END GAME


※そしかい捏造


“その日”は前触れもなくやってきた。
それは雲間から落ちてくるように、コンクリートの割れ目から染み出るように、ごく自然に沸き起こった。

暴動の最初の蜂起ほど異様な空気を纏ったものはない。それらの空気は、黒ずくめの組織が拠点を置いているビルディングのいたる所で、全てが同時に破裂した。
火花は一瞬のうちに大火となって、黒ずくめの組織を、そして僕たち警察を包み込んだ。あたかもひとつの雷鳴の中にひらめく数多の電光のように、この場に立つ全ての者の瞳には憎悪の炎が宿っていた。

この日の決起は予期されていたものだろうか?しかり。それは前もって準備されていたものだろうか?しかり。

ある所では、この襲撃を指揮しているのはFBIの捜査官だと伝わっていた。またある所では、指揮官は十にもならない子どもであると言う者もいた。
そしてまた別のセクションでは、この場を取り仕切っているのは日本警察だと叫ぶ者もいた。それらはすべてが正確というわけではなかったが、あながち間違った情報でもなかった。

しかし、実際にこの場の指揮を執っていたものは、空中に漂う一種の言い知れぬ緊張感と高揚感だった。最初の一手を仕掛けてから5分と経過しないうちに、燃え広がる導火線のように、この建物の三分の一は騒動の最中にあった。

(ああ、―――)

ようやくこの日が来た。
これまで周到に張り巡らせてきた糸が集結し、数々の犠牲を払ってでも蒔き続けてきた種が一斉に芽吹き始めたのを、僕はひりつく空気の中で確かに感じていた。

「ギルバート」

この日の僕はバーボンの衣装に身を包み、左の手首にはさくらからもらったスマートウォッチを嵌めているという“ちぐはぐ”な恰好をしていた。これまではさくらを巻き込むことが怖くて、組織の人間と接触する時は極力この時計を持ってこないようにしていたのだが、今回ばかりはそうも言っていられなかった。
何しろ、今日で全ての幕が下りるのだから。今この時に全ての悪を根絶するためには、力の出し惜しみなどしていられない。どれだけ奴らが強固に抵抗しようとも、自分の命を危険に晒すことになったとしても、今日を限りに組織の人間との不毛な戦いを終わらせて、この国から不穏分子を一掃する。今の僕の頭には、そのことしか考えられなかった。

「お呼びになりましたか?降谷さん」

骨伝導型のヘッドホンを嵌めた僕の脳内に、小さなクリック音と落ち着いた男の声が聴こえてくる。僕は一切表情を変えないまま、時計の表面をカツンと爪弾いた。

「今の僕の状況を、君は当然把握していることと思うが」
「はい」
「その情報は、さくらにも伝わっているんだろうな」
「はい」

忠実なる人工知能は即答した。不要な心配をさせないように、さくらにはこのことを伏せておく―――といったサービスは、彼の中にははなから存在していないようだった。

「辞世の句でも詠まれますか?」
「それはなかなか風情のある提案だが、今はさすがにそんな余裕もなさそうだ」

僕は手に持ったポーランド製小型サブマシンガン、Wz63の遊底を少し後退させた。このWz63はチェコスロバキア製サブマシンガン、Vz61スコーピオンと並んでテロリストたちに人気の高い必殺武器である。本来、テロリストを狩る立場にある自分がこの銃を持っていることの皮肉に、僕は片頬だけで笑った。

「では、何かさくらにお伝えすることはありますか?」
「そうだな……」

僕は息を潜めて耳を澄まし、あちこちで聞こえてきた銃火の音と、人々が入り乱れる足音を聴いた。それから慣れ親しんだ気配が間近に存在しないことを確認し、小さく息を吐き出した。

「いつもの僕なら、きっとこう言っていただろうな。今日は組織と関わりのある仕事だから、君は家で大人しくしていろとね」

だが、今回ばかりはそうも言っていられない。何度も言うようだが、今は力の出し惜しみをしている余裕はないのだ。

「悪いが、今回はさくらにも全面的に協力してもらうぞ。2、3日眠れない日が続くかも知れないが、最後まで僕についてきてくれ」

この時僕は、初めて自分自身の意志で、彼女を危険に巻き込むことを選択した。
彼女にはこれまで何度も、事件の解決のために協力してもらってきたが、僕が彼女に依頼してきたことの多くは、必要なアプリを作ってもらったり、パソコンに細工をしてもらったり、ベルモットのスマホをハッキングしてもらったりといった、犯人と直接相対することのない後方支援だった。ベルモットに命を狙われた時は、レアケース中のレアケースである。

使えるものは使えるとしたら使える時に使えるだけ使っておく。さくらが事あるごとに口にしていた、彼女自身のモットーである。
僕の伝言を聴いた人工知能は、若干のタイムラグを置いて少しお待ちください、と答えた。

「さくらからそれに対する返答が届いています。このままお繋ぎしてもいいですか?」
「うん?」

珍しいこともあるものだ。任務中だというのに、ギルバートを介してではなく直接会話をしたいと彼女が言ってくるなんて。
僕が首を傾げつつ了承の意を告げると、頭に嵌めたヘッドホンから小さなクリック音が聞こえた。こめかみのあたりに位置するパッドから、今度は愛しい恋人の声が脳内に直接流れてくる。
そして彼女は言った。常と変わらない、艶を含んだ凛とした声で。

「どこまでも付いていくわ。あなたが私を邪魔だと言わない限りね」

迷いのないその口調に、僕は胸の奥から熱いものが沸き起こるのを感じた。

「例えば、あなたが今回の任務でどれほど危険な目に遭ったとしても、あなたが死んでしまったのだとしても。その時は私が傍にいて、暗闇の中を一緒についていくわ」

と、彼女は毅然とした声のまま言った。

「……僕が死んだら、きっと行き着く先は地獄だろうな」

いくら任務のためとはいえ、僕はこれまでこの手でたくさんの人間を殺してきた。僕が直接手を下したわけではなくとも、僕の過去の行いが原因で恨みを買い、巻き添えを食ったような形で部下の命を奪われてしまったことだってある。
だからきっと、僕は仲間たちの待つ天国へは行けないだろう。

「それでも君は、ついてくると言うつもりなのか?」

僕が自嘲気味に発した問い掛けを、彼女は寸分の躊躇いも見せずに肯定した。

「もちろんよ。仮に、天国も地獄も定員オーバーで、行く先がなくて彷徨ってしまうとしても。あなたの魂が旅立つとき、傍に誰もいなくても、どうか不安にならないで」
「……さくら」
「あなたの魂が迷子になってしまいそうなときは、私がその暗闇の中まで一緒についていくから。だからどうか、あなたは決して立ち止まらないで」

どれだけ距離が離れていても、あなたの手は私に繋がれているのよ―――と、彼女はいつか聴いたセリフと全く同じことを繰り返した。
だから僕も、あの時と同じ言葉を彼女に返した。

「……ああ。僕はもう、君の手を離すつもりはないからな」
「ええ。地獄の底までお供するわ」

彼女の心強い言葉に、僕は作り物ではない笑みを浮かべて頷いた。彼女の気丈な声を聴いていると、これ以上ないほどの勇気が湧いてくるような気がした。
君が迷わずに僕の背中を押してくれることで、僕もまっすぐに前を向いて行ける。

「それじゃあ、僕も心置きなく暴れてこようかな。サポートは任せたぞ」
「ええ。Viel Glück!」

激励の言葉と共に通信は途切れた。それと入れ替わりに僕の鼓膜を打ったのは、“バーボン”に支給されていたワイヤレスのインカムだった。

「バーボン。貴様、今どこをほっつき歩いてやがるんだ?」

インカムの向こうから聴こえてきたガラの悪い男の声に、僕は冷笑を唇に刷いた。

「僕ですか?本部棟の17階に居ますよ。随分慌てているようですが、何かあったんですか?ジン」
「17階だと?嘘を言え。お前がここに来てねえことくらい、こっちはとっくに確認済みだ」
「嘘なんて吐いていませんよ、酷いなあ。僕は確かに、本部棟の17階に居るんですけどね」

僕は今、堂々と“バーボン”の恰好をして、この廊下のど真ん中に立っている。それなのに彼が僕の意場所を補足できていないということは、このビルディングの電気系統が既にギルバートの手に落ちていることを意味していた。

「フン、まあいいだろう。本部にいるなら都合がいい、お前も加勢しろ」
「敵襲ですか?」
「似たようなもんだ。この本部に、ネズミが大量に入り込んでやがる」
「ホォー、ネズミですか。それは駆除してやらないといけませんねぇ」

僕はWz63の遊底をわずかに後退させ、前部に突き出た部分を壁に押し付けてコックした。廊下の突き当りの部屋から、黒いスーツに身を包んだ組織の構成員が歩いてくるのが見えたからだ。

(お望み通り、綺麗に駆除してやりますよ。あなたたち、日本に巣食うネズミどもをね)

そう心の中で冷たく吐き捨てて、ひとつ大きな深呼吸をすると、僕は何食わぬ顔で組織の人間の前に姿を現した。

Der Schleier fällt―――さあ、これからが不愉快なショーの幕引きだ。