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陽菜さんの宿泊する403号室に到着すると、私は彼女の手から鍵を受け取って解錠した。真新しい一等地のホテルにしては珍しく、扉にはシリンダー錠が1つしか付いていなかった。古い洋館というコンセプトを活かすために、敢えて所々レトロな造りになっているらしい。

沖矢さんが陽菜さんを寝室に連れていく間、私は室内に併設されているミニバーからミネラルウォーターの瓶を1本取り出した。栓抜きで開封し、コップと一緒にそれを手渡すと、彼女は恐縮しながら頭を下げた。

「本当にありがとうございました。初対面の方にこんなにご迷惑をお掛けして、申し訳ありません」
「いいえ、あまり気に病まないでください。私は沖矢昴といいます。この子達の引率のために、今回のパーティーに出席させてもらいました。そちらのお名前を窺っても?」
「あっ、そう言えば、きちんと自己紹介もしていませんでしたね」

陽菜さんは一口ミネラルウォーターを嚥下して、沖矢さんの顔をまっすぐに見つめた。

「私は武笠陽菜といいます。このホテルの支配人の地引睦夫さんの甥っ子である、本戸理人さんの婚約者です」
「武笠さんですね、初めまして。その婚約者の方は、あのパーティー会場にいらっしゃらなかったんですか?」
「いいえ、20分前までは一緒に居ました。だけどついさっき、何かの用事を思い出したようで、義父と一緒にどこかへ行ってしまったんです」

彼女にとっての義父、つまり婚約者の父親である本戸彰一は、このホテルの経営主体である地引グループに融資している銀行の頭取なのだという。その縁で地引睦夫の妹の倫子と出会い、結婚に至ったのだと彼女は語った。

「私と理人さんも、お2人のような夫婦になれたら……と、ずっと憧れていたんです。でも最近、本戸家の皆さんの様子が少しおかしくって」
「様子がおかしい?」
「はい。お義父さまもお義母さまも、近頃妙によそよそしいというか、お互いにイライラしていらっしゃって。そのせいかどうか解りませんが、理人さんも精神的に不安定になっているというか、その……」

彼女は歯切れ悪く言葉を繋いで、そっと額と左足首を手で押さえた。
その仕草を見て、私はとある可能性に思い至って息を呑んだ。沖矢さんとコナン君も、私と同じような顔をして陽菜さんをじっと見つめている。
真っ先に踏み込んだのはコナン君だった。

「ねえ、陽菜さん。ひょっとしてその傷、理人さんに付けられたものなんじゃない?」

コナン君の言葉に、彼女はびくりと肩を震わせた。明らかに図星を刺されたのだと解るその態度に、私たちは揃って渋面を作る。
どこの恋人同士にも何かしらの問題は潜んでいるものだと思っていたが、まさか彼女が婚約者からDV被害を受けていたなんて。しかもその間接的な原因が義両親の不仲にあるなんて、本来他人であるはずの彼女にとっては巻き添えを食らったとしか言いようがない。

「そんな状態で、今晩一緒の部屋に泊まって大丈夫なんですか?」
「……解りません。でも、今あの人を支えることが出来るのは、私だけだと思うから」

典型的な“ダメ男に毒されているDV被害者”の発言である。今すぐに彼女をこの部屋から連れ出したい衝動に駆られたが、部外者がどこまで口を挟んでいいものか解らなくて、もやもやを抱えたまま私は何も言うことが出来なかった。

部屋の中が重苦しい沈黙に包まれたその時、コンコン、と扉を叩く音がして、私はベッドルームを後にした。

「はい……、あっ、安室さん!」
「さくらさん。彼女の様子はどうですか?」

ドアの向こうから顔を見せたのは零さんだった。その後ろには、紺色のイブニングドレスに身を包んだ、細身のシルエットの女性が立っている。

「ええ、もう随分落ち着かれたみたいです。ところで、ええと……」
「ああ、この方は武笠陽菜さんの義理の母親にあたる、本戸倫子さんです。パーティー会場で偶然お会いできたので、陽菜さんの容態をお伝えしたら、様子を見に行きたいと仰って」
「そうなんですね。すみません、息子さんのお部屋なのに我が物顔で居座ってしまって」

私が慌ててドアの前から退き、本戸倫子に道を開けると、彼女は鷹揚に笑って部屋の中に足を踏み入れた。

「いいえ、私共の身内が大変なご迷惑をお掛けしました。このあとは、私が陽菜さんの面倒を見させていただきます」
「それなら、子供たちにもそう伝えてきます。少しこちらでお待ちください」

リビングルームに彼女と零さんを残し、私は再びベッドルームに舞い戻った。さすがにお身内の人間が駆け付けたのなら、これ以上は私たちの出る幕はない。婚約者と2人にしておくのは心配だが、その母親が相手ならば問題はないだろう。

「義母が……?私を、心配して?」
「はい。本当は理人さんが戻られるまでご一緒できればよかったんですが」

他人の私たちよりも、将来家族となる義母が面倒を見てくれる方が彼女にとっても気楽だろう。彼女は何かを言いたそうに口を開いたが、これ以上初対面の人間を引き留める訳にはいかないと思ったのか、結局名残惜しげに微笑んで「そうですか」とだけ言った。

「沖矢さん、さくらさん。それから歩美ちゃん達も、心配してくれてありがとうございました。明日チェックアウトする前に、ぜひ何かの形でお礼をさせてください」
「いいえ、今はそんなことを気にする前に、ゆっくりと体を休めてください。おやすみなさい、陽菜さん」
「また明日ね、陽菜お姉さん!」
「ええ。おやすみなさい」

ぶんぶんと陽菜さんに向かって手を振る歩美ちゃんと連れ立って、私は403号室を後にした。色々あって時間が経つのも忘れていたが、既に時計は9時を回っている。子供たちは沖矢さんに連れられて401号室へ、コナン君は毛利さんの待つ407号室へと引き上げた。

402号室へ