2人のラストシーン


降谷零という男は、“理想の恋人”と呼ぶにはあまりにもふさわしくない男だった。
いや、見た目は文句のつけようもないほど完璧だった。左右対称に整った顔、均整の取れた体つき、健康的に焼けた浅黒い肌。彼の美しい金髪も夜明け前の空を写したかのような瞳も、人々の目を惹きつけてやまない彼の武器だった。
その見た目を裏切らず、彼に宿る精神はとても健全で、不可侵で、高潔でさえあった。彼は自分が完璧を周囲に提供する分、他人にも完璧を求めるきらいがあった。それは彼の美点と呼んでもよかったが、同時に他人の反感を買いやすい部分でもあった。要するに、器用そうに見えて不器用な男でもあったのだ。

不器用なのは恋愛に対しても同じだった。彼は子供の頃からずっと一途に、ただ一人の女性を慕ってきたのだという。光源氏が父の妻に憧れたように、彼のその想いもとうとう成就することはなかったけれど、言ってしまえば私と出会うまでの彼は、“恋愛ビギナー”と呼べるくらい何も知らないお子ちゃまだったのだ。私と付き合うようになってからは、私の方が逐一彼をリードしてイマドキの恋愛の仕方を教えてあげなければならなかった。……別に、それを嫌だと思ったことは一度もないけれど。

彼は完璧な恋人ではなかった。だけど、だからこそ私は彼に惹かれた。
一見すると人間味がないほど美しい彼の、時折見せるどうしようもなく人間臭いところが好きだった。
だから思いも寄らなかった。自分がこんな醜い気持ちを、彼に対して抱くことができるなんて。

「…………、ごめん。よく聞こえなかったわ」

彼に恋をしていたころは、こんな結末が待っているとは思ってもみなかった。
順調にお付き合いをして、お互いの仕事に自信が持てるようになったら結婚して。子供を作って、一緒に歳をとっていこうねと、いちいち口に出したことはなかったけれど。きっと彼も同じ気持ちなのだろうと、信じて疑っていなかった。
―――それなのに。

「何て言ったの?今」
「……のぞみ」
「零が言ったこと、全然理解できない。ねえ、何て言ったの?」

ヒステリックな声を上げる私にため息を吐いて、彼は自分の前髪をぐしゃりと掻き上げた。その気だるげな仕草に、性懲りもなく胸が高鳴る。そんな自分に嫌気がさす。
やがて彼は形のいい唇を開いて、さっきと全く同じ言葉を繰り返した。

「……何度でも言ってやる。別れてくれ」

きらりと、彼の左の薬指に嵌った指環が照明を弾いて瞬いた。
ガツンと頭を殴られたような気がした。その指環が、私とお揃いで買ったものではなかったからだ。
言葉で何度説得されるより、“それ”はよほど的確に私の心を抉った。

「その―――指環」
「ん?……ああ」

これか、と言って彼は愛おしそうに自分の左手を見つめた。ほんの少し前までは私に向けられていたはずの優しい眼差しが、今は見知らぬ誰かと一緒に作った指環に注がれている。

「知りたいか?これはな、」
「やめて!」

自分から問いかけたくせに、私は金切り声を発して彼の言葉を遮った。これ以上彼の声で、彼の言葉で傷付けられるのが怖くて、私は嫌々と頭を振った。

「……いつから、私と別れようと思ってたの?」

訳が解らなかった。つい2週間前も、同棲を始めて1周年だねと言って、眺めのいいレストランでお祝いをしたはずなのに。あの時もらった言葉も思い出も、今もまざまざと脳裏に思い描くことが出来るのに。
こないだまで私と彼は、同じ夢を抱いていたはずなのに。

「それを訊いて何になる?知らない方が君のためだと思うけどな」

激昂する私とは対照的に、彼の声はどこまでも冷静だった。それがまた私と彼の温度差を浮き彫りにしているようで、わしわしと胸が痛んだ。

「説明もなしにいきなり“別れてくれ”って言われて、それではいそうですかって納得すると思う!?」

私のために黙っているとでも言いたげな口振りに腹が立った。この状況を客観的に見て非があるのは明らかに彼の方なのに、教え諭すような言い方をされるのが気に入らなかった。

「嘘だったんならそう言ってよ!お前と過ごした日々は全部、全部時間の無駄だったんだって!」
「…………」
「自分にはもう新しい恋人がいるから、お前はもう邪魔なんだって言ってよ!」

私は髪を振り乱しながら叫んだ。ここまで言われてもなお平然としている男の気分を、少しでも害することができればいいと思った。
彼の心を取り戻すことができないのなら、いっそ徹底的に嫌って欲しいとさえ思った。
彼は瞬き数回分押し黙って、

「そうだよ。お前と一緒にいた時間は、全部時間の無駄だった」

感情の読めない平坦な声で、用意された台本を読むようにそう言った。まるでそのセリフさえ、口にするのも億劫だと言いたげに。
ぶつりと、何かが切れたような音が頭の中で響いた。
私は歯を食いしばって涙をこらえると、自分の左手の薬指から指環を抜き取った。

「零のばかっ!嘘吐きッ!!」

真新しい輝きを放つ指環を、彼の胸目掛けて投げつける。それは―――「これからもずっと一緒にいような」という言葉と、優しい笑顔と共に2週間前に差し出されたはずの指環は、彼の心臓の上あたりにぶつかって、服の上を滑って落ちた。
彼はそれを避けようともしなかった。それどころか顔色一つ変えないまま、何事もなかったかのようにこちらを見つめていた。足元に転がるピンクゴールドの指環には、これっぽっちも目もくれない。
その態度に彼の本心を見たような気がして。私は耐えきれずに踵を返した。コートとショルダーバッグを引っ掴み、パンプスを履いて玄関の外に飛び出す。

「のぞみ、」

最後に彼が私の名前を呼ぶのが聴こえたけれど、私は決して振り返らなかった。パンプスの音をけたたましく鳴らしながら、彼と過ごした思い出の詰まったマンションを後にした。
別れの言葉も慰めのセリフも聴きたくなかった。聴けば余計に惨めになるだけだと解っているから。

“さよなら”なんていらない。
嘘で固められた愛の言葉も欲しくない。
ただ、どこかへ消えて欲しかった。私の視界から消えて欲しかった。

(あんなに―――あんなに好きだったのに)

思いもよらなかった。自分がこんなに醜い気持ちを、彼に対して抱くことができるなんて。
彼に恋をしていたころは、こんな別れが待っているなんて思ってもみなかった。
一体誰が想像していただろう、こんな惨めな結末を。彼と共に紡ぐ未来は、もっと、輝きに満ち溢れていたはずだったのに。私たちはもっと、幸せになれるはずだったのに。

彼の前では必死に我慢していた涙が、堰を切ったようにあふれ出す。道行く人たちがぎょっとした顔でこちらを見るのが解ったが、取り繕う余裕さえなかった。煌びやかな電飾に包まれた街を、私は一人涙に濡れながら自分のマンションに戻った。

*****

静まり返った室内で、僕は足元に転がっていたピンクゴールドの指環を拾い上げた。
それを投げつけられたとき、比喩でなく心臓がずきりと痛んだ。服の上からぶつかっただけなのに、まるで鉛玉に撃ち抜かれたかのような衝撃がこの胸を貫いた。

「嘘吐き、か……。確かにその通りだな」

彼女の温もりが残る指環を、僕は両手で包み込んだ。ゆっくりと瞼を下ろし、震える吐息を吐き出す。
目を閉じる瞬間にきらりと瞬いた薬指の指環の光が、生々しく網膜に焼き付いて離れなかった。

(あの女に借りた小道具も、こんな風に役立つこともあるんだな)

ゼロの“校長”から直々に“投入”の任務を言い渡されたのは、つい10日ほど前のことである。今回、僕が潜入することになった組織には、幹部連中には洋酒を模したコードネームを与えるという一風変わった決まり事がある。僕の教育係として付くことになったという女は、毒々しい紫の唇を綻ばせながら“ベルモット”と名乗った。

握手のために差し出された女の手を取った瞬間に理解した。僕はもうこれから先、光の中を歩むことは許されないのだと。
だから僕は彼女を手放した。“さよなら”も嘘で固められた愛の言葉も告げないまま、彼女は僕の手を離れて、光に溢れた世界へ出ていった。

(これでいい。これでいいんだ)

これが僕たちにふさわしいラストシーンだったんだ。そう自分に言い聞かせながら、僕はピンクゴールドの指環が自分の掌に食い込むほど、強く強く握りしめた。