「ハッ…」
チュンチュン、という爽やかな小鳥の鳴き声がカーテンの向こうから聞こえてくる。その音を耳にしながら、郁は天井を見上げた。朝だ…。無意識に携帯を手で探る。指先に感じた感触を掴み、開く。
「土曜日…」
そこでようやく口から息を吐き、力を抜く。確か今日は何も予定はないはずだ。昨日の休校と合わせて3日休みで………。
「昨日」
なんだろう、何かがひっかかった。なんだろう…えっと……。寝起きのせいか、思考がまとまらない。気づけば、瞼も下がってきた。うん、まあ、後で考ええれば……後、で。
ピリリリッ
鋭い電子音が、飛散しかけた郁の意識を浮上させた。片目を開けて確認すると、画面に映ったのは見慣れた三文字だった。
「…タケル」
タケルか、タケルなら出なくていいか。そう判断すると、郁は静かに画面を裏返す。
ピリリリッ
「……うぅ」
枕の下へ、奥へ、携帯を突っ込む。最近の枕ってすごいんだぜ…防音効果もあるんだぜ…。寝惚けたままの思考で意味のわからないウンチクを呟き、微笑む。
ピリリリッ
「うん!防音効果なんてないよね!!」
通話ボタンを連打し、叫ぶ。ヤケになりすぎたせいか、誤ってに電話音量を最大にしてしまった。
<──あ、>
「休日の朝から電話しちゃうほど私に伝えたいことって何じっくり聞いてあげるよタケル話してごらん」
しかし、苛立ちから興奮している郁の耳には、この最大ボリュームが丁度良かったようだ。
<──えっと、…ごごめん…そっか今そっち朝か…>
「……ハ?」
そっち? なにがそっちなんだ。郁は相手が目の前にいないにも関わらず、首を傾げてしまう。
<──とりあえず母さんにさ、帰国1日遅くなるって伝えてくれない、かな>
「帰国…」
<──うん、ロケ長くなりそうで…土産弾むから!よろしく!>
「ロケ…」
さっきから何を言っているのかわからないが、聞きなれない言葉だったからこそ、郁の意識がはっきりとしてきた。力の抜けた右手がパタッ、と布団の上に落ちる。どうやらタケルからの電話も切れたようで、画面は暗転していた。
「そうだ…タケルがアイドルで………また違う世界に来たんだった」
流石に何度目も体験しているので、そこまで取り乱したりはしない。それでも少し沈黙してから、足で布団をかき分ける。お腹がすいた。どんなイレギュラーな展開も、空腹を前にすればその意味をなさないのだった。布団から抜け出して、リビングに向かう。
「あら、おはよう」
「……おはよう」
リビングでは、母親がダイニングテーブルを台拭きしているところだった。あくびを噛み締めながら、自分の席につく。その頃には、スープやサラダが食卓に並べられていた。
「ごはんとパンどっちがいい?」
「んー…ごはん」
いつもの定位置につき、ぼんやりとリビングを見渡す。相変わらず、特になんの変化もないようだ。運ばれてきた朝食もいつも通りだし、私もいつも通りに「いただきます」と食事を始めた。
「そういえば郁、あんた今日予定あるの?」
「いや、ないけど」
「それじゃあちょっとお使い行ってきてもらっても、」
「あーー! そういえば今日発売の本があったわーー!」
白米を口に流し込みながら視線をカレンダーへそらす。今日の日付が赤い丸で囲まれている。やはり、今日は母親の贔屓にしている演歌歌手のCD発売日だ。会計の時に味わう、あの気まずさだけはそう何度も経験したくない。そう願って断る娘の白々しい態度に、母親は笑顔を浮かべた。
「そう、じゃあついでに買ってきてちょうだいね?」
◇◇◇
なぜ、あそこで「1日家で勉強するんだ」と言えなかったのだろうか。人で溢れている休日の街中を歩きながら、郁は過去の自分をなじる。
すれ違う人の間から見える看板や、聞こえてくる音楽。いつもなら気にならない物だが、今の郁には堪えられなかった。どこもかしこも、タケルだらけなのだ。上を見ても、不動産の広告にタケル。横を見ても、携帯会社の宣伝パネルにタケル。逃げ込むようにして入った、馴染みの同人本屋の中央には「今注目のアイドルラブ!」というポップ広告の下。いくつかあるCPジャンルの端に、『タケル総攻』という文字が見えてしまった。震える手で本を置き、店を後にする。癒しを求めて入った場所は、郁にこの世界の現実を突きつけたのだった。
よろけそうになりながらも、母親に頼まれていたCDショップへ向かう。下を向きながらなんとか辿り着いた店内では、やはり店内にはタケルともう一人のアイドルで歌う例の姉攻略曲がかかっていた。
「あの、予約していたCDを取りに来たんですが」
レジでそう声をかける頃には、郁の体力は全体の1割も残っていなかった。何なんだろう、この世界は。タケルだらけじゃないか。もしかしてここはタケルの世界なのか? 本当はアイドルになりたかった、とか。思考の海に飛び込み、段々とその身を海底に沈ませ、ぼんやりとしていた郁だったが、目の前に差し出された2枚のCDに、焦点が定まる。そういえば、CDショップだここ。2枚のCDジャケットは郁を見上げたまま、綺麗に整列している。
「水川きおしと、タケ藍…こちらの2点ですね、ありがとうございました」
タケ藍と呼ばれたCDでは、昨日テレビで映ったタケルともう一人のアイドルが微笑んでいた。郁は無表情のままCDを受け取り、ショップから出る。複雑な心境は変わらないし、寧ろ更に絡まっている。しかし、様々な世界を経験してき郁は……もはやこの非日常に慣れつつあった。
この世界がタケルの妄想であろうと、自分は生きている。それならいいよ。生暖かく見守ってあげよう。あわよくばその金にたかって一生幸せに生きてやろう。
「よし…」
そう腹をくくってみれば、世界はこれまでと随分と違ったものに見えてきた。よくよく見渡してみれば、街中にはタケルの看板以外にも様々なアーティストの顔が目に入る。聞こえてくる曲も、郁の聞き知ったものがいくつもあった。──なんだ、私が気にしすぎていただけだった、ってことか。俯き、丸めていた背を伸ばして清々しい気持ちで見上げた巨大スクリーン。そこから、やたらとテンションの高い声が降ってきた。
<にゃ!今日はいつもよりお客さんが多いにゃー!>
「…………」
誰だこいつ
誰も足を止めないあたり、朝番組として認識のある番組らしい。まじまじと見てみるが、やはり見覚えはない。これがこっちの芸能人か。この強烈なキャラクターを、郁は二度と忘れないだろう。今後の活躍に期待したいなと思う一方で、タケルがこの路線じゃなくてよかったと安堵する。
その、熱心な様子でスクリーンを見上げる郁の背に、熱い視線を送る少女がひとり。桃色のボブヘアーを風に揺らし、少女は一歩…足を踏み出す。
「あの、あなたも──」
しかし、その声は届くことなくスクリーンを見上げていた少女の姿と共に、人波に掻き消されてしまうのだった。
130220 第二話/完
140311 修正
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