お巡りさんと子猫ちゃん


「そこの君、ちょっとごめんね。もしよかったら、少し話を聴かせてもらってもいいかな?」

そんな言葉と共に力強い手に腕を強く掴まれたのは、深夜に差し掛かろうという午後11時のことだった。

このころの私は、有り体に言えばグレていて、滅多に家にも帰らないし通っていた高校にもめっきり足が遠のいているような状態だった。理由は何のことはない、両親の再婚による家庭内不和という、実によくある話である。何をしているのかは知らないが、滅多に家に帰ってこない母から「新しい父と義理の兄だ」と聴かされた男は私を不愉快な色を帯びた目で見るようなクズどもで、却って家にいると身の危険を感じるようになったことから、私は友人や彼氏の家を渡り歩いて生きていた。髪の毛を脱色し、校則違反の服に身を包み、家族や教師への当てつけのように乱暴な言葉遣いや振る舞いをする。そうすることで私は“悲劇のヒロイン”ぶりたくなる弱い自分を叱咤していたのだ。

けれどそういう私の事情を理解し、庇護しようとしてくれる大人はいなかった。

(大人なんてみんな、自分の思い描く型に嵌らない子供を排除すればいいと思ってる連中ばっかりなんだ。見て見ぬふりをすることが、事なかれ主義を貫くことが賢い生き方だと思ってるんだ)

こんなことを考えている自分こそが、大人を“大人”という型に嵌めた考え方しかしていなかったのだと、この時の私には気付くことが出来なかった。

だからこそ、今までに会ったことのない人種の“大人”に出会って、私はとても困惑した。

「…………は?」

この日も、いつもと変わらない1日の終わりを迎えるはずだった。私と同じ、“優等生”の枠からあぶれてしまった友達と一緒に遅くまで遊び倒して、大学生の彼氏の家に泊まりに行く。そんな自堕落で気楽な1日の終わりを迎えるのだと、私は信じて疑わなかった。
この、糊のきいた制服に身を包んだ、正義感の塊のような男に声を掛けられるその時までは。

「…………。アンタ誰」

私が彼に向けて発した栄えある第一声は、そんな素っ気ないものだった。素っ気ないを通り越して不躾ですらある。けれど相手は私の態度に気分を害した様子もなく、私の腕を掴む手に益々力を込めてきた。
暗がりの中から私に声を掛けてきた男は、真新しい制帽を目深に被った、初々しい匂いのするお巡りさんだった。

これはもしや、あれだろうか。人生初の職質とかいう奴だろうか。何か胸ポケットから警察手帳とか取り出してるし、新手のナンパではないのだろう。

「僕はそこの新宿署に勤務している警察官だ。怪しい人間じゃないよ、ほら」
「はあ。お巡りさんが、私に一体何の用?言っとくけど、何も悪いことなんかしてないよ」
「でも、君は見たところまだ未成年だろう?未成年が保護者の同伴もなしに、こんな時間に外を出歩いているのは感心しないな」
「保護者なんて必要ない。周りに私を保護してくれる大人なんていない」

突っ慳貪にそう返すと、彼はふむ、とこちらの言い分に相槌を打つかのような声を発した。

「君、名前は?」
「…………。のぞみ」
「のぞみちゃんか。君が保護者の方と仲が悪いのは解ったけど、これからどこに行くつもりなのかな?」
「どこだっていいでしょ。っていうか、ちゃん付けやめて。気持ち悪い」
「ああ、ごめん。でも、小中学生の子供を呼び捨てにするのはどうかと思って」

私もかなり失礼な態度を取っていた自覚はあるが、相手の男は輪をかけて失礼だった。頭の中でブチッと何かが切れる音がして、私は掴まれていた腕を乱暴に振りほどいた。

「ざっけんな!私はもうそんなに子供じゃない!」

叫んで、私は怒りに任せて地を蹴った。軽い足音が辺りに反響し、その音に自分でも情けなくなる。

私は同年代の女の子の中でも、際立って身長が小さかった。145cmという中学生でもあまり見かけないような身長のせいで、これまで散々不当に子ども扱いをされてきたのだ。
だからって、私は大人の庇護が必要な小さな子供なんかじゃない。あんな新米警察官なんかに説教されなきゃいけないほど、世の中のことを解っていない訳じゃない。

ヴー、ヴーとパーカーのポケットの中でスマホが鳴る。彼氏からの着信だ。私の到着が遅いことを訝しんでいるのだろう。

(ったく、余計な時間食わされて、マジで最悪!)

そのまま廃工場の立ち並ぶ路地を抜け、彼氏からの着信を取ろうとした時だった。重い足音が背後から迫って来て、私の肩を覚えのある熱い掌が包み込んだ。
あのお巡りさんだ。実にあっさりと追いつかれたことで苛立ちが頂点に達して、私はがむしゃらに暴れた。

「っ、離して!」
「待ってくれ、悪かった!謝るから、僕の話を聴いてくれ!」

お巡りさんは困ったような声を発して、私の体を工場の壁に押し付けた。顔の両脇についた彼の腕で私の体はすっぽりと覆われ、周囲が見えなくなってしまう。
男は上背のある体を屈めて、私の顔をじっくりと覗き込んできた。

「本当に悪かった、君はもう子供じゃないんだな」
「……そうよ。大人なんかに頼らなくても、私は自分の力で生きていけるの!」
「でも、君は大人でもない」
「っ!」

痛い所を突かれて、引き攣れたような声が漏れた。もう子供じゃない、だけど大人にもなれない。自分でも解っているのだ。いくら子供じゃないと喚いたところで、大人には太刀打ちできないのだと。
私の視界を埋め尽くす男は、頭の中を全て見透かしたような蒼い瞳で私の葛藤を暴いてみせた。

「これまで君は、周りに頼れる大人がいなくて、肩肘を張って生きていくことしか出来なかった。だからこんな時間に外を出歩くような真似をしていたんだろう」
「…………」
「でも、大人というのは案外馬鹿な生き物でね。子供に指摘されないと、自分に非があることに気付けないんだ」

ついさっきの僕のようにね、と彼は幼さの残る顔に自嘲ともつかない笑みを浮かべた。

「でも、僕は君のお陰で目が醒めた。君のうわべだけを見て判断するんじゃなくて、君の中身を知りたいと思った」
「……何それ。口説いてるの?」
「口説……、そうだな。そう受け取ってもらっても構わない」

怒らせようと思って口にした冗談を、彼は思いのほか真面目な顔で肯定した。思ってもみなかった答えに、私の方が驚きに目を丸くする。
ここで彼は被っていた制帽を取って、私に向かって朗らかに微笑みかけた。

「乱暴にして悪かった。だけど、僕は“君を保護してくれる大人”になりたいと思う。……もしよかったら、少し話を聴かせてもらってもいいかな?」

彼は最初に私に声を掛けてきた時とそっくり同じ言葉を、全く違う温かさを持った声で問いかけた。

ヴー、ヴーとポケットの中でスマホが鳴る。彼氏からの着信だ。けれど私の耳にはもう、そんな微弱な音はちっとも入ってこなかった。
腕が熱い。秋の入り口に差し掛かり、幾分涼しくなってきたはずのこの気温の中で、男の色黒の手に掴まれたそこだけが、まるで発熱でもしているかのように熱かった。
今まで見たことのない人種の“大人”である彼を、私ももっと知りたいと思った。

「……いいよ。お巡りさんのこと、信用してあげる」

肩から力を抜いて私は答えた。この時、自分でも気付いていなかったけれど、私は泣きそうな顔をしながら笑っていたらしい。それは私が家を出てから初めて浮かべた、心の底からの笑みだった。

「ありがとう。それじゃ、ここだと味気ないからパトカーに乗ってもらおうかな。すぐそこに停めてあるんだ」
「人生初のパトカーじゃん。ラッキー」
「ラッキー……かな?まあ、嫌がらないでくれて助かるよ」
「何事もラッキーだと思うことにしてるんだ。そうじゃなきゃ、今頃とっくに心が壊れちゃってるよ」

軽口を叩きながら、私はお巡りさんの手に引かれるままパトカーに乗り込んだ。ポケットの中のスマホは、いつの間にか静かになっていた。どうせ女子高生の体目当てで付き合っていた男である。今後この男から連絡が来ることはないだろう。

「ねえ、お巡りさん」
「ん?」
「お巡りさんの名前、何だったっけ」

窓の外を眺めながら質問すると、彼はさっき警察手帳を見せただろう、と言って笑った。そんなのいちいち覚えてないよ、と答えると、彼は薄く笑ってこう言った。

「そうだな。……その答えは、君が僕の質問に答えてくれたら教えてあげようかな」

彼という大人は、私という人間の扱いをこの短時間であっさりとマスターしてしまったらしい。目の前にぶら下がった餌に、私は喜んで食いついた。

こうして私と彼、“新宿署に勤める新米お巡りさん”の長い付き合いが始まったのだ。





「今にして思えば、なぁーにが“新宿署のお巡りさん”なんだか、って感じですけどね……」

トントン、と白いRX-7の助手席の窓を叩きながら、私は小さく肩を竦めた。運転席でハンドルを握る男は、私のぼやきを耳に入れて「ん?」と首を傾げる。

「随分懐かしい設定だな。いきなりどうした?」
「うっわ、設定とか自分で言っちゃう?言っときますけど、あれは完全に詐欺の手口ですからね!偽名で私に近付いて、偽の警察手帳まで作って、私の義理の父の情報を得ようとするなんて!」
「悪かったよ。でも、君の懐に入るためにはあのやり方が一番有効だろうと思ってな」
「だから、そういう所が詐欺だって言ってるんです。JKの純情な気持ちを弄びながら、陰では笑ってたんでしょう?」
「笑ってなんかいないさ。君の父親―――新興宗教法人の重役だったあの男から、君と君のお母さんを助けようと奮闘した男のことを、もう忘れてしまったのか?」

そう言いつつ肩が笑っている。私はむう、とへの字に唇を曲げて降谷さんの脇腹に軽く拳を入れた。

降谷さんとの付き合いもこれで5年目になる。悪質な詐欺師だった義理の父の逮捕から4年半が経ち、私は大学生になった。身長はあれ以来伸びることはなく、今も145cmのままだ。同級生からはやっぱり子ども扱いをされるけど、今はそれを不愉快とは思わない。
隣にいるこの男が、私を大人の女として認めてくれているからだ。

「そういえば、就職決まったんだってな。お祝いにおいしいお酒でも贈ろうか」
「どうせなら、一緒に飲みましょうよ。ソーヴィニヨンのサンセールがいいなー」
「ここぞとばかりに高い酒を……」
「協力者のご機嫌はちゃんと取っといた方がいいですよ?」

にやにやと笑ってそう持ち掛けると、彼ははあ、と大きなため息を吐いて解ったよ、と言った。
その頑是ない子供を宥めるような響きの中に、隠しきれない甘さを感じ取って、私はころころと声を立てて笑った。