18:45


アロでの勤務を終えた僕は、愛車を飛ばしてとある地点に向かっていた。行先は「135-42-48. 139-45-44.」――北緯35度42分48秒、東経139度45分44秒の地点。すなわち、さくらの母校である東都大学の本部キャンパスである。
大学前の大通りから一方通行の道が延びていて、僕は迷わずそこを左に曲がった。突き当りに喫茶店のスタンド看板があり、それを目印に車を停める。駐車場には他に黒塗りのセダンが停まっており、中には誰も居なかった。
車を降りて施錠すると、僕は喫茶店の扉を開いて店内に足を踏み入れた。中には教本を開いて黙々と勉学に勤しむ若者の姿が多く見られ、僕は何やら懐かしい気持ちになった。

「あ、来た来た。こっちっす」

僕がぐるりと店内に視線を一周させたタイミングで、背後から聴き慣れた声が掛かった。僅かに目を瞠りながら振り向くと、95の谷川がボックス席から僕に向かって手を振っていた。伊達メガネを掛けて、もこもこしたニットブルゾンを着こなしたその姿は、この喫茶店の客層の7割を占める東大生の中に何の違和感もなく紛れ込んでいる。その馴染みっぷりに、僕は彼の特徴のない外見の神髄を見た気がした。

そして、彼の向かい側に座っていたのは、

「風見!よかった、本当に無事だったんだな」

いつもとフレームの異なる眼鏡を掛けて、頭に白い包帯を巻いた風見裕也だった。

「降谷さん、申し訳ありません。少々しくじりまして」

僕は風見の向かい側のシートに腰を下ろして、彼が頭を下げようとするのを手で制した。



「いや、いいんだ。君の命に別状がなかったことが何よりの収穫だからな」
「俺のアクセラはお亡くなりになりましたけどねー」

横からすかさず茶々を入れる谷川を、風見は短く叱責した。

「こら、鈴木。話を混ぜっ返すんじゃない」

そういう風見も、彼の名前を覚える気はさらさらないらしい。覚えたくても覚えられない、といった方が正しいのかも知れないが。

「まあまあ、愛車が大破する哀しみは僕にもよく解るよ。日本の車両保険では、戦闘による損害なんて適用されないだろうしな」
「降谷さんの場合は、半数以上は自業自得では……」
「何か言ったか?風見」
「いえ、何でもありません」
「そうか、それならいい。ところで、」

僕はここで言葉を区切り、オーダーを取りに来たウェイターにブレンドコーヒーを注文すると、

「一体何があった」

しっかりと風見の顔を見据えて、そう問い質した。風見の方も隠すつもりは毛頭なかったのだろう、幾分声を潜めて語り始めた。

「自分は今朝から、以前降谷さんに報告を上げていた、例の製薬会社の支社を訪ねていました」

今日風見が訪問していたのは、千葉に支社を置いているとある中小製薬会社であり、用があったのはそこに勤める上級研究員の1人だった。その研究員は、他国の外資企業が日本での研究施設を探しているからと、不良債権化していた房総のとある研究所を居抜きで売ったのだという。

「どうせ売ったのは施設だけじゃないだろう。他には何を?」
「膀胱炎や感染症の治療に効果があるからと言って、ヘキサミンや無水酢酸を大量に横流ししたとのことでした」

ううん、と僕らは揃って腕を組み、小さく唸った。
ヘキサミンは通常、尿路感染症や膀胱炎などの治療に使われる薬品だが、硝酸アンモニウムと無水酢酸でニトロ化すればRDXを作ることが出来る代物だ。RDXとは、コンポジションC4、プラスチック爆薬の主原料である。300グラムもあれば旅客機が落ちる。

「どれだけの量を横流ししたって?」
「10キロを5回、だそうです」
「爆薬を作るには十分すぎる量っすね……」
「旅客機が150回は落とせるな……」

無論、薬が横流しされていた事実を突き止めたからと言って、これで事件が解決する訳ではない。生成されたであろう爆薬を誰が手に入れ、どう使うかを突き止めることこそが、僕らに課せられた役割である。

「それで、その研究員は?」
「自分が何に加担させられたのか、いまいち解っていない様子でした。仮にも上級研究員なら、ヘキサミンと無水酢酸という組み合わせの危険性に考えが及ばないはずがないんですがね」
「欲に目がくらんだんですかねー」
「恐らくはな。嫌になる話だ」

風見が湾岸線で襲撃されたのは、それから1時間後の話である。湾岸千葉のインターに立ち寄り、パーキングからアクセラを発進させた矢先に、突如としてそれはやって来た。

「助手席側のサイドミラーに、猛然と突っ込んでくるバイクが写ったんです。ホンダのCB400に乗った人物が、ライダースーツのチャックを開けて胸元から何かを取り出そうとしているのが見えました」

フルフェイスのヘルメットを被ったその相手が男だったのか女だったのか、確認する術はなかった。その時風見の目が瞬時に捉えていたのは、ロングバレルの拳銃だった。
それがゆっくりと自分の座る運転席に向けられることを予測して、風見は即座にシートベルトを外してドアを開けた。まろぶように車道に飛び出し、アスファルトの上に膝を打ち付けたその時、フルオートの火線が伸び、助手席のガラスが粉々に砕け散ったのだという。
連射は2秒にも満たなかった。風見がようやく割れた眼鏡を掛けなおし、ボンネットに身を寄せて顔を上に向けた時には、悠々と立ち去ろうとするCB400の後姿しか見えなかった。

恐る恐る車内に目を向けると、そこには見るも無残になった後輩の愛車と、数えきれないほどの穴が開いたシートに飛び散った自分の血痕が残っていた。そこで初めて、風見は自分の額を弾丸が掠り、創傷を作っていることに気が付いた。あとコンマ1秒でも動き出すのが遅ければ、ハチの巣になっていたのは車のボディではなくて、風見の体だったであろうことは想像に難くない。

「二輪か。中々いい狙いをしているな」
「確かに。二輪だったらNシステムにも記録されませんからね」
「それに、ヒットアンドアウェイですぐにその場を立ち去るあたりも、相当頭が切れる証拠です。普通だったら、確実に獲物を仕留めたか否かを確認してから立ち去ろうとするはずですから」

騒然となった湾岸線内で、風見はどうやってこの場から穏便に立ち去ろうかと必死に頭を巡らせたのだという。結局、風見1人ではその場を穏便に収めることなど出来るはずもなく、三浦公安総務課長にまでお出ましいただく事態になった。

「ああ、あの黒いセダンは公総課長の車か。どうりで見覚えがあると思った」
「課長自身は先ほどカイシャ(本庁)に戻られました。車は足に使えと言って」
「わお、太っ腹ー。今度は事故って傷なんか付けられませんね。首が3回は飛びますよ」
「怖いことを言うんじゃない」

谷川の茶化すような言葉に、風見は辟易したように頭を抱えた。この襲撃事件のせいで大幅に足止めをくらい、東京に戻ってくるのが予定よりも2時間ほど遅れたのである。彼の遅れはそのまま事件の解決の遅れに直結する。
だが、風見は無事に戻ってきたし、幸か不幸か彼が無駄に足止めを食ったお陰で、僕もこうして直々に動きが取れるようになった。

ここからは、反撃のターンといこうじゃないか。

「よし。それじゃ、ここからが正念場だ。なるべく残業時間を少なく終えられるように、気合いを入れて臨んでくれ」
「はい!」
「りょーかいっす」

運ばれてきたブレンドコーヒーをゆっくり味わう暇もなく、カップを一息に呷ると、僕は伝票を手に立ち上がった。


(文庫本に挿絵イラストは含まれません)