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酊者の眠りを覚ますものは騒音ではない、と言ったのはユゴーだったか。酩酊するほど酔っていたつもりはないが、さくらお手製のグリューワインのお陰で、僕は確かに先ほどまでほろ酔い加減だった。だからこそ、家の中に自分以外の気配があるというのに、こんなにも安らかに眠ってしまっていたのだろう。その相手が、僕が誰よりも信頼しているさくらとハロだったから、という理由もあるのだろうが。

ユゴー曰く、酩酊者にとっては、小銃の音も、榴弾の響きも、窓から部屋に入ってくる散弾も、襲撃の非常な喧騒も、その眠りを妨げるには何一つとして効果がないということだった。さすがにそれは極端な例えだとしても、“酩酊者の眠りを覚ますものが静寂である”という言葉には説得力がある。
例えば自分が誰かの運転する車(電車やバスでもいい)に乗っているとして、車が動いている間は多少揺れても遠心力が掛かっても、まどろみから醒めることは滅多にない。慣性の法則が働いているからだとか、車の揺れがちょうど揺りかごのように感じられるとか、その理由は様々だ。しかし、全速力で走っていた車がぴたりと動きを止めると、僕たちは重い眠りに対する激動を受け取ったかのように、たちどころに目を覚ます。そういう不思議は、古今東西を問わずしばしば見られることである。

閑話休題。

自室のベッドですやすやと眠っていた僕の意識がふっと浮上したのは、浴室から聴こえていた水音がピタリとやんだ時だった。タイルを叩きつけていた音はやみ、今はチョロチョロと彼女の足元にたまった水が排水溝に吸い込まれていく音だけが聴こえてくる。
シャワーの前に立っているであろうさくらの裸身を思い浮かべて、僕はふと唇を緩めた。しなやかな曲線を描く腰のラインに沿って水滴が肌の表面を滴り、臀部から白い太腿を伝っていく。その様を生々しく脳内で想像していると、それに対する抗議のように、ガラリと浴室の扉が開かれる音がした。

(今起きて行って声を掛けたら、どんな顔をされるだろうな)

どうして眠っていないのかと怒られるだろうか。それとも自分が起こしてしまったのかと慌てるだろうか。それから自分が何も身に着けていないことに気が付いて、恥ずかしがって顔を真っ赤にするだろうか。

(ああ、どのパターンでも可愛いな)

などと本気で思ってしまう程度には、どうやら僕の酔いはまだ醒めてはいないらしかった。
僕に脳内で好き勝手にされているとも知らずに、さくらはテキパキと身繕いを済ませて、さっさと脱衣所からポーチを片手に出てきた。あのポーチの中身は何やら女の秘密が詰まっているらしく、一度覗こうとしたらぺしっと手を叩かれた。いつか隙を見て中身を暴いてやろうと、僕は今でも密かに狙っている。

濡れた髪をタオルでまとめ、僕の貸し出した黒いパジャマを着た彼女は、ボディクリームのいい匂いを漂わせながらリビングに入っていった。パジャマのズボンが大きすぎたのか、下は素足のままである。暗闇の中でも白い太腿がなまめかしく映えて、正直目の毒だった。
それを見て、僕はのそりとベッドから体を起こした。足元で丸まっていたハロはすぴー、すぴーと鼾をかきながら眠っていて、起こさないように細心の注意を払いながら、僕はそっと寝室を出た。

さくらはリビングの椅子に腰を下ろして、スマホを熱心にいじっていた。その無防備な背中に声を掛ける。

「さくら」
「っ、びっくりした。先に寝ていたんじゃなかったの?」
「さっきまでウトウトしていたんだが、君がシャワーを終えたのを感じて目が醒めたんだ」
「あっ、ごめんなさい、大きい音を立てちゃったかしら」
「いや、そんなことはないよ。君のせいじゃないから気にするな」

言いつつ彼女の頭を包んでいたタオルを取り払う。水分を含んで重たい髪の毛が、シャンプーの香りと共にぶわりと広がった。



「ドライヤーを持ってくる。ここで座ったまま待ってろ」
「えっ、いいわよそんなこと。ちゃんと自分で乾かして寝るから」
「僕がやりたいんだ。いいだろう?」
「……。そんな言い方、ずるいわ」

それじゃあお願いします、と言って彼女は再びスマホの操作に没頭した。

(何をそんなに熱中しているんだ?)

これが他の男との会話だというなら妨害してやろうと思ったが、ずらりと英文が並んだ文面を見れば、それが至極まじめな業務連絡だということが解った。それも、彼女が学会に提出した論文3つのうちの2つが正式に受理されて、研究費用を出してもらう認可が下りたという内容である。さすがにこれは邪魔できないな、と思って僕はとぼとぼと洗面所にドライヤーを取りに行った。

再びリビングに戻ってきても、彼女は真剣な眼差しでスマホと睨めっこした状態のままだった。

「その論文って、」

僕はドライヤーのスイッチをオンにしながら問いかけた。

「こないだまでせっせと書いていた論文か?」

僕と電話する時間さえ惜しんで作成していたあれだろう、と多少の皮肉を込めて尋ねると、彼女は何の衒いもなく「ええ」と頷いた。その目が相変わらずこちらに向かないことに若干の悔しさを感じつつ、僕はしっとりと濡れた髪に温風を当てた。

「お客様、風は熱くありませんか?」
「ふふ。なぁに、美容師さんごっこ?」
「案外腕は悪くないかも知れないぞ。僕は自分のくせ毛も自分でカットしているくらいだからな」
「ああ、ギルバートから聴いたわ。髪の毛が落ちていたのを見て風見さんが何を勘違いしたのか、私以外の女の影を疑っていて面白かったって」
「風見は仕事の時は頼りになることも多いんだが、そそっかしいのが玉に瑕だな。それに、普通なら真っ先に君の髪の毛かと疑うのが筋だろう」

上司を浮気男扱いして酷い部下もいたものだ、とぼやきながら、僕は彼女の長い髪に指を梳き入れた。短い自分の髪と比べて、彼女の髪は長い分、乾かすのにも手間が掛かる。
せっかく綺麗な髪なのだから丁寧に扱おう、と思わず熱中しながら手を動かしていると、さっきまで微動だにしていなかった頭がゆらりと動いた。見れば、彼女は力なく両手を前に投げ出して、こっくりこっくりと船をこいでいる。

「さくら?」
「んー……?」
「眠いのか?何だったら寝てても構わないぞ」
「んー……、ねむく、ないわ」

そう言って彼女はふるふると頭を振ったが、その瞼は今にもくっ付きそうなほど落ちてしまっていて、長い睫毛が震えていた。意外と幼いその態度に頬を緩ませて、僕はドライヤーのスイッチを切った。

「心配しなくても、ちょうど髪も乾いた所だ。だからほら、スマホは僕に預けて、一緒にベッドに行こう」
「ん……」
「そうそう、いい子だ。こっちに腕を回して」

彼女がほとんど無抵抗なのをいいことに、僕はさっさとその手からスマホを奪い取り、彼女の体を抱き上げた。不意に体が宙に浮いても覚醒しないほど、彼女の意識は睡魔に侵食されている様子だった。

寝室に戻って自分のベッドに彼女の体を横たえると、ハロが目を覚ましてクゥンと鳴いた。それを「しー」と人差し指を立てて牽制すると、僕は腕の中の細い体を自分の裸の胸板に抱き寄せた。彼女の柔らかな髪が僕の頬を撫でて、擽ったさに僕は目を細めた。

酩酊者の眠りを覚ますものは静寂である、とユゴーは言った。しかし酩酊者をより深い眠りに誘うのも、やはり心地よい静寂だった。