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カホカと湯気をたてる朝食を前に、さくらは目を輝かせた。その熱心な視線が注がれているのは、ブラックペッパーの香りがきいたベーコンエッグでも、彼女が即席で作ったコンソメスープでもなくて、

「零さん、これって確か、あれでしょう?フライドグリーントマト!」
「ああ、君も知っていたのか。どこかで食べたのか?」
「映画の原作本を読んで、ずっと気になっていたの。食べるのはこれが初めてよ」

真っ白な皿に敷かれたサニーレタスの上に盛られていた、フライドグリーントマトだった。アメリカ南部のソウルフードで、僕も学生時代にハワイで一度食べたきりだったが、冷蔵庫を開けた時にこないだ買ったグリーントマトがまだ残っているのを見て、作ってみようという気になったのである。

ちなみにさくらが言った“映画の原作本”というのは、1991年にアメリカで製作された映画“Fried Green Tomatoes at the Whistle Stop Cafe”の原作となった小説のことだ。この本の後書き部分に詳しいレシピが載っていて、それを見た時からさくらはこのメニューが気になって仕方なかったのだという。しかし自分で作ってみようとしたことはなかったらしい。

「珍しいな。さくらのことだから、気になったものは自分で試しに作ったことがあるのかと思ってたよ」
「女の一人暮らしじゃ、なかなか揚げ物はしないのよね」
「それもそうか。考えてみれば、僕も1人分の食事を用意する時にわざわざ揚げ物をしようとは思わないな」

手間暇がかかるし片付けも楽ではない。油が跳ねればコンロだって汚れてしまう。しかし、今日ばかりは朝から揚げ物をするのも苦にならなかった。何故なら今日は、いつもは隣にいない恋人が、1日中僕の家にいてくれる日だったからだ。有体に言えば、この時の僕は浮かれていた。



「それじゃ、冷めないうちに召し上がれ」
「はぁい、いただきます」

返事をするさくらの声も僕と同じか、それ以上に浮かれていた。律儀に両手を合わせてからナイフとフォークを手にする彼女に、僕の口角も自然と上がる。
さっくりと揚がったトマトを切り分けて、一口分をフォークに突き刺す。それを自分の口に持って行って、彼女は期待と不安が入り混じったような眼差しを、きつね色の衣の隙間から覗く緑色のトマトに向けた。

「思ったよりもずっと甘い匂いがするのね。もっと酸っぱいものを想像していたわ」
「元々、グリーントマトは過熱したら甘みが生まれる食材なんだ。それに、ちょっとした隠し味も加えてあるからな」
「隠し味?あのハムサンドみたいに、これにもお味噌を使っていたりするの?」
「はは、さすがに今回味噌は使ってないかな。でも大丈夫、味は僕が保証するよ」
「あなたがそう言うなら、信用するわ。……あむ」

さくらは意を決して揚げたトマトを口に入れた。最初は何かを探るような顔をしていたものの、一口、二口と咀嚼していくうちに、ぱあっと顔色が明るくなっていく。

「おいしい……!何というか、予想していたのとはまったく違う食感がするわ。アップルパイみたい」
「そうだろう。グリーントマトは完熟していないトマトだから、普通のトマトに比べて水気が少ないんだ。それを中火でじっくり揚げてやると、そんなサクサクした食感になるんだよ」
「トマトの表面にも何か塗ってあるのかしら?」
「ああ、それは君が持ってきてくれたマヌカハニーだ。小説の中では150gと書かれていたが、さすがにそれは甘すぎるから、僕としてはスプーンに1杯分くらいがちょうどいい甘さかな」
「なるほど。蜂蜜の甘い香りとバジルのスパイシーな風味が合わさって、とっても食欲をそそるわね」

さくらは納得したように小さく頷きながら、お皿に残っていた分も率先して胃袋に収めていった。あまりにもおいしそうに食べてくれるものだから、僕の分も食べていいよと言ったのだが、それに対して彼女はふるふると首を振った。

「私1人でおいしい思いをしても意味がないわ。あなたと一緒に、このおいしさを分かち合いたいの」
「そうか。君がそう言ってくれるなら、こっちは僕がいただくよ」
「ええ。ぜひそうして」

そう言いつつも、僕が自分の皿に乗ったトマトを切り分け、自分の口に運ぶたびに、さくらの熱い視線が僕の手元に注がれた。その正直な態度に思わず吹き出して、僕は一口大サイズに切ったトマトをフォークで突き刺すと、それをさくらの目の前に差し出した。

「ほら、あーん」
「……いいの?」
「そんなに物欲しそうな顔をされちゃ、無視も出来ないじゃないか」
「う……」
「いいんだよ。自分の手料理を君においしく食べてもらえることが、僕の朝イチの楽しみと言っても過言じゃないんだから」

ダメ押しのようにもう一度「あーん」と言って促してみると、さくらは観念したように小さな口を開いた。少し身を乗り出してフォークにかぶりつく。その際に、長い横髪が顔に掛からないように耳に掛ける仕草が色っぽくて、僕はうっかり見惚れてしまった。

「……ん!やっぱり、とってもおいしいわ」
「それはよかった。作り手冥利に尽きるよ」
「ドイツでグリーントマトを手に入れる機会は滅多になさそうだけど、見掛けたら絶対に購入してリピートしようっと」
「グリーントマトは揚げるだけじゃなくて、ジャムにしてもおいしいぞ」
「トマトのジャム?それは盲点だったわ……。今度レシピを教えてくれる?」

すっかりグリーントマトに惚れ込んでしまったさくらは、僕の提案を溌溂とした表情で脳内にインプットしていった。彼女のこうした新しい知識に対する貪欲な姿勢は、非常に好ましいと僕は思う。

「ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした。洗い物は私がやっておくから、そのまま置いておいてね」
「ありがとう、頼んだよ」

使ったお皿をシンクに持って行くと、僕は彼女のありがたい申し出に従って台所を離れた。出勤までに残された時間は、もうあまり長くない。

「ハロ、今日1日、さくらのことを頼んだぞ」
「アンッ!」
「いい返事だ。Good boy.」

着替える僕の足元で大人しく“待て”をしていたハロの頭を、僕はわしわしと撫でてやった。ハロはすっかり騎士気どりで、普段は気の抜けたように垂れた眉を、今はきりりと引き締めている。

「それじゃギルバート、行こうか」
「はい、降谷さん。今日もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。それから明日のアラーム音は、もうちょっと目覚めがいい音楽にしてくれ」
「かしこまりました。亡き王女のためのパヴァーヌに設定しておきます」
「それだと、目が醒めるどころか永眠してしまいそうだがな」

本日も絶好調の相棒を左手首に装着すると、僕は“安室透”用のトートバッグを肩に掛けた。姿見を覗き込み、最後の身だしなみチェックをする。

隣の部屋のキッチンからは、さくらが洗い物をしているカチャカチャという音が聞こえてきた。それに時折混じる上機嫌な鼻歌に、この家も随分賑やかになったものだと思いながら、僕は口元を綻ばせた。