「じゃあ、今日はこのくらいにしておこうか」
部長の掛け声で、それまでコートに散っていた部員たちがベンチに集まる。レギュラーベンチ近くの水のみ場に来ていたタケルは、ふと幸村からの視線を感じて顔をあげた。
「?」
目が合うと、幸村はにこりと笑ってタケルを手招く。え、なに?めちゃくちゃ怖いんだけど。タケルは戸惑いながらも、幸村の元へと向かう。
「えっと、なんでしょうか」
「明日の合宿、タケルも参加ね」
「‥‥‥‥は?」
◇◇◇
バタバタと駆け回る大きな足音に、郁は顔をしかめた。帰宅を告げようとあげた声も、掻き消えてしまった。怒りの矛先は当然騒音の主へと向く。奴はどこにいるのかと耳を澄ましたとき、ちょうど郁の前をタケルが通りすぎた。
「なにやってんの?」
「ちょ、邪魔!」
首根っこを捕まえようと伸ばした手がはたかれる。
反射的に、表情が消えた。
「は?」
思っていた以上に低い声が出た。
タケルもその地を這うような声色に、動きを止める。
「ごめん、まじで今だけは…」
タケルの手には、靴下やらラケットやらが掴まれていた。背中には、タオルが口から出た状態のボストンバックが 。なにやら、ただらぬ様子だ。
邪魔と言われたことに何か言おうとしたが、タケルがあまりにも必死なので見逃すことにして、リビングの扉を開けた。リビングでは、母さんが夕飯の支度をしていた。
「ねぇ、母さん。タケル何してるの?」
母さんは郁に「おかえり」と言ってから、タケルが駆け回る廊下を見た。
「それが、突然部活の合宿に行くことになったらしいのよ」
「え、合宿って、テニス部の…?」
「そうそう。あ、そうだ部屋に行くついでにこれタケルに渡しておいてちょうだい」
母さんから手渡されたのは、青い色した歯磨きセット。仕方がないが、実の姉として優しさを見せてやることにする。
「おいタケル」
廊下に出ると、丁度タケルが二階へ続く階段を上っているところだった。当然郁の声が届くわけはなく、廊下には郁ひとりが残された。腹立たしい。追いかけるのも面倒なので、歯磨きセットは適当にバック入れとくことにしよう。
「にしても、テニス部の合宿か…補欠のくせに参加するのか」
きっと大体がマネージャーのような雑用をさせられるのだろうが……あの濃いキャラクターたちの中で、うちのタケルはやっていけるんだろうか…。やはりなんか、もっと存在感あるキャラになるべきだよね。でないとその内、「ほらあの、別段特徴もない人」といったように形容されて名前も忘れられてしまうかもしれない。
眼鏡キャラとか、案外敬語キャラ……あぁ、もういるか。色々考えたところで、キャラづけはもう飽和状態のようだ。ここはもう、いままで通りの平凡キャラしかないな。どんまいタケル。といったように、タケルに対して失礼すぎる心配をひとしきりしていると、ボストンバックを見つけた。廊下の隅に置かれたそれは、先ほどタケルの背中で見たときよりも大分ふくらんでいた。さて、入れる前に中身があるか確認をしよう。青いケースのなかにはきちんと無地のブラシと、歯みがき粉が入っていた。しかしそこで、郁はあることに気がついた。
「ん、歯みがき粉ほとんど入ってない」
チューブ型の歯みがき粉は随分と痩せ細っていた。これでは、1回分くらいしかないだろう。確認しておいてよかった。歯磨きセットを手にしながら早速洗面所に急ぐ。洗面所の棚を漁ると、出るわ出るわ。数多くの歯みがき粉たち。その数、10本。これなら安心だと適当に選びとりたいところだが、またひとつ問題が。
「全部キャラクター物……」
しかもなぜかイチゴ味。
まあ、うん。歯みがき粉には変わらないよね。私は使わないし、これでいいや。即決して、目についた一番ドピンクな歯みがき粉を手にして歯磨きセットへ加える。そして、郁は上機嫌に洗面所から出た。
「はい、タケル。歯磨きセット」
「あ、ありがとう」
タケルは歯磨きセットを一瞥するだけで、バックのなかに詰め込んだ。そして指を折ってなにかを勘定して、大きくため息をはいた。
「やっと終わった…」
どうやら安堵のため息だったらしい。少しかわいそうになったので、肩を優しく叩いてやる。
「お疲れ」
タケルからは力のない礼の言葉が返ってくる。どんだけ疲れてんだこいつ。合宿なんてまだ先だろうに。そう思いながら、郁はタケルに問う。
「で、合宿っていつからなの?」
大分急いでいたみたいだけど、土曜日まではまだあと3日はあるのだ。郁のそんな質問に対して、タケルはか細い声で返答する。
「明日……」
「え!?」
流石の郁も、声が裏返る。あ、明日って言ったよこの子。
「まじで?」
タケルは眉間にシワを寄せ、頷く。それっきり顔を上げずに、片手を胃のあたりにあてる。
「レギュラーだけだって聞いてたのに、いきなり今日の部活終わりに幸村が……」
そこから黙ってしまうタケル。言わなくてもわかるけど、幸村くん辺りに畳みかけられて頷いたんだね。ますますタケルが可愛そうに見えてきてしまう。そうか、明日からタケルいないんだ。レギュラーの合宿って地獄の日々なのだろう。外出も許されない檻の中でテニスを………って、ことは。
立海レギュラー陣も、不在?
エンカウントを恐れず町中を歩けるってことかそれ……。ピシャーン!と雷が郁の脳天に落ちる。梅雨の傘事件ですっかりレギュラー陣が恐ろしくなってしまい、郁は立海の付近に行けなくなってしまったのである。そんな日々から数日、解放されるのである。行きたかった雑貨屋にも久しぶりに顔が出せそうだ。
「さよならタケル、そしてありがとう」
「……俺、死ぬの?」
「明日は千鶴と買い物行こうかな」
「目に見えて浮かれるなよ!!」
俯いて床に正拳突きを繰り出しているタケルを無視して、郁は階段に足を掛けた。明日、晴れるといいなぁ!
090902 突然の朗報/完
131112 修正
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