白衣を着た悪魔


ゆるゆると意識が浮上した時、僕の視界に真っ先に飛び込んできたものは、

「―――……」

腹部の傷が痛みを訴えていなくとも思わず閉口したくなるほど、趣味の悪いポスターだった。どぎつい蛍光ピンクの背景に真っ黒なペンキでファンシーな髑髏が掛かれたそれは、この部屋の持ち主が長年追っかけているパンク系ロックバンドのファングッズである。“趣味が悪い”は言い過ぎかもしれないが、元気な時ならいざ知らず、死の淵から這い上がってきたばかりで目にしたいとはお世辞にも言えないデザインだった。
ただ、この悪目立ちするポスターのおかげで、いくつか解ったことがある。まず、このポスターが壁ではなくて天井に貼ってあるということは、ここは僕がよく知る“彼女”の自宅だということだ。今僕が横になっているベッドからは、彼女の身に着けている衣類からいつも香っているのと同じ柔軟剤の匂いがする。

今回ばかりはさすがに僕の命運も尽きたかと覚悟したが、こうして彼女のベッドの中にいるということは、僕はまたしても一命を取り留めることが出来たのだろう。我ながら悪運が強い。しかし、こうして何か困ったことがあればすぐに彼女を頼ってしまうのは、自分でも悪い癖だと解っている。
解っていても、僕は自分から彼女のもとを離れることが出来なかった。

僕が鼻から吸った息をゆっくりと深く吐き出すと、同じタイミングで部屋の入口のドアが開き、1人の女性の顔がひょっこりと覗いた。

「あっ」

その人影は部屋の中を一瞥しただけで僕の意識が戻っていたことに気付いたらしく、眼鏡の向こうの大きな目を見開きながらベッド脇へと近寄ってきた。

「起きたんだね。気分はどう?吐き気とかしない?」
「…………っ」

彼女の質問に答えようと口を開くが、咥内がぱさぱさに乾いていて満足に声も出せなかった。彼女はそんな僕を見て、枕元のサイドテーブルに置いてあった吸い飲みを持ち上げた。

「ごめんごめん、無理しないで。はい、お水」

彼女手ずから差し出してくれた水をありがたく頂戴し、僕は一気に半分ほどを飲み切った。まだ完全に喉の渇きが癒えた訳ではなかったが、幾分声も出しやすくなったように思う。

「いつ目が醒めたの?」
「……大体、2分ほど前だ」
「それってついさっきじゃない。さっすが私、ナイスタイミング」

彼女は屈託なく笑って自画自賛した。僕とそう変わらない年齢のはずなのに、彼女の笑った顔はまるで少女のように幼かった。
その笑顔を見て、僕はようやく自分が生きているということを実感した。実感したと同時に、腹部を中心とした途轍もない痛みが全身を襲い、僕は思い切り顔を引き攣らせた。

「―――っ、ぐぅ……ッ」
「ああ、そろそろ鎮痛剤が切れるころかな。錠剤飲めそう?」

僕がこくりと首を縦に振ったのを確認すると、彼女はいそいそと痛み止めの錠剤を自分の掌に載せて、それを躊躇いなく自分の口に含んだ。吸い飲みの脇に置かれていたペットボトルの蓋を開封し、中に入っていた水を呷ると、ベッドに横たわる僕の上にぐっと身を乗り出してくる。
そして互いに無言のまま、僕たちは静かに唇を重ねた。

わずかに開いた唇から、少々ぬるくなった水と共に丸い錠剤が2つ転がり込んでくる。彼女の舌によって喉奥に押しやられたそれを、僕はタイミングを見計らってごくりと嚥下した。体力が落ちている時には、こうして固形物を飲み込むだけで一仕事なのだと、僕は改めて実感した。

やがて僕の上から体を退けると、彼女は僕の口許に零れた水を拭き取りながら苦笑した。

「何て顔してるの」
「……どんな顔をしてるって?」
「キスだけじゃ足りない、って顔」

ぺろりと赤い舌で自分の唇を舐めて、彼女はずり落ちかけた眼鏡のブリッジを指で押さえた。

「身体があともうちょっとで真っ二つになるってとこだったのに、随分元気そうじゃない」
「……君があんな、エロいキスを仕掛けてくるのが悪い」
「ええー、今のは純然たる口移しであって、そんなエロい意図はまったくなかったんだけど」
「……嘘を吐け。自他共に認める助平医者のくせに……」

他人の体に堂々と触れるから医者になった、と彼女は言う。彼女はとかく美しいものが好きで、自分のお眼鏡に叶う肉体の持ち主であれば男も女も関係なく触りたがるという、少し困った性癖を持っていた。僕も最初に彼女に拾われた時、貞操の危機を感じるほど丹念に手当てをされた記憶がある。結局その後、彼女の方から僕にキス以上のことを仕掛けてくることはなかったが、それはそれで残念に思っている―――なんてことは、口が裂けても言えない秘密だ。

「命の恩人に対して言うセリフじゃないよね、それ。夜中にわざわざ、あんな辺鄙な所にまで迎えに行ってあげたのに」
「……そう言えば、僕はどうしてここに……?」

詳細は伏せるが、昨晩僕は公安捜査の一環でとある宗教施設に赴いていたのだ。そこで敵の襲撃をくらって大怪我を負い、命からがら逃げだした所までは覚えている。それからおぼろげに記憶している限りでは、這う這うの体で愛車の中に身を潜ませると、胸ポケットからスマホを取り出し、ここに電話を掛けたのだ。
電話をして何を言うつもりだったのか、今はもう覚えていない。最期の別れの言葉を告げるつもりだったのかも知れないし、「助けてくれ」と言うつもりだったのかも知れない。あるいはそのどちらでもなくて、この命が消える瞬間、最後に彼女の声が聴きたいと思っただけなのかも知れなかった。

だが、僕の電話を受け取った彼女の行動は素早かった。

「深夜3時に突然電話が鳴ったと思ったら、無言のまま切るんだもん。これはきっとただ事じゃないなと思ったから、着の身着のまま家を飛び出して、1時間後にあなたの車を見つけたってわけ」
「……あんな所まで、わざわざ、探しに来てくれたのか……」
「もちろん。真っ赤な血の海に沈んだあなたを見た時は、さすがにもうダメかなって思ったけど、先に自分で応急処置をしといてくれたお陰で随分出血は抑えられたみたい。あなたが自分で縫った傷口はガッタガタだったけど、癒着するほど時間が経ってたわけでもないし、今は綺麗に縫合しなおしといたから。安心してね」

彼女は飄々と笑ってそう答えたが、その目元には隠し切れない疲労の色がにじんでいた。普段掛けない眼鏡を掛けているのは、それを誤魔化すためだろう。

「どうやって、僕の意場所を?」
「うーん、明確に答えることは難しいなぁ。強いていうなら、勘かな?」
「……勘?」
「勘っていうか、今までの経験則に基づいたパターンから、あなたの行きそうな所を予測してみただけなんだけど」

ほら、私迷子の猫とか見つけるの得意だったから。と、彼女は胡散臭い笑みをその口許に張り付けた。

「……僕は、猫扱い、か」
「可愛くていいじゃない。身元不明の“あきつゴロー”よりも、よっぽど愛嬌があると思うけど?」

“あきつゴロー”というのは、彼女の開業する医院でカルテに記載されている僕の仮名である。彼女の病院では身元不明の人間に対して“あきつ○○”と名付けて管理していたが、彼女が倒れていた僕を拾った時、5人目の事例だったためにゴローと名付けられたのだ。
彼女は外科、整形外科、形成外科など様々な分野で活躍する医者だったが、保険診療をせずに自費で請求するタイプの開業医だったため、国保連に患者の個人情報を提出する必要がなかった。そのため、一般の病院にかかれない僕らのような人間には、都合のいい駆け込み寺のような存在だったのである。

僕が彼女と関わり合いになってから既に数年が経過していたが、その間、彼女は一度たりとも僕の正体を尋ねようとはしなかった。本当の名前については一度教えたことがあったのだが、それを彼女が覚えているかは正直怪しいところである。ちなみに僕は一度しか教えてもらっていない彼女の本名をばっちり覚えているが、未だにその名前で呼びかけたことはなかった。

(……のぞみ、)

と、僕は声に出さずにその名を呼んだ。向こうを向いている彼女には聴こえるはずがない、と高を括っていたのだが、次の瞬間、彼女は目を瞬かせながら僕の方を振り返った。

「え?」
「えっ?」
「今、あなた、何て……」
「……僕は、何も喋ってないぞ」

僕は僅かに首を傾げようと身を捩った。声に出してはいないのだから、一応嘘は言っていないはずだ。
しかし、僕の隠し切れない愛情を滲ませた声は、確かに彼女の耳に届いていたらしかった。

「あ……、そっか、そうだよね。私の勘違いよね」

ごめんなさい、変なことを言って。と、彼女は頭を掻きながらそっぽを向いた。けれどその時ちらりと見えた白い頬は、明るくはない部屋の中でもはっきりと解るほど、綺麗なバラ色に色づいていた。
それを見て、僕の心臓の方が大きく収縮した。

(信じられない)

どんな時も飄々としていて、本心を掴ませようとしない彼女が、僕に名前を呼ばれたくらいでそんな顔をするなんて。

「っと、ごめんね。表の診療所で患者さんたち待たせてるから、一旦向こう行ってくる」

彼女は言い訳じみた口調でそう言い残すと、僕の手にナースコール代わりのピッチを握らせて、そそくさと部屋を出ていった。最後まで僕と目を合わせようとしないその態度が可笑しくて、僕は傷口に響かないように小さく肩を揺らして笑った。

この傷の深さから言って、きっと数日間はこのベッドから起き上がることは出来ないだろう。身動きが取れないのは苦痛でしかなかったが、彼女との距離を詰めるためには、絶好のチャンスとも言えるかも知れない。

(次に彼女が顔を見せたら、)

その時はきっと、彼女の目を見てまっすぐに、その名前を呼んでみよう。
そんなことを密かに決心しながら、僕は瞼を下ろして口から細い息を吐き出した。すぐに睡魔が襲ってきたが、彼女がすぐそこにいるのだと思うと、もう恐怖は感じなかった。