Something Never Change


※幸せな未来if

ガチャン、という音がキッチンから聴こえたような気がして、僕はセロリを摘んでいた手を止めて顔を上げた。

「さくら?」

この部屋に住んでいるのは、僕を除けばたった1人しかいない。僕の協力者兼恋人であり、今や妻となった降谷さくらである。ついさっき寝室を覗いた時は穏やかに眠っていたはずだが、目が醒めたのだろうか。何か必要なものがあったのなら、呼んでくれればすぐに駆け付けるものを。

「さくら?……いないのか?」

僕はセロリを手に持ったままバルコニーの扉を開け、クロックスを脱いで室内に入った。しかし何度呼び掛けても答えが返ってくることはなく、先ほどの音は僕の気のせいだったのかも知れないと思った。

(ダメだな。どうにもさくらのことになると、神経質になってしまう)

しかし、それが気のせいではなかったのだと教えてくれたのは、他ならぬ彼女の相棒の声だった。

「降谷さん、さくらがキッチンで倒れました」
「なっ!?」
「すぐに行ってあげてください。小さなケガを負って出血しています」

その言葉を聴き終わるや否や、僕は手にしていたセロリを放り投げる勢いでテーブルの上に置くと、キッチンに向かって大股で近寄った。

「さくら!」
「……れい、さん」

カウンター式のキッチンの中では、シンクに寄り掛かるようにしてへたり込んでいるさくらと、その足元で無惨に割れたガラスのコップの姿があった。僕が朝方、彼女の枕元に用意しておいた食器である。割れた破片を片付けようとして切ったのか、ギルバートの報告通り、彼女の左手からはごく少量の出血が認められた。

「一体何をしているんだ、何か欲しいものがあれば僕を呼べと言っただろう」
「……ごめんなさい。でも、本当に大したことじゃなかったから」

これくらい自分で出来ると思ったの、と言いつつその目は自信がなさそうに泳いでいた。いつも自信に満ち溢れている普段の彼女を知っているから、余計にその華奢な体が小さく見える。

「でも、結局こうしてあなたの手を煩わせることになってしまって……、本当にごめんなさい」
「いや、僕の方こそ大きな声を出して悪かった。君を責めたい訳じゃないんだ」

悄然と俯く彼女の前に膝をつくと、僕はその頭をそっと撫でた。彼女を心配するあまりにきつい口調になってしまったことを反省しつつ、骨の浮き出た背中を掌でなぞる。

「ちょっと体揺れるぞ。口、閉じてろ」
「えっ?……きゃっ」

短く断りを入れると、僕はさくらの体を抱き上げた。彼女は一瞬ぎくりと体を強張らせたが、すぐに安心したように肩から力を抜いて僕に寄り掛かってきた。

「ケガをしたのは左手だけか?」
「ええ。心配かけてごめんなさい」
「身重の妻の心配をするのは、夫として当然のことだ。このまま寝室まで行くぞ」

こくりと頷いた彼女の胸元には、くっきりと鎖骨が浮かび上がっていた。あまりの痛々しさに奥歯を噛み締めつつ、僕は軽くなってしまった体を抱え直した。

彼女の体がまともに食べ物を受け付けなくなってから、1ヶ月が経過しようとしている。その間に彼女の体重は6キロ落ち、元々細かった体は不健康なほどに痩せてしまっていた。今回のように突然眩暈に襲われることは日常茶飯事だったし、前触れもなく嘔気に襲われることも多々あった。
当然、仕事に行けるような状態ではない。本来ならばとっくに入院させてもおかしくないほどの容態なのだが、彼女が頑なに拒否していた。曰く、病院の匂いがダメなのだという。

ご飯を炊く匂いがダメ、お出汁の匂いがダメ、洗剤の匂いがダメ、消臭剤の匂いがダメ。とにかく今の彼女の嗅覚は異常なまでに敏感になってしまっていて、ろくに家事をすることも出来なくなっていた。だから今はとにかくベッド上で動かずに休養を取ることを優先させているのだが、元来働き者の彼女は、仕事も家事もせずに横になっているということが落ち着かないのだろう。

「今は君の体が普通の状態とは違うんだから、何でも僕に甘えてくれたらいいんだよ。家事なら僕も得意分野だしな」

ベッドに彼女の体を横たえて、ケガをした左手を手当てしながら諭すように言うと、さくらは気まずそうに目を逸らした。

「でも……、あなたも仕事で疲れているのに、温かい食事を用意して待ってることも出来ないなんて、新妻失格だわ」
「僕は別に、そういうことを期待して君と結婚した訳じゃない」
「だけど、こんな風に具合の悪い私の看病をするために結婚した訳でもないでしょう?」

やけに発言が自虐的なのは、やはり先ほどの失敗が尾を引いているのだろう。プライドの高い彼女のことだ、きっと自らの現状を冷静に顧みて、満足に動かない体を情けないと思っているに違いない。
僕は誤解を与えないように優しく微笑むと、「仕方ないな」という風にため息を吐いた。

「さくら。君は勘違いしてるぞ」
「勘違いですって?」
「ああ。こういうと変に受け取られるかも知れないが、僕は今、君の世話を焼くことができて嬉しいんだ」
「……。どういう意味?」
「女の同僚に聴いたことがあるんだが、今の君のように、悪阻のせいで全ての匂いを受け付けられなくなる妊婦さんというのは少なくないんだろう?」
「ええ、そうね」
「中には、夫の匂いが一番ダメだというような人もいるらしいじゃないか」
「ああ、私の母がそうだったらしいわ」

でも、と言って僕は身を乗り出した。こちらを見上げる彼女の額に手をやって、慈しむような手付きで前髪を梳いてやる。

「何もかも受け付けられなくなった君が、僕のことだけは今まで通り受け入れてくれている。それが僕には嬉しくてたまらないんだ。まるで君の体が、僕を君の一部として認めてくれているようで」
「…………」
「それに今、君の体に宿っているのは君ひとりの命じゃない」

僕はブランケットの上からさくらの腹部をそっと撫でた。まだ目立ったふくらみはないものの、ここに確かに新しい命が根付いているのだと思うと、心の底から愛おしさが溢れてくる。

「ここにいるのは、僕と君の子供だ。この子のために君が苦しい思いをしているのなら、僕がその苦しみを半分受け持つのは当然のことだろう?」
「零さん……」
「だから君は、ただ体を大事にすることだけを考えてくれればいいんだ。僕に対して、今更変な遠慮をするな」

そう言ってぐっと首を伸ばし、彼女の額にキスを贈ると、僕は目を細めて微笑んだ。

「よかった、少し元気になったみたいだな。頬が真っ赤だ」
「…………っ、もう。あなたって、本当にずるいわ」

これ以上私を惚れ直させてどうするの、と彼女は恨みがましそうに僕を見上げて、ブランケットで顔の半分を隠してしまった。その子供っぽい仕草がやけに可愛く見えて、僕は破顔しながら彼女の体の上に覆い被さった。

「そりゃあ、今のうちに僕に夢中になっててもらわないと困るからな。どうせ子供が生まれれば、しばらくそちらにかかりきりになるだろうし」
「子供が生まれたって、あなたへの気持ちは減らないわ」
「それでも、僕だけに割けるリソースは確実に減るだろう?」

だからせめて今だけは、僕に君を独占させてくれ。そう言ってほんのり赤く染まった頬に唇を落とすと、さくらはブランケットの中でもぞりと体の向きを変えた。
口では何も言わなかったが、その目が何をおねだりしているのか僕にははっきりと解っていた。

(ああ―――本当に、僕の妻は可愛いな)

これ以上自分を惚れさせてどうするのだと彼女は言った。だがむしろ、僕をより虜にしているのは君の方だ、と内心ツッコミを入れながら、僕は彼女の可愛らしいおねだりに応えるために、その口許を覆い隠すブランケットをはぎ取った。