プロポーズの前哨戦


「なあ、アンタが彼氏に言われたプロポーズの言葉って何やったん?」

と、ポアロで午後のティータイムを満喫している女性客が話している言葉が、やけに大きく耳に残った。
関西から来た旅行客だろうか。ボーイッシュなショートヘアの女性が話すはんなりした訛りのある関西弁は、多くの客が奏でる喧騒の中にあっても、特に目立って聴こえた。

「せやなー」

と、最初に言葉を発した女性の向かい側に腰を下ろし、こちらに背を向けていた女性が、横髪を耳に掛けながらコーヒーフロートのストローに口を付ける。一口飲んで唇を湿らせると、彼女は記憶を探るように斜め上を見上げた。

「確かめっちゃストレートに、“俺と結婚してください”やったかなぁ」
「ええー、何やそれ。全然おもんなっ」
「いやプロポーズにおもろさ必要ある?ないやろ」
「嘘やん絶対必要やろ。アンタの彼氏みたいな顔の男に、真面目くさった顔で“結婚してください”とか言われたら100パー吹くわ」
「人の彼氏や思て貶しすぎちゃう?」
「だってアレやろ?アンタの彼氏ってさぁ、ちょいブルドッグみたいな凶暴な目ぇしたアレやろ?」
「ちょいブルの何があかんねん!愛嬌があって可愛らしいやろ」

テンポのいい会話の吹き出しそうになったのは内緒である。それにしても、ちょいブルって。犯罪者でもない善良な一市民の顔に興味はないが、そんな愉快な形容をされると逆にちょっと見てみたい気もする。

「ほな逆に訊くけどな、アンタやったらプロポーズの言葉に何て言われたいん?」
「えー、あたしはまだ付き合い始めて3か月くらいやし、結婚なんてまだ考えてへんわ」
「言うて最近はスピード婚とか流行ってるらしいやん。3ヶ月で結婚とかよう聴くけどな」
「いやー、せやけどあたしはまだ結婚はええわ。まだ仕事の方が大事やもん」

最初にプロポーズの話を振ったショートヘアの女性はそう答えて、シフォンケーキに添えられていた生クリームを大量に掬った。

「ほんなら願望でもええよ。アンタやったら、何て言ってプロポーズされたいん?」
「ええー?あいつ基本好きとか愛してるとか言わんからあんま想像できひんけど、せやなあ……」

現在交際しているとかいう彼氏のことを脳裏に思い浮かべたのだろうか。ショートヘアの女性は少し考えるように間をおいて、やがてくすぐったそうに笑った。

「“あなたの全てを逃がさない”……とか」

それからぽつりと呟かれた言葉は、彼女の一見サバサバした雰囲気からは想像もつかないほど情熱的な内容だった。

「はぁー?どしたん、急にそんな乙女チックなこと言うて」
「何なん、何か文句あるん」
「大ありや。急に顔に似合わんこと言わんといて、さぶいぼ出てしゃーないわ」
「言い方酷すぎるやろ。もうちょいビブラートに包んで物言うてくれへん?」
「オブラートな。高音揺らしてどないすんねん」
「……。そうとも言うな!」
「そうとしか言わんわ」

軽妙なやり取りに聞き入っていたのは、何も僕だけではなかった。店内にいるお客さんの多くは食事の手を止めて肩を揺らしていたし、梓さんはお盆で顔を隠してぷるぷると震えている。

(それにしても、いいことを聴いたな)

プロポーズのセリフなんて、これまでちっとも考えたことはなかった。心から愛するただ一人の女性に、これから先の人生を共に過ごしてほしいという願いを込めて、結婚を申し込む。そんな、一見ありふれた幸せを、昔の僕は自分の身に置き換えて考えることが出来なかった。
当たり前のように1年後や2年後が来るということを、僕はうまく想像できなかった。

だが、今は違う。今の僕には誰より大切な恋人がいて、その恋人とは叶うならばこの先の人生を共に過ごしていきたいと思っている。だからこそ、憧れのプロポーズの言葉という話題に対して、耳が敏感に反応してしまったのかも知れない。

(せっかく今日はさくらが家にいる日だし、それとなく探りを入れてみるか)

さくらの口から“結婚”だとか“婚約”といった、“恋人”の次のステップに進んだ言葉を聴いたことはなかったが、彼女だって妙齢の女性である。そう言った話題に興味がないわけではないだろう。まさか、組織を壊滅させるという本懐を遂げていないこの状態で、彼女に結婚を申し込むなんてことはしないが、いつか来る将来のために前もってリサーチしておくのも悪くはないだろう。

仕事のために一時帰国して僕の家に身を寄せている恋人の顔を思い浮かべて、僕はふと唇を綻ばせた。その間も、関西弁の女性たちの軽妙な会話は依然として続いており、店内を抱腹絶倒の渦に巻き込んでいた。



しかしそんな僕の目論見は、あっけなく破れてしまった。

「ああ、その面白いお客さんたちの話なら、私も梓から聴いたわよ。憧れのプロポーズの言葉について語っていたんでしょう?」

梓さんとさくらが親友同士だということが、こんな形で裏目に出るなんて。僕はソファの上にさくらと並んで腰を下ろしたまま、がっくりと肩を落として頭を抱えた。

「って、あら?零さん?」
「……いや、ごめん。自分の見通しの甘さを呪っていただけだ」
「?」
「本当に大したことじゃない。気にしないでくれ」
「……よく解らないけど、解ったわ」

さくらは釈然としない表情を浮かべていたが、それ以上は特に追及せずに引き下がってくれた。

「それにしても、素敵ね。“あなたの全てを逃がさない”なんて、私も言われてみたいわ」

僕が期待していた部分とは違ったが、彼女も件の関西弁の女性たちの会話には興味津々だったようで、その話題を更に引っ張った。手に持っていたクッションを脇に追いやると、細い腕を僕の腰に回して、ぎゅうとしがみついてくる。

「こう、力いっぱいハグされながら耳元で情熱的に囁かれるのを想像したら、ぞくぞくしちゃう」
「……その相手は勿論、僕だよな?」
「あなた以外にそんなことを言われるのを想像したら、違う意味でぞくぞくするわね」

彼女はそう言うと肩を揺らして笑った。素直じゃない言い草にも聴こえるが、これが彼女なりのストレートな愛情表現なのだ。僕は彼女の遠回しな催促に応えるため、胸板に引っ付いた華奢な体をすっぽりと腕で包みこんだ。

「僕以外の男が君にそんなことを言ったら、ストーカー規制法で即刻逮捕だな。情状酌量の余地もない」
「いいの?現役の警察官僚が職権乱用なんてしても」
「権力と言うのはこういう時に利用するために持っておくべきものだと、警察学校時代の教官たちが言っていたぞ」
「うわぁ、悪い教官もいたものね」
「だが、間違ったことは言ってないからな。それに、職権でもなんでも使うさ。君を誰にも奪わせないためならな」
「そんなに心配しなくても、私、別にモテないわよ?」
「堂々と嘘を吐くんじゃない。ギルバートから報告は上がっているんだからな」

僕がわざと脅かすように低い声を出すと、彼女はバレたか、と言ってころころと笑った。

「バレバレだ。あのプログラマーが生きていた頃はまだしも、あの男が死んでからは、僕と付き合うようになってからも、言い寄ってくる男が絶えないそうじゃないか。きっぱりと断っているようだからまだいいが」
「言い寄ってくるというよりも、遊び相手になって欲しいって言われることが多いだけよ」
「君がそう思うならそれでもいいが、一夜限りの遊びでも駄目だ。いいか、さくら」

僕はここで言葉を区切ると、彼女の肩を抱く手に力を込めた。

「君のこの髪も、身体も、僕を呼ぶその声も、」
「………」
「僕を見つめる瞳も何もかも―――君の全ては僕のものだ。だから僕は、君を未来永劫逃がさない」

先ほど彼女が望んだように、その耳元に唇を近付けると、僕は熱っぽい口調で囁くように語りかけた。そうすると、僕の背中に回っていた手にきゅっと力が入り、着ていたシャツに皺が寄るのが解った。

「…………っ」
「どうだ。これで満足か?」
「……満足、というか……、いきなり本気を出しすぎよ」

あまりに破壊力が強すぎて、腰が抜けちゃいそう。そう言って、彼女は震える息を可憐な唇から吐き出した。
その声を彩る甘美な響きに、僕の背中にもぞくぞくしたものが走る。

「なあ、さくら」
「……なぁに?」
「こんな言葉よりももっと、君を満足させられる方法があるんだが……」

試してみる気はないか?と問いかけると、さくらは一瞬恥じらうように目を伏せたが、やがてゆっくりと瞼を押し上げて僕を見た。

ああ、これは、この瞳は、
素直に言葉にはしないけれど、彼女なりの了承の合図だ。

そう判断した僕は、薄く開いて僕を淫靡に誘う唇に、思いの丈を込めて咬みついた。