ファムファタールの囁き


さくらが僕の部屋に泊まりに来た日は、大抵僕の方が先に目を覚ます。それは僕が恋人の可愛い姿にあてられて、彼女の体力の限界まで抱きつぶしてしまうことが多いせいだ。自覚はあったが、それを改めるつもりはこれっぽっちもなかった。

この日も彼女は、先に目覚めた僕の隣ですやすやと眠っていた。白い頬に乱れた髪が打ち掛かる様子がなんとも言えず艶っぽい。それを撫でつけるように手で梳いてやると、彼女は擽ったいと言わんばかりに目を細め、僕の掌に擦り寄ってきた。

(可愛い、さくら……)

無意識下でそんな仕草をされると、本心から僕に心を明け渡してくれているような、心底甘えてくれているような気がして胸が温かくなる。口元に微笑みを浮かべて彼女の頭に触れるだけのキスを落とすと、僕はベッドから抜け出して、簡単に身繕いをしてから朝食を作るためにキッチンへと向かった。



彼女はあまり食べ物の好き嫌いを言わないが、僕が用意する朝食に対しては毎度手放しで絶賛してくれていた。こちらからしてみれば、ベーコンエッグに野菜をカットしただけのサラダ、ベーカリーで購入したバケットを並べただけの朝食をそんなに褒めてもらうのは面映ゆい気持ちもあったが、それでも彼女が幸せそうに笑ってくれるのが嬉しくて、僕はいつもその顔を想像しながら簡単な朝食の準備をした。

そんなことを考えているうちに、バケットを突っ込んでおいたトースターがチン、と鳴った。トングを手に立ち上がり、ホカホカのバケットを皿に盛る。これを、さくらがわざわざイタリアまで足を延ばして選んでくれたオリーブオイルと、黒くなるまで焦がしたバルサミコ酢に付けて食べるのが、密かな僕のマイブームだった。

バケットの載った皿をテーブルにセッティングし、一端の朝食らしくなった食卓を満足げに見やる。それからオリーブオイルとバルサミコ酢を入れる小皿を取り出そうと食器棚に腕を伸ばした所で、リビングの入口からひたひたと静かな足音が聞こえてきた。

(おっと。ようやくお姫様のお目覚めか)

そう予想した通り、僕の恋人の本田さくらは僕が枕元に置いておいた男物のTシャツを身に纏い、眠そうに目を擦りながら覚束ない足取りでキッチンへとやってきた。

「おはよう、さくら」
「…………ん、」
「まだ眠いのか?瞼が今にもくっつきそうだな」
「んんー……」

生返事をしながら両手で目を擦る仕草は、まるで毛繕いをする小動物のようでとても愛らしい。さくらにしては随分と子供っぽい反応だが、これも僕に心を許してくれているからだと思えば愛おしさが増した。
しかし、これはかなり本気で寝惚けている。昨日は無理をさせすぎたか、と自嘲しつつ、テーブルを指さして「オリーブオイルを持って行くから、そこに座って待っててくれ」と告げると、僕は彼女に背を向けて食器棚に手を伸ばした。
真ん中の段に置いていた真っ白な小皿が指先に触れる。それを持ち上げようとした、その時だった。
さくらの気配が真後ろにやってきたかと思うと、細い腕が僕の腹部に巻き付いて、

むにゅ。

と、柔らかな感触が背中に押し付けられた。

…………。
……………………。

「…………っ!?」

文字では言い表せない声を上げて、僕は思わず手に触れたばかりの小皿を取り落とした。幸い棚から数センチしか持ち上げていなかったため、食器に傷がつくことはなかったが、食器を取り落とすというベタな反応を素でしてしまう程度には動揺していた。
背中に当たるこの感触が一体何なのか解らないほど、僕は若くも鈍くもない。

「……さくら?」
「…………」

さくらは無言のまま、僕のお腹にゆるゆると手を這わせてきた。驚いて振り返ろうとすると、彼女は腕に力を込めて、嫌々をするように首を振った。ぎゅう、と繊細な指先に握りしめられて、着ていたシャツに皺が寄る。

(いや……、いやいやいやいや)

明らかに当たっている。しかもこの柔らかさは多分恐らくきっと、下着越しではない柔らかさだ。最早伏せておく方が無粋なのではっきり断言させてもらうが、ノーブラ状態のさくらの胸が、薄手のTシャツ越しに僕の背中を圧迫している。

一応弁解しておくならば、こんなことくらいで硬直するほど僕は純情な男じゃない。それなりに経験も積んでいるし、女の扱いにも慣れていると自分では思っている。それでもこんなに動揺してしまうのは、相手があのさくらだからだ。
彼女は行為に及ぶ時も、自分から誘うことは一切ない。わざわざ誘うような真似をしなくても、僕という男が彼女を前にして我慢が出来るはずがないということを、彼女は熟知しているのだ。そのさくらがこんなに大胆な行動に出るなんて、余程寝惚けているとしか思えない。

「さくら?」
「んー……、なぁに?」
「さくら、おはよう。もう朝だよ」
「んぅ……、おはよう、ございます」

舌足らずな口調も可愛い、ってそうじゃなくて。これは本当にあのさくらなのだろうか。ひょっとして今日は僕の誕生日だったりするのだろうか。それとも逆に、今日は僕の命日だったりするのだろうか。だからあり得ない妄想が現実になってしまったんじゃないだろうか、と僕は頭の中で取り留めのないことばかりを考えた。

僕の背中に引っ付き虫のように貼りついた彼女は、いよいよ僕のシャツの中に手を差し入れて、腹筋の表面を丁寧になぞりだした。さすがにこれ以上触られたら誘惑に負けてしまいそうで、僕は悪戯な彼女の手を掴んで、その指に自分の指を絡ませた。

「こーら、さくら。そうやって迂闊に僕を煽って、痛い目を見ても知らないぞ」
「…………?」
「僕としては、君にそうやって誘ってもらえるのは嬉しいよ。嬉しいんだが、寝惚けて僕を誘ったことを君はしっかり記憶しているだろう」

以前も寝惚けて僕のYシャツを羽織り、あまつさえ「もっと触れてほしい」などとのたまって、結果僕にあっさり食われてしまった前科が彼女にはあるのだ。そしてその時、彼女はしばらくベッドの中から出てこれないほどの強い羞恥心に苛まれ、寝惚けて僕を煽ったことをひどく後悔していた。

「あの時みたいに後悔したくなければ、無暗にちょっかいを出すような真似はするな」

正直そろそろ理性が限界を迎えそうだったが、彼女を哀しませるのは本意じゃない。だからこれ以上のお触りは禁止だ、とやんわり彼女の手を自分の腹から引き剥がそうとすると、彼女は少し黙ったあとでぽつりと言った。

「……後悔なんて、」
「ん?」
「後悔なんて、してないわ。……あの時も、今も」

先ほどまでとは打って変わって、彼女はしっかりした口調で僕の言葉を否定した。彼女の暴挙を止めるために絡めた指を握り返されて、こちらの方が怯んでしまう。

「ごめんなさい、素直じゃなくて。……だけど、解って欲しいの」

私だって、本心からあなたを欲しいと思うことはあるのよ、と彼女はか細い声で告げた。今にも消え入りそうなその告白を背中で受け止めて、僕は大きく目を見開いた。

(ひょっとして、さくらは最初から―――)

信じがたい思いのまま肩越しに振り返れば、彼女は僕の視線を避けるように慌てて顔を伏せた。けれど、ちらりと見えた彼女の瞳は隠しきれない欲に濡れ、その頬は明らかに上気して美しく色づいていた。

それは確かに、寝惚けた人間のする表情ではなかった。

「…………」

ごくり、と唾を飲み込んで、僕は彼女の手をやや乱暴に引き剥がした。拒絶されたと思ったのか、彼女の肩がぎくりと竦む気配がしたが、僕はお構いなしに振り返って、その体を抱き上げた。

「きゃ、」
「まったく。昨日は散々無理をさせたから、今日くらいは労わってやろうと思ったのに」

朝ごはんが冷えたからって、後で怒るんじゃないぞ。そう低い声で告げて再び寝室のドアを開けると、僕の意を汲んだ彼女は照れくさそうにはにかんで、

「……ええ。朝ごはんよりも先に、あなたをちょうだい」

天使のような顔で悪魔の囁きを落としながら、僕の唇に触れるだけのキスをした。