君にリンドウの花束を


どう思う?
と、彼女は訊いた。

「どうって、何が?」
「もう、この朴念仁!今日はいつもとちょっと違うな、とか思わないわけ?」

彼女はぷっくりと頬を膨らませて不満を訴えた。漫画だったら頭上にぷんすこ、と文字が躍っていたことだろう。その表情可愛いな、と素で思いながら、僕は小さく首を捻った。

「……いつもとどこが違うんだ?」
「嘘でしょ、本当に気付かないの?いつもとこんなに違うのに」
「うーん……?」

目を細めて彼女の顔を見つめても、残念ながら僕の目には普段との違いが解らなかった。いつも通り、僕の彼女は美人だなと思うのが精々である。

「前髪切った?」
「それは先週。今日は違いますー」
「睫毛の量増やした?」
「まつエクには頼ってません。全部自まつげですー」
「……リップの色変えた?」
「ブッブー。前に降谷がプレゼントしてくれたのをずっと使ってます」
「うーん……」

色々と挙げてみたが、全部違うと言われてしまった。やっぱり当てずっぽうに答えるのではなく、記憶の中の彼女と比べてみるしかないらしい。
しかし、彼女はこれ以上僕に猶予を与えてはくれなかった。

「はい、残念だけど時間切れ。正解はぁ」

ここで彼女はくるりと爪先でターンを決めた。ふわりとスプリングコートの裾が翻り、裏地のチェック柄がのぞく。
その時、彼女の耳元で何かが光ったような気がして、僕は「あっ」と声を上げた。

「じゃじゃーん。ピアスホールを開けてみた、でした!」

彼女ははきはきした口調で正解を告げると、見せつけるように僕に顔を寄せてきた。

「どう?可愛い?」
「あ、ああ。可愛いよ。気付かなくて悪かった」
「ふふっ。これで、来週の私の誕プレの中身は決まったね!」

遠回しに(むしろ一周回って堂々と)新しいピアスを催促してくる彼女に、僕は仕方ないなと肩を竦めた。

「解ったよ。次に会う時までに、君に似合いそうなピアスを用意しておく」
「何言ってんの。私のピアスを買いに行くんだから、私も一緒に行くに決まってんじゃん」
「え?」
「そうしたら、降谷と買い物デートできる口実にもなるしね」
「あー、そうか。なるほど」

ようやく合点が言ったというように何度もうなずくと、彼女は「降谷は本当に朴念仁なんだから」と笑った。その朴念仁が好きなくせに、と僕が唇を尖らせると、彼女は小さく身を乗り出して、

「大好きだよ?」

と、何の衒いもなく答えた。
子供のように純粋なその笑顔に、僕は性懲りもなく胸を高鳴らせた。彼女のこんな顔が見られるなら、多少の我儘を聴いてやるくらいお安い御用だと思った。
要するに、僕はこの時彼女にベタぼれしていたのだ。

「……僕も好きだよ」

何となく気恥ずかしくて。彼女の顔から視線を逸らしてそう答えると、彼女は珍しいこともあるものだと言わんばかりに大きな目を丸くして、

「知ってる」

と言ってまた嬉しそうに破顔した。
春の日差しのように朗らかな、その場の空気をぱっと明るくしてくれるような笑顔だった。願わくは、この笑顔をずっと隣で見守っていきたいと思っていた。

何回だって何十回だって、彼女と抱き合って手を繋いでキスをして、思い出すたびにニヤけてしまうような思い出を彼女と作っていこうと、僕は本気で思っていた。





どう思う?
と、彼女は訊いた。

「……どうって、何が?」

僕は自分の声が震えないように、可能な限り平静を装って尋ねた。それでも彼女は僕の感情の揺らぎを確かに感じ取って、困ったように苦笑した。

「私の口から言わせるつもり?やっぱり降谷は、何年経っても朴念仁だね」

その言葉に言いようもない懐かしさを覚えつつ、僕はただじっと彼女の左手を見つめた。
もう二度と動くことのない、三角巾に吊られた腕を見つめた。

「私はさ、強い人間じゃないから」

“こんな”になってまで、あなたの隣に居る自信がないなぁ、なんて。
と、彼女は淡々とした口調を崩さないまま言った。
彼女の顔色は、その身を横たえている病院のベッドシーツにも負けないくらい白かった。

「……警察を辞めるのか」
「そうなるかな。実を言うとね、もうとっくに、“校長”には辞表を提出したんだ」
「何だって?それは初耳だぞ」
「そりゃあそうでしょ。今初めてこんな話をしたんだもん」
「いつ校長と会ったんだ?君がこの病院に搬送されたのは、昨日の晩のことだぞ」
「今朝一番にお見舞いに来てくれたの。その時に、校長の方から辞表を持ってきてくれてさ」
「……、……」

煮えたぎるような嫌悪感が腹の底で渦を巻いた。校長というのは、僕たちゼロを束ねる警察庁警備局警備企画課の第2理事官(ウラの理事官)の通称である。大事な部下が命にかかわるようなケガを負って、それでも必死に任務を遂行してきたばかりだというのに、その功を労わるでもなく、いきなり辞表を突きつけるなんて。いくら何でも性急すぎやしないだろうか―――なんて甘っちょろい考えが浮かんでしまうのは、切り捨てられる対象が自分の恋人だからである。もしもその相手が彼女でなくて赤の他人だったなら、僕はそれを当然のことと受け止めて、歯牙にもかけなかったことだろう。

そうと自覚していても、僕の内心は穏やかならざるものが広がっていた。だが却って切り捨てられる側の彼女の方が、僕よりも冷静に自分の処遇を受け止めているようだった。

「で、」
「で?」
「私がさっき“どう思う?”って訊いたのは、仕事のことだけじゃなくってさ」

私たち、ここで別れた方がいいんじゃない?
と続くであろう言葉を、僕は指先を彼女の唇に触れることで遮った。

「僕は君と別れるつもりはこれっぽっちもないぞ」
「…………」
「左半身が動かなくなった。だから何だ?僕は別に、君が僕の仕事上のパートナーだから君と交際していた訳じゃない」

僕がそう言って彼女の頬に手を滑らせると、初めて彼女の顔がくしゃりと歪んだ。

「無理だよ……。私、これ以上あなたの隣に立つことなんかできない」
「どうして無理だと言い切れる?」
「だってこんな、身体が半分動かない女が傍にいたって、あなたには何の得もないし」
「何度も言わせないでくれ。僕は君と付き合うことが“得になる”から君と付き合っていたわけじゃない」

頬に添えた手に、熱い雫がこぼれ落ちる。彼女は唇を震わせながら、懸命にかぶりを振った。

「……いつか、私があなたの重荷になる時が来るよ。その時に後悔したって遅いんだよ」
「そうかもな」
「もっと気楽に付き合える女の方がいい、って思う時が絶対に来るよ。その時になって“別れろ”って言われたって、私、素直に頷けないよ」
「うん」
「今、こんな風に甘やかされたら、二度とあなたの手を離せなくなっちゃうよ……」

とうとう右手で顔を覆って泣き出した彼女を、僕はそっと抱き寄せた。ようやく素直になってくれた恋人の我儘を、僕は満面の笑みで受け止めた。

「ああ。そうしてくれ」

頑是ない子供を宥めるように頭を撫でると、彼女は大きくしゃくりあげながら片手で僕にしがみついた。僕を手放そうとしていた言葉とは裏腹なその腕の力強さに、僕はこらえきれずに肩を揺らして笑った。

「最悪を想定して予防線を張るのは、公安警察の心がけとしては悪くない。だが、」
「……?」
「いつ訪れるかも解らない悪い未来を予測して、今目の前にある可能性を切り捨てられちゃ堪らないな。言っておくが、僕はこう見えてかなり諦めの悪い性格なんだ」

だから今は、お互いを好きだという気持ちだけを大事にして、僕と一緒にいてくれませんか。そう問いかけると、彼女は整った顔に不細工な泣き顔を浮かべて、こくこくと何度も頷いた。
何回だって何十回だって、彼女と抱き合って手を繋いでキスをして、甘くて切ないこの気持ちを忘れないようにしよう、と僕はこの時心に決めた。