようだ。パジャマの裾を広げて抱えられるだけのリンゴをそのなかへ入れていく。両手にずっしりとした重さを感じ始めたそのとき、郁の耳は遠くから近づいてくる地響きに気がついた。空から岩でも降ってきているのかと思うほどに、その音は大きい。鳴り響く間隔が一定なことも気になる。

リンゴ採りはこの辺りにして、視界が開ける場所まで出てみることにした。木を避けながら、抱え込んでいるリンゴが落ちないよう注意して進む。

「……」

光に近づきながら、郁は嫌な予感がし始めていた。震動は単調ながら、力強い。音はまるでなにかが走っているような間隔に思える。そして郁のその予感は、的中してしまうのだった。

「な、にあれ」

全裸の巨人だ。徒競走よろしく、元気に駆け回っている。大体、7メートルといったところか。いままで様々な世界に行ってきた郁だが、さすがにこんな規模の人外生物にはお目にかかったことがなかった。しかも、なぜか巨人は真っ直ぐ郁のいる方向へ向かってくる。

「ま、まさか」

頭から下へ、血の気が落ちていく。間違いなく、あの巨人は郁を目指していた。どんな早さで走ってんだよと思うほどに早く、距離もだいぶ近い。いまから走れば余裕だろうが、郁はリンゴを抱えている。これを守りながら走るのであれば、逃げ切れるかどうか自信はなかった。ではどうするか。郁はリンゴを地へと下ろす。

「こうする!」

その掛け声とともに、全速力で巨人へ向かっていく。郁が近づくにつれて巨人も歓喜したようにスピードを上げる。欽ちゃん走りのくせに、なんでそんなに早く走れるんだよ!醜くて鈍くさそうな体型の割りに身体能力も高い。それが余計に気持ち悪い。

苛立ちやら嫌悪感を力に込めて、郁は跳躍した。巨人の頭上を優に越えるその跳躍は、肉眼でとらえるよりも早く、巨人は足を止めた。郁はまだ上昇し続ける体を空中で反転させ、右手に固い拳を作る。目指すは、脳震盪!

狙いを定めて、全力で巨人の脳天をぶん殴る。こんなに大きな頭蓋骨を殴るのは初めてだが、どのくらい頑丈なのだろうか。拳が頭頂部にぶつかる。そして次の瞬間、まるでトマトを潰すような感触が伝わってきた。

「え、」

そのまま、郁の体は重力に従って落下していく。……巨人の体の中を。視界が暗転する。それと同時に、とてつもない熱気が郁を襲った。まるで熱湯を浴びせられたように、皮膚に痛みが走る。しかしそれでも拳は伸ばして、筋肉繊維をブチブチと破り、生臭い造物のアーチをくぐる。そのうちに、巨人の脇腹あたりから外へと排出された。信じられない気持ちで、着地した自らの体を見下ろす。

郁の体は赤く染まり、火傷したような痛みもあったが、それすらも気にならない。……なんか、臓器なかった、よね。ひたすらに筋肉と骨しかなかった。肺があるべきところは空洞で、まるで故意に欠落させたように思えた。じゃあどうやって息とかしてるの?

郁は、呆然と巨人を見上げる。首の痛みは、もう感じなかった。脳天を弾丸のような人間に撃ち抜かれたことで巨人は、バランスを崩す。そのまま地に膝をつき、郁の数メートル先で血を吹き出しながら大地に投身した。

「きっもちわる」

得体が知れなすぎる。こんなのとは二度と会いたくない。さっさとリンゴを拾って帰宅しよう。血だらけの体も洗いたい。そう思って踵をかえした郁の左足。足首。なにが掴んだ。

「っ!?」

咄嗟に、力強く足を払う。握りしめていたナニかは根本から千切れて、野原に転がる。巨人の右手だった。……なんて場所なんだここは。もしかして、こいつが壁の要塞があった原因なのか。様々な思考が駆け巡るが、背中でなにかをうめく生物が動き始めたことを感じて、全速力で走り始める。

リンゴ?知るか!こんな不死身で気色悪すぎる生物の相手をする代償にしては安すぎるわ!ズシンズシンと鳴り響く足音を背中に聞きながら、郁は脱兎のごとく逃げ出した。

◇◇◇

思った以上に早く壁にたどり着いた郁は、安堵の息を吐いた。よかった、本当によかった。もう絶対壁の外になんか行かない。絶対にだ。そう決意する郁だが、遠くで響いている足音に、再び絶望する。奴はまだ郁を追い続けていた。

逃げる最中、何度もあの生物を沈黙させようと試した。しかし気配を消しても、足首を粉砕させても、急所を貫いても、巨人は郁を追いかける。本当に怖すぎる。馬に追いかけられるニンジンになった気分だ。どうしたらいいのかわからないまま、とにかく早く走ってみたが……ここまで着いてきてしまった。壁の上もだんだんと騒がしくなってきた。巨人を見つけたのだろう。早くあの見慣れない家に帰りたい。しかし、自分が撒いたような危機を、このまま放っておいていいのだろうか。壁には砲撃の用意も進んでいるようだが、あれではまた巨人が再生してしまう。かと言って、どうすれば沈黙するのかもわからない郁の足は、根が生えたように動かなくなってしまった。どうしようもない。でも。

巨人はついに、郁の前へとたどり着いた。巨人の右腕が高く挙げられる。咄嗟に郁は左へと大きく跳んだ。標的を失った巨人の右腕は、壁にぶつかってめり込んだ。

ズドォォン

腹の底に響くような音で、壁が揺れる。呆然とそれを眺めていた郁だったが、ある声が鼓膜を揺らした。

「っわああぁあ!」

「タ、タケル!!」

ハッとして空を仰げば、なにかが降ってくるのが見えた。落ち葉のようにヒラヒラと動いて見えるのは、緑のマント。キラリと日光を反射させたのは2本の刃。驚きに顔を歪めるその人物は、郁の実の弟だ。

「タケル!!」

思わず、郁も叫ぶ。巨人は、それまで郁へと向けていた注目を外した。空を見上げて、その口を開く。タケルはもがきながら、ワイヤーのようなものを放ち、それを巨人の首へ刺した。そのまま勢いづけて、巨人のえりあしへと回り込む。サーカスを見ているような気分だった。鋭い牙のような刃が光ったと思うと、大量の血しぶきがあがる。タケルの顔に一瞬、笑みが浮かんだ。だが、すぐにそれは消える。

ハエを払うかのような動作で、巨人の腕がタケルの体を払い落としたのだ。壁の上では、絶望の声が上がった。あれではもうだめだ。死んだに違いない。しかし、はたき落とされたであろうその体は、郁の胸に抱かれていた。

「タケル、あいつえりあしが弱点なの?」

適当なところで地に降り立ち、タケルを下ろす。そのときのタケルの顔といったら……まさに傑作だった。驚きで口を閉口する様子は、鯉に似ている。それを見ていつまでも爆笑していたい気持ちをおさえて、郁はタケルの耳を引っ張る。

「ねぇ、聞こえてる?」

「ッヒイイ!!痛い痛い!!!」

「さっさと答えろ」

「そうですえりあしです!!!!えりあしの真ん中を削ぎます!!!!」

なぜか左胸に拳をあてる謎の動きをしている。また中2臭い属性でもついているのだろう。とりあえずいまは見ないことにする。

「削ぐ、ね。わかった」

ゆっくりと巨人を振り向く。そして郁は、これほどに怒りを感じたことがかつてあっただろうかと考えた。タケルの表情が変わったあたりから、割りと冷静さはなかったような気がする。郁は、生まれてはじめて思う。殺さないと。殺してやる。

右腕に再び力を入れる。今回は拳は作らず、ただ真っ直ぐに腕を伸ばす。指先に集中しながら、巨人の足元まで走る。踏み潰そうと左足を上げる巨人。郁の右腕が、巨人の右足を狙う。切り捨てるように振りかざした右腕は、肉を裂いた。

体勢を崩した巨人の背へと回ってからは、あっという間だったとタケルは言う。気づけば巨人は骨を露呈させながら、蒸発し、傍らには内地で寝ているはずの姉が立っていた。
生身で、巨人を沈黙させたのか。自らの目で見ていたにも関わらず、信じられなかった。姉は一体どうしてしまったのだろう。これは団長に報告せざる負えない。……本当に、どうなっているんだ。

壁の上からの声も聞こえないタケルは、ただ姉の背中を見つめることしかできなかった。


140131 第二話/完
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