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の香りがした。

ことことと規則的な音を立てるミルクパンから、豊かな柑橘系の香りが広がっていく。ボルドー生まれのブドウの芳醇な酸味と、レモンピールの渋みが化学反応を起こして、ほのかな甘みを生み出していた。クローブの刺激的な香りがちょうどいいアクセントになっている。
鍋の中に入っているのはワインである。上級者向けのトロッケンではなく、ソーヴィニヨン・ブランを使ったソーテルヌ。赤ではなく白を選んだのは、このワインを一緒に飲む相手に気を遣った結果である。

(あとはここに、グラニュー糖じゃなくてこっちを入れて、と)

私は次の工程を頭の中で唱えながら、黄色い液体の入った瓶の蓋を開けた。とろみのついた甘ったるい香りのそれは、ニュージーランド産のマヌカハニーである。ハニーディッパーを使って適量を掬い上げると、私はそれをミルクパンの中にとろりと落とした。それから最後の仕上げに、シナモンスティックを使って鍋全体をゆっくりとかき混ぜる。
シナモンの香りが全体に生き渡ったのを確認すると、私はすぐに火を止めた。くるりと振り返って腕を伸ばし、食器棚の扉を開ける。自分の頭よりもずっと上の棚にマグカップの持ち手が見えて、私はそれを取ろうと懸命に背伸びをした。

「んっ、……もうちょっと、なのに……」

けれど私の手はマグカップに触れることはなく、その下で空を切った。このまま一人で格闘していても埒が明かない。何か踏み台になるものを持ってこよう、と思って一旦食器棚の前から退こうとすると、背中に何か固い感触のものが触れた。
それの正体が何かを考える間もなく、力強い腕が私のお腹に回される。首筋を擽る少し湯冷めした指先の感触に、私は待ち人がようやく浴室から戻ってきたことを知った。

「零さん」
「いい匂いがするな。グリューワインか?」

すん、と鼻を鳴らして匂いの許を確認すると、彼は私の頭上の食器棚に手を伸ばした。私があれだけ苦労しても届かなかったマグカップをあっさりと掴んで、「ん」と私に差し出してくる。こういう時、彼が上背のある男の人なのだということを思い知らされて、どきりと胸が高鳴ってしまう。

「ありがとう。お土産で持って帰ったソーテルヌを開けてみたの」
「白ワインでも、グリューワインは作れるんだな」
「ええ。一般的には赤のイメージがあるけれど、白で作ってもおいしいのよ」

零さんを背中に引っ付けたまま、私はマグカップを二つ持ってコンロの前に戻った。ホカホカと湯気を立てるミルクパンの中身を見て、へぇ、と小さな感嘆の声が背後から聴こえてくる。

「リンゴが入っているのか。道理で清涼感のある匂いがすると思った」
「サングリアみたいな風味になるから、アルコールをしっかり楽しみたい人には向かないけどね。ナイトキャップ代わりに呑む分には、構わないかと思って」

ワインをマグカップに移し終えて、鍋の底に残ったリンゴの切れ端をお箸でつまむと、私はそれを零さんの口許へ持って行った。疑いもなく開かれた口にそれを放り込むと、自分でもつまみ食いしようと顔を前に向ける。
けれど私のお箸がリンゴをつまむ前に、零さんの手が先に伸びた。ほんのり黄色く染まったリンゴを指で直接挟み、私の唇に近付ける。

「ほら、あーん」
「ん。……んぅ」

促されるままに口を開いてリンゴを味わおうとすると、果肉ごと奥に押し込むように彼の指が私の咥内に侵入してきた。うっかり彼の指を噛んでしまわなくてホッとしたけれど、反対側の手で顎を捉えられているせいでかなり苦しい。

「っ、……れいさん」
「指が汚れた」

彼は私の抗議に対して端的な返事をよこした。

「だから、舐めて綺麗にしてくれ」

指が汚れたって、自分から鍋の底に手を突っ込んだくせに。私は恨みがましく視線でそう訴えたが、彼はどこ吹く風といった態度で私のうなじに唇を落とした。ぞくりと悪寒が走り、口に含んだ彼の指を思わず甘噛みしてしまう。



「さくら……」
「ん……、ふ、」
「可愛い、さくら」

ふと吐息だけで笑ったかと思うと、彼は私の顎から手を外し、そのまま私の胸元に這わせてきた。服の上から感触を確かめるように撫でられて、ぴくりと肩が揺れ動く。つい数十分前まで直接嬲られていた記憶が生々しく呼び起こされ、再びいけない気持ちが芽生えそうになったが、さすがにこれ以上好き勝手にさせる訳にはいかないと、私は心を鬼にして彼の指を咥内から引き抜いた。

「……もう!さっきまで散々触っていたでしょう、今日はもうだめだってば」

私が彼の両手首を押さえて睨み付けると、彼は残念、と言いつつ大人しく力を抜いた。

「流されてくれるかと思ったのに」
「だぁめ。明日が休みの私はともかく、あなたは明日も朝からポアロでしょう?寝坊したら梓にも迷惑が掛かるんだから、眠れるときにしっかり眠らないと」

ほら、と言って私は作りたてのグリューワインを彼の眼前に差し出した。彼は苦笑しながらそれを受け取ると、キッチンを出て食卓に腰を落ち着けた。

「それで、どう?ソーテルヌで作ったグリューワインのお味は」
「うん、おいしいよ。上品な甘みとすっきりした飲み口がちょうどいい」
「よかった。レシピ自体は簡単だから、私が居ないときは零さんも自分で試してみて」
「いや、それは別にいいかな」

零さんはあっさりと私の提案を退けた。考える間もなく即答である。私が驚いて首を傾げると、彼はマグカップに口を付けて頬を緩めた。

「僕に一人酒の習慣はないし、わざわざワインを飲むためだけに、ここまで手間暇をかけるほどの余裕は滅多にない。それに、君が作ってくれたワインだからこそこんなにおいしく感じるのであって、自分で作ってもさほど感動はしないだろう」
「そういうものかしら?」
「そういうものさ。だから僕がグリューワインを飲むときは、君がこうして僕のために心を込めて作ってくれた時だけだ」

彼は目を細めて微笑むと、優しい手付きで私の頬を撫でた。ワインの温かさが移ったのか、さっきまでは少し冷たかった彼の指先は、今はぽかぽかした温もりに包まれていた。

「そんなに気に入ってもらえたのなら、また明日も作ってあげる」
「ああ、それはいいな。君のグリューワインというご褒美があれば、今日の仕事も頑張れそうだ」
「ワインだけじゃなくて、料理も準備して待ってるわ」

だから早く帰って来て、と甘えたように言うと、零さんは嬉しそうに破顔した。

「それじゃ、早く帰って来られるように、おまじないをさせてくれ」
「おまじない?」
「ああ。さくら、目を瞑って」

言われるままに瞼を下ろした私の肩を掴み、零さんはそっと身を屈めた。あたたかな唇が触れ合って、肉厚な彼の舌が私の歯列をなぞる。求めに応じて口を開けば、彼は私の後頭部を引き寄せて更に唇の繋がりを深くした。

「……っ」

甘ったるい香りがする。リンゴと蜂蜜と、それから濃密なワインの香り。
鍋で温めた時点でほとんどアルコール分など飛んでいるはずなのに、じんわりと頭の芯が痺れるような感覚がした。
彼の唇が離れていく頃には、私はすっかり呼吸も上がって、目尻にうっすらと生理的な涙を浮かべていた。

「は……、零さん……」
「ああ、その顔、すっごくいいな。お預けにされるのがもったいないくらいだ」
「……がっつきすぎよ。もう少し手加減して」
「ごめんごめん。でも、さくらの唇、いつも以上に甘かったよ」

ご馳走様、と言って零さんは私の手から空っぽになったマグカップをかすめ取った。あ、と小さく声を上げた私に構わず、彼はそのままキッチンに入っていく。

「後片付けは僕がやっておく。さくらも早く風呂に入ってくるといい」
「でも、零さんの睡眠時間が」
「これっぽっちの片付けをしたくらいで、大して時間は掛からないさ。心配しなくても先にベッドに入って寝てるから、シャワーが終わったらさくらもおいで」
「……解ったわ。ありがとう」

こうなったら零さんは梃でも引かないだろう。私はありがたく彼の申し出を受けることにして、バスタオルと着替えのパジャマを取りに彼の寝室へ向かった。

とろけそうなほど甘ったるい、冬の香りがした。
幸せな予感に満ち溢れた、冬の一日が始まろうとしていた。


(文庫本には挿絵イラストは含まれません)