19.月夜ばかりと

やっぱり、帰ろう。

大きな宿泊施設を目の前に郁は体を反転させた。後ろから来ていた自転車が驚いてハンドルを切り、郁の真横を通りすぎていく。帰路へ踏み出そうとするが、一歩も進むことはない。直立したまま、もう一度宿泊施設を見上げた。

「でもここまで来たし…いやいやでも…うん」

いやいやでもでも…と呟き続け、郁は遂に頭を抱えて沈黙する。……なんでこんな…歯みがき粉一個でこんなに悩まされなければいけないのだろう。

郁は冷や汗の浮かぶ額に手をあて、深い溜め息をつく。キャラに囲まれてウハウハしたいという浮わついた気持ちと、変なことをやらかしてしまわないかという不安感や緊張感が混ざり合う。…化学反応を起こし、今にも爆発してしまいそうだ。

「言っても中学生だし余裕だろー!!なんなら尻でも触ってこようかなー!!」

と、意気込みながら来てみたが…。駅を降りた時から、そわそわと足元が落ち着かなくなってしまった。それに追い討ちをかけるような、タケルからのメール

『門近くの自販機辺りにいるから』

もう待ってるのかよ!と、焦りながら郁は宿泊施設を目指してきたのだ。

「よ、よし…とりあえず自販機を探すか」

もしすぐ見つかったらタケルに電話して、門まで取りに来させよう。この完璧な作戦に、おそらく全米が震撼しただろう。そんなくだらないことを考えながら、振り向いたままだった体勢を戻し、門の影から中の様子を覗く。えっと自販機、自販機…ああ、あれかな?門からそう遠くない場所にある。

けど

「いないじゃないか」

あんだけ人を急がせておいて!これかよ!それまで感じていた不安は怒りに変わり、郁の肩をプルプルと震わせた。…もう……タケルに一発入れないと気が収まりそうにない。

「ん、姉ちゃん!」

郁のボルテージが最高潮へ達したその時、肩が何かに叩かれた。聞こえた声は、まさに今郁が会い焦がれていた…タケルのものだった。

拳に力が入る。

「こんな所でなにして……」

「ドリャアアッ」

振り向き様に、郁の右手拳が唸り、タケルの脇腹へと打ち込まれた。

「…ッ、どわ!?」

──かに、思われた。

「え!?」

郁の目の前には、踞るタケルの姿ではなく空を切った拳と、真っ青な顔をしたタケルがいた。

「危な、ななんだよいきなりびっくりする、だろ…?!」

避けられた、だと…!?あの鈍臭いタケルが避けるだなんて!運動神経や筋力は平均以下だったはずなのに。やはり、こちらの世界のタケルは能力が高いらしい。やっぱり、普通、トリップした私とかが受けられる恩恵だよね。

「もしかして、タケルがヒロインポジなの?」

「は、はぁ?」

まあ、うん…。難しいことは置いておいて、いまのこの状況を解決しなければ。いやどっちにしても腹立たしいわけだが。

「珍しく、あんたが私に反抗したもんだからついに反抗期かと気を使いながら来てみれば待ち合わせ場所には居ないし生意気にも姉の制裁を避けるし…」

「……お、おう」

「でも、こんな場所で騒ぐのは止めておく」

誰が来るかわかったものではないしね。沸々と沸き上がってくる苛立ちを抑え郁は鞄から歯みがき粉を取り出した。

「はいこれ」

「……」

すっかり生気を失った様子のタケルはいつも以上に無口だ。普段は謝罪を繰り返すのだが…一応反省しているのかもしれない。

「帰ったら覚えておけよ」

最後にそう残し、辺りを見回したかと思うと、郁はそそくさと帰って行った。

「……」

残されたタケル。手元には使い込まれて細身になった歯みがき粉が握られている。その背中に話しかける、能天気な男が1人。

「──あ、おーい!歯みがき粉受け取れた?」

その男の顔は、まさに今歯みがき粉を持つ男と同じものだった。ただ唯一違うのは、その顔色である。

「……タケル」

「うげ、まだ変装してたのかよ…ていうかなんか青白くないか。体調悪いのかよ」

同じの顔を複雑な気持ちで見る男……タケルは、変装をしたままの男の手に歯みがき粉を見つけた。そしてすべてを悟る。

「な、姉ちゃんの仕業だっただろ?」

「……」

仁王と呼ばれ、軽く頷く。そのまま顔の前で手を動かすと、歯みがき粉を持つタケルの顔は端正なものに変わった。

「……」

「仁王?」

黙ったままの仁王に、本物のタケルは目を瞬く。

「……すまん」

仁王はそう小さく呟くと、門をくぐっていった。ただ謝られただけのタケルは、早く顔を出した月とともに、不思議そうに首を傾げた。


121101 月夜ばかりと/完
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