タケルが合宿に行って、今日で二日目。明後日の夜には帰ってくるらしいのだが…有意義な時間を過ごしている私としては、大変残念なのである。有意義という言葉の大半を占める事柄としてはやはりテニス部が関係している。まあ、でもそればかりではなかったりもする。
例えば
「あ、また作りすぎちゃったわ」
ほかほかサクサク。更には光に照らされて金色に輝く衣を身にまとった、牡蠣のフライ!それが5個。丁度1人ぶんにはなるだろうその量を前に、母は「タケルがいないなんて、やっぱり慣れないわぁ」と指先で顎を掻いた。私と父は、各自席につきながらその様子を見ていた。私の口元が笑う。
「えーまた?じゃあ…もったいないし、私が貰おうかな」
「あらほんと?」
「……父さんも食べたいな」
「お父さんはこの間の検診でメタボって言われたんでしょ。メタボって言われたんでしょ」
「父さんはメタボじゃないぞ!運動だってしているしだな、」
申し遅れたが、今私と会話したのはうちの大黒柱である父親だ。接待ゴルフを運動と言い張るメタボ予備軍。名前なんて別に紹介しなくてもいい気もしてきました。
「いただきます!」
父の視線を痛いほど身に受けつつ、作りすぎてしまった牡蠣フライに箸をつける。成長期の食への貪欲さをなめないでいただきたい。…まあつまり簡潔に言えば、タケルがいないおかげで夕飯のおかずが増えたのである。他にも、お風呂が遅い等とタケルに文句を言われなくなったし、朝トイレの争奪戦をしなくもなった。
「あー、タケルいないとなんて有意義な時間を過ごせるんだ」
このままタケル帰ってこなければいいのになー、とソファーで大きく伸びをする。お腹もすっかり膨れ、眠くなってきた。
「そんなこと言って、寂しいんじゃない?」
「…寂しいといえば寂しいけど」
母と父が顔を見合わせて笑う。本心からの言葉だし、振り向きはしない。うーん姉ちゃん、ちょっと寂しいぞタケル。ちょっとだけどな。
◇◇◇
合宿に来て、今日で二日目。明後日の夜には帰るのだが…思った以上に有意義な時間を過ごしている俺としては、少し残念なのである。有意義という言葉の大半を占める事柄としては…まあ、好きなテニスができるってのもあるけど、そればっかりじゃない。姉ちゃんがいないんだ………。姉ちゃんがいない、つまりご飯を横からかすめ取ったり、トイレ中にドアを開けられ労わるような視線を向けられるとか、そういったテロを受けることがないのだ。…うーん、平和だ。
「カツもーらい」
「っておいブン太!!」
いつの間に拐われたのだろう。丁寧に切り分けていたカツの半分がすでになくなっていた。
「ふざけんなよ!俺の平和を返せ!」
隣に座るブン太の口が大きく開く。俺のカツー!
「ええい、騒がしい!食事時は静かにしないか!」
「うっ、…」
真田の叱責が飛び、のばしかけた箸を止める。その間に、カツはブン太の口の中に消えてしまった。
「ふふ、真田も元気だね」
「あ!柳生、醤油取ってくれ!」
「はい……丸井くん、米粒が頬についてますよ」
打ち拉がれるタケルの頭上では、気にかける様子もない会話が続けられる。ああああもう知るか!!家と変わらない理不尽さに、涙を浮かべながらも口の中にご飯を掻き込む。
「うはー!!見てみぃ見事な食べっぷりやー!!」
「ホンマやなぁ!」
そして四天宝寺のテーブルから上がる謎の歓声。気にしない!してやるもんか!!意地で食べきり、席を立つ。膨れた腹に痛みを感じながら、タケルは食堂を後にした。
「うっ…ぷ」
食堂を済ませてからタケルが向かったのは、水道だった。タケルの右手には歯ブラシが握られている。食べ終えたのが早かったおかげか、人も見当たらない。良かった…。胸を撫で下ろし、左手に隠していた歯磨き粉を出す。イチゴ味だ。
「本当…こんなん見られたら爆死する」
昨日、寝る前に発覚したこの異常事態。あの時は寝る前だったおかげで人も少なかったが、かなり肝が冷えた。しかーし!!今なら誰もいないのだ。きっと今出たゲップを聞いた奴もいないだろう。セーフ!
「でかいゲップぜよ」
アウトー!!いたー!!しかも身内くんがいたー!!どこから沸いて出たのか…気付けば仁王がタケルのすぐ横に立っていた。
「おま!びっ、にお!」
「プリッ」
相変わらずの涼しい表情を浮かべる仁王を前に、タケルも落ち着きを取り戻していく。
「…そういえばお前食堂いなかったな」
「これで十分ナリ」
差し出された袋には、カロリーがメイトだと書かれている。タケルの目も、思わず細くなる。
「…好き嫌いくらいなくせって、子供じゃねーんだから」
「……」
黙り込む仁王。どうやらタケルの推理は当たったようだ。やっぱりな、昨日はガツガツ食べてたし。
「タケルに言われたくないぜよ」
「は?」
優越感から緩んでいた表情が、固まる。仁王の視線を追えばそこには…
「中3でイチゴ味は厳しいじゃろ」
「誤解だ!!」
「……言い訳は見苦しいぜよ」
「違っ…これは姉ちゃんのイタズラで!!」
「ほーう、姉ちゃんが?」
「ほら、あれだ!ドックフードの!」
そこまで言うと、流石の仁王も「…ああ」と頷いた。
「だから、マジで違うんだってマジでええ」
「わかったわかった」
タケルが肩で息をする様子に、口元がニヤリと笑む。本当にからかいがいがあるのう。
「な、んだよ…」
「いや、面白いことする人じゃのう」
「こっちはいい迷惑だって…」
タケルが少しやつれたように見えるのは、見間違いではないだろう。
「一度話してみたいぜよ」
「あー…姉ちゃん派手なこと苦手なんだよ。…多分お前みたいなのはアウトだ、悪い」
「意外じゃな」
こんなイタズラをする人間が、派手嫌いとは。ますます気になってきた。
「おい、聞いてる?」
「んー」
「……はあ、じゃあ俺もう行くから」
去っていくタケルを見送る仁王。その顔には、何かを企む表情が浮かんでいた。
◇◇◇
「ヘックショーイ!」
盛大なくしゃみのあと、鼻をすする郁。なんだろう、寒気がする…風邪かな。お風呂で長居しすぎたのかもしれない。
「早く寝よ」
この寒気の正体がわかるのは、すぐ先の未来なのだが…。そんなことも知らず、郁は温かい布団で夢に沈んでいった。
120921 嵐の前の平穏/完
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