Wild Police Storyによる変奏曲


(ああ)

星が綺麗だな。と、僕はまるで場にそぐわないことを考えた。
今は暦の上では真夏と呼べる時期だったが、午前4時半という時刻だったこともあり、辺りはまだ暗闇に包まれていた。頭上の空もずっしりと重たい藍色が一面に広がっており、降るような満天の星がその表面を彩っている。
夜明け前のこの時間に夜空を飾っているのは、夏の星座ではなく秋や冬の星座である。一等星が1つしかない秋の夜空に比べると、冬の夜空は賑やかなものだ。その中でも一際有名な星座を見つけ、僕は自分の胸元に手を当てた。傷跡一つない胸の奥から、じくじくと疼くような痛みが広がっていく。

(あの日の空も今日みたいに、オリオン座が綺麗に見えていた)

オリオン座は夜空に輝く星座の中でも大きくて存在感があり、また美しい形をした星座である。この星座は冬の星座の代表格として知られている。オリオン座の左上部分にあるベテルギウスを含む3つの輝く星を称して“冬の大三角形”と呼ぶくらいには、冬の星座としての印象が強い。
だが、実はオリオン座は真夏にも見ることが出来る。真夏のオリオンは昼間に南中する星座であるから、夜明け前の僅かな時間にのみ、東の空で観測することが可能だった。その希少性から、“吉兆のシンボル”とも呼ばれている。



“あの日”、彼女と一緒に観たオリオンも、遠くの地平線から太陽が姿を見せるか見せないかという時間帯に、たまたま見つけたものだった。

―――あっ!降谷、見てみて!真夏のオリオンが見えてる!

そう言ってはしゃいだ声を上げたのは、警察学校の同期同教場の仲間の内の1人で、僕たち問題児グループ(松田と萩原と伊達、それに景光と僕と彼女をまとめて教官たちがそう呼んでいた。正直ここに括られるのは甚だ遺憾である)の中の紅一点、のぞみだった。
僕たちはあの日、早朝訓練のためにグラウンド整備を行っている最中だった。まだ星が見える時間から準備をしなくてはならないなんて、冷静に考えればかなりのタイトスケジュールだったと思うのだが、当時はそのことに疑問を持つ余地もなかった。

「オリオン座?どこだ?」
「ほら、あそこ!オリオンの三ツ星が見えてるよ」
「んー……?ああ、あれか。綺麗だな」

彼女は東の空を指さして、星座の輪郭を繋げるように指で虚空をなぞった。

「わー、嬉しい。今日は何かいいことがあるかもね!」

本音を言えば、僕はそういう迷信じみた言い伝えなどこれっぽっちも信じていなかったのだが、のぞみがそう信じているのならそれが真実であればいいと思った。

「そうだな。僕の分も、君にラッキーなことがあるといいな」
「えっ、そんなのだめだよ。私だけ幸運を独り占めなんてできない」
「いいんだよ。僕にとっては、こうして君と一緒にあの星を見られただけで、もう十分ラッキーなんだから」
「……何その殺し文句。イケメンは言うことまでイケメンなんだね」

のぞみは唇を尖らせてそっぽを向いた。その頬がほんのりと赤くなっているのは、太陽が昇って徐々に上がり始めた気温のせいだけではないだろう。
藍色の空が白み始め、星々の光が薄くなっていくのをじっと見つめて、のぞみはぽつりとつぶやいた。

「オリオンよ、愛する人を導け。帰り道を見失わないように」
「……何だ、それ?」
「昔観た映画の中で、ヒロインが旅に出る恋人に向かって恋の詩を送るシーンがあってさ。その詩がこんな内容だったんだよね」
「なんだ、そう言うことか。いきなりポエミーなことを言い出すから、宇宙から怪電波を受信したのかと思ったぞ」

どきりと高鳴った心音を誤魔化すために軽口を叩くと、彼女は何それひどい、と口では言いつつけらけらと笑った。

「でも、どうしてオリオンが帰り道を導くんだ?普通、旅人が目印にするのは、オリオン座じゃなくて北極星だろう」

古来より、海原を行く航海士たちにとっての目印となってきたのは、北の空に浮かぶ北極星だった。かつて日本では北極星のことを子(ね)の星と呼び、アメリカではポーラースターと呼んでいた。
だが、彼女にとって行先を導いてくれる“ポーラースター”は北極星ではなくて、あのオリオンなのだという。

「私、小っちゃい時から星を眺めるのが好きだったからさ。中でもオリオン座は特別で、どの季節でもオリオン座を探しちゃうくらい好きだったんだ」
「まあ、星に詳しくない僕でも知ってるような星座だからな」
「オリオン座を見てると、不思議と心が落ち着くの。いつも空から私を見守ってくれているような気がして……。だから私は、道に迷った時はいつだって、オリオン座を見上げるようにしているの」

そう言って姿の見えない星を仰ぐのぞみの横顔は、朝日に照らされて美しく透き通って見えた。

「なるほど。それじゃあ僕も、これから道に迷うことがあれば、あの星を探してみようかな」

これから僕たちは、半年間の警察学校の入校期間を終えたらそれぞれの道へと分かれることになる。だけど道が分かたれた後も、いずれ帰る場所は同じであればいいと思った。

オリオンよ、愛する人を導け。帰り道を見失わないように。
その帰る場所に僕を選んでくれるのなら、僕は決して彼女を離さないとあの星に誓おう。

そんな決意と共にオリオン座が浮かんでいたはずの空を見上げると、僕は隣に立つのぞみの肩をそっと抱き寄せた。彼女は一瞬驚いたように目を瞠ったが、やがて僕の腰にそっと手を添えてきた。
それから僕たちは、目を覚ました他の学生たちがぞろぞろとグラウンドに出てくるまで、言葉もなく互いの温もりを共有していた。



―――“あの日”から7年。今も、一緒に見上げた“吉兆のシンボル”である真夏のオリオンの輝きは、この目に焼き付いている。

「見ろ、風見」
「はい?」
「縁起がいいな。真夏のオリオンが見えてるぞ」
「オリオン座ですか?」

風見は僕の視線に釣られるように、白み始めた東の空を見上げた。オリオン座の特徴的な輪郭を形作る星々は、今日もいつもと変わらぬ姿で僕たちを見下ろしている。

「本当だ。オリオン座と言えば冬のイメージでしたが、真夏にも見えるんですね」
「ああ。真夏のオリオンは短い時間しか見ることが出来ないから、吉兆のシンボルと呼ばれているんだ」
「ああ……」

だから“縁起がいい”のかと、風見は納得したように小さく頷いた。

「そういえば、今朝のニュースで言ってましたね。冬の大三角形の一角を担うベテルギウスが、去年の秋から暗くなりつつあるって」
「ベテルギウスは変光星だからな。半規則型変光星だから、くじら座のミラほど変光範囲が広いわけではないらしいが」

噂では、ベテルギウスが暗くなっているのは超新星爆発の前触れでは、既に爆発してしまったあとで今はあの場所にはベテルギウスは存在していないのでは、などと囁かれているが、どれもまだ仮説に過ぎないとのことだった。仮にあの星が爆発していたのだとしても、642.53±147.77光年も距離の離れた恒星の爆風など、地球には全く影響はないらしいが。
ただ僕は、叶うことならもう少しだけ、オリオン座のあの特徴的な輪郭を留めておいて欲しいと思っていた。

「意外ですね。降谷さん、天文学がお好きなんですか?」
「いいや。警察学校の同期に、星が好きな人間がいたんだ。僕が今言ったことは、そいつからの受け売りさ」
「……。なるほど」

そう言って風見は押し黙った。僕に星の知識を披露してくれた彼女は、警察学校を卒業した後、景光とともに警視庁公安部に配属された。つまりは風見とも面識があったということだ。

彼女は今、とある大きな病院の集中治療室で、たくさんの管に繋がれたまま深い眠りに就いている。

じくじくと痛む胸を押さえながら、僕はもう一度空を仰いだ。先ほどまで煌々と輝く星が彩っていた空は、今は朝日を浴びて澄んだ水色に侵食されつつあった。
薄れゆくオリオン座を見つめて、僕は小さな声で彼女の名を呼んだ。

(のぞみ、)

古来より、海原を行く航海士たちにとっての目印となってきたのは、北の空に浮かぶ北極星だった。かつて日本では北極星のことを子(ね)の星と呼び、アメリカではポーラースターと呼んでいた。
だが、彼女にとって行先を導いてくれる“ポーラースター”は北極星ではなくて、あのオリオンだった。

オリオンよ、愛する人を導け。帰り道を見失わないように。
星屑の海を泳いで、幾千の夜を越えて、
僕の元に君が戻って来られるように、その足元を照らしていてほしい。
そうしたら今度こそ、僕は決して彼女を離さないとあの星に誓おう。

「乙点より甲点へ。マルヨンヨンロク、“ドクター”が行動を開始しました」

右耳に嵌めていたインカムから事務的な声が聴こえてきて、僕は背後の風見と頷き合った。

「甲点より乙点へ。マルヨンヨンロク、“ドクター”が行動開始、了解」
「乙点はそのまま待機。秘撮を続けろ」
「秘撮を継続、了解」

通信の途絶えたインカムを嵌め直して、僕たちは腰を上げた。2日間沈黙していた目標が動きを見せたということは、ここからが正念場だ。

(のぞみ。どうか君も、僕たちが無事に戻って来られるように祈っていてくれ)

じわじわと明るくなり始めた空を、僕は未練がましく見上げた。
東の空に浮かんだベテルギウスが、僕の声に応えるようにきらりと瞬いたような気がした。