究極のリアリストは終わらない恋の夢を見る


君は僕の特異点なんだ、と彼は睦言のように言った。いや、互いに一糸まとわぬ姿で、ひとつのベッドに並んで横になっているこの状況での発言なのだから、それは間違いなく睦言だったのだろう。

その割に、彼がたった今チョイスした単語は甘さの欠片もないものだったが。

「特異点ですって?」

興味深い単語が彼の口から出てきて、私はその真意を探るように彼の瞳をじっと見つめた。

「ああ。数学や物理学の分野では、よく使われる言葉だろう?」
「ええ、確かにね。情報工学の分野においても、最近になって広く知られるようになったわ」

私はそう言って皮肉げに微笑み、小さく肩を竦めた。

一般的に、特異点という言葉はある基準(regulation)を適用できない、あるいは一般的な手順では求められない(singular)解や点のことを指す。学校の数学で習う微分方程式にも“動く極”“動く特異点”といった言葉で登場するため、目にしたことのある人も多いのではないかと思う。また物理学の分野では、宇宙物理学において重力に関する特異点が存在すると定義されており、“重力の特異点”と呼ばれている。

そして、私たちITの研究者にとって最も身近な特異点が、“技術的特異点”―――俗にシンギュラリティと呼ばれている未来学上の概念である。

人工知能には2種類のタイプがあり、「弱い人工知能」と「強い人工知能」に分類される。前者は一定の領域のみの業務に特化したAIのことを指し、現在実用化されて世間に流通しているもので言えば、自然言語処理を用いて言語を処理するSiriや、スマホのカメラで撮った写真を認識し情報を表示するGoogle Lens、囲碁で人類最高棋士に勝利を収めたアルファ碁などがこちらに分類される。
一方の後者は、適切にプログラムされた意識を持ち、総合的な判断が出来るAIを指す。「ターミネーター」シリーズのスカイネット、「アベンジャーズ」のウルトロンなど、フィクションで描かれる“人間のように感情を持ち、自分で物事を考えて行動するAI”を想像してもらえれば解りやすいだろう。言うまでもないことだが、私が阿笠博士とあのプログラマーと共同で生み出したAI“ギルバート”は、もちろんこちらに分類される。

この、いわゆる「強い人工知能」が自己フィードバックによって自らを改良して高度化した状態、つまり「自らの手で新しい人工知能を生み出すとき」「人類に代わって文明の進歩の主役になるとき」のことを、一部の人たちがシンギュラリティと呼んで危惧している。具体的にその時点がいつごろ到来するかという予測については論者によってさまざま異なるが、多数の実例を挙げながら収穫加速の法則と結びつける形で具体化して提示したレイ・カーツワイルの影響により、2045年ごろに到来するとの説が有力視されている。2012年以降の第三次AIブームをきっかけに現実味をもって議論されるようになり、2045年問題とも呼ばれている。

「君はシンギュラリティ論者じゃなかったか?」
「人工知能に感情を与える研究をしているって言うと、その質問はよくされるわ。だけど、私はシンギュラリタリアンでもトランスヒューマニストでもないわよ」
「ほう。その心は?」
「自分で“強い人工知能”を作ってみて、かえってひしひしと実感したの。人間の脳よりも複雑で優れたものを生み出すのって、本当に難しいものなのよ」

あの小さなヘッドホンを生み出すだけで、3年以上の月日と数百億ドルという金額が動いたのだ。“IT業界の帝王”ギルバートが亡くなってしまった今、そっくり同じ設備を提供することのできる人間がこの世界に何人いるだろう。ましてそれらが自己フィードバックを繰り返し、より高度に進化した新生代のAIを生み出せるような環境を整えるだけで、気の遠くなるような時間が掛かることは目に見えている。

だけど、と言って私は笑った。

「今の時点で全ての可能性を否定してしまうのは、未来学者としてナンセンスだわ。夢がないと言ってもいいかも知れないわね」

“強い人工知能”を生み出すことさえ、数年前には絵空事だと思われていたのだ。それがこうして実現できることを知ってしまえば、シンギュラリティ論者たちの途方もなく非現実的な未来予測も、起こり得る可能性がゼロであるとは言い切れない。

私は一旦身を起こすと、彼の顔を真正面から見下ろした。

「あなたは、シンギュラリティが来るのが怖い?」
「そうだな……。正直に言うと、少し怖いよ。僕は君のように情報工学の専門家じゃないから、僕の感じる恐怖は君にとっては的外れなものかも知れないが」
「だけど、私のことを特異点だと言ったわ」

ということは、私のことも怖いってこと?と言って自分の顔を彼の鼻先に近付けると、彼は苦笑して私の頬に手を伸ばした。彼がほんの少し背伸びをするだけで、私たちの距離は簡単にゼロになる。

「ん、」
「…………」
「……んぅ、……も、零さんってば」

真面目に訊いてるのに、と私は胸元で不埒な動きをする彼の手の甲をつまんだ。

「ごめんごめん。君のことを怖いと思ったことはないよ」
「だったらどうして、私はあなたの特異点なの?」
「僕にとって、君という存在はまったくこちらの常識やレギュレーションを適用できない存在なんだ。念のために言っておくが、これは褒め言葉だぞ」

私が彼の言葉の意味を捉えあぐねていると、零さんは私の髪を掬って長い指先で弄び始めた。

「君が、僕がこれまでの人生で見てきた“普通の女性”と同じような人間なら、僕はきっと君に恋をしなかった。……いや、例え恋をしたとしても、こうして想いを告げることはしなかっただろうな」
「……私は“普通じゃない”女?」
「ああ、君は普通じゃない」

一見すると酷いことを言われているようだが、彼の瞳はこれ以上ないほど愛おしげに黒々と濡れていた。

「君は“特別な女性”なんだ。君のその天才的な頭脳も、奇抜な発想力も、時にこちらを怯ませるほどの大胆な行動力も、僕がこれまで知り合ったどんな女性とも違っていた。君は、僕がこれまで抱いていた常識をことごとく覆してくる規格外の女性なんだ」
「……零さん」
「思えば、初めて君に会った時から、僕は君にペースを狂わされてばかりだったな」

初めて会った時というと、いきなりサイバーテロの主犯扱いされた挙句、掌を返すように協力者になってくれと頼み込まれた日のことである。

あの夏のよく晴れた日、私たちは米花町の小さな喫茶店で出会った。あの時、ポアロでお留守番をしていたのが彼でなくて梓だったなら、その場でお土産を渡して私はさっさとホテルに帰っていただろう。そうしたらきっと私たちの人生は、二度と交わらないままだった。
私たちが出会うことになった偶然という名の確率も、レギュレーションでは求めることの出来ない答えのうちのひとつである。

だから、僕は君に夢を見てしまうんだろうなと彼は笑った。

「僕はこれまでの人生の中で、大事な人は皆僕を置いていなくなってしまうものだと思っていた。子供の頃の恩師、警察学校の仲間たち、大事な幼馴染……。彼らを喪うたびに、僕は心が引き裂かれるような思いをしてきた」
「…………」
「だけど君は、……君ならきっと、僕を置いていなくなったりしない。そう信じられるようになったんだ」

ここで彼は私の髪をぱっと離し、私の手の上に自分の手を重ねた。

「さくら。君は僕にとっての“特別な女性”であり、“幸せな未来の象徴”なんだ。そうだな、こう言い換えてもいいかも知れない」

彼の指が私の指に絡まって、力強く握りしめられる。

「君は、僕にとっての新しい夢なんだ。こんな職業に就いている以上、こんな組織に潜入している以上、決して望むことのできないと思っていた夢だ」
「……、……」
「君が僕の傍で幸せそうに笑っていてくれるだけで、僕は自分の未来に希望が持てるような気がするんだ。だから僕はこれからも、君の笑顔が曇らないように全力を尽くすよ」

そう言って、彼は私の目元に唇を寄せた。再び離れた時にその唇が濡れているのを見てようやく、私は自分が大粒の涙を流していたことを知った。

「……泣くなよ」
「っ、……だ、って」
「僕は君の泣き顔も好きだが、笑っている顔が一番好きだ」
「あなたが、あんまり嬉しいことを言うから……っ」

ぽろぽろととめどなく溢れてくる雫を、彼は大きな手で掬い取った。宥めるように優しく触れてくる唇の甘さに、私は瞼を下ろして束の間酔った。

睦言にしては甘さの欠片もないものだと思った。相変わらず口説き文句が下手なのね、と笑おうと思った。けれど、彼の言葉は思いがけない角度から私の心を強く揺さぶった。

「ピロートークには向かない話題だと思っていたけれど、あなたの手にかかれば学術用語も甘い睦言になってしまうのね」
「君に口説き文句が下手だと言われたことを、僕はまだ忘れていないからな」
「ふふ……。負けず嫌いなんだから」
「口説き上手な僕は嫌いか?」

懐かしいやり取りに、私は涙を拭って破顔した。

「解っていて訊いているんでしょう。……大好きよ」

そう正直に答えると、私はありったけの気持ちを込めて彼の唇にキスをした。

私たちの甘くて幸せな夢物語は、まだまだ終わりを迎えそうもない。