彼女のお気に入り


さくらの様子がおかしい。と、スマホの画面越しに顔を見ただけなのに、僕は瞬時に判断した。向こう側から聴こえてくる彼女の声が、普段よりも3割増しで明るく弾んでいる。これが、僕と通話出来てテンションが上がっているから、という理由ならば何も不思議はないのだが、むしろそうであってほしいのだが、残念ながらそうではないらしい。

「零さん?こちらの声、ちゃんと聞こえているかしら?」
「ああ、もちろん。僕が君の声を聴き逃す訳がないだろう」
「それならいいんだけど。依頼されていたハッキング探知ソフトは、ギルバートから警察庁のあなたのパソコンに転送するように指示してあるわ」
「さくら」
「明日の正午から5分間しかアクセスできないように設定しているから―――なぁに?」

何か不明な点があったのかと、小首を傾げる彼女に僕は緩やかに手を振った。

「いや、不明な所はない。いつもありがとう、助かるよ」
「いえいえ。毎回きっちり報酬を払っていただいてますから、こちらとしても文句はないわ」
「それは置いといて、さくら。今から言う質問に、正直に答えて欲しい」
「……どうしたの?怖い顔をして」
「僕は普段からこんな顔だ」
「そう?確かに普段から、作り物みたいに綺麗な顔だと思ってるけど」
「ありがとう。でも、今はそういう言葉が聴きたいんじゃない」
「否定はしないのね」

即座に突っ込みを入れつつ、さくらは僕の固い表情に何か感じるものがあったのか、カメラの向こうで居住まいを正した。

「どうぞ。私には何も後ろ暗いことなんてないから、何でも正直に答えるわよ」
「それじゃあ遠慮なく。さくら、何かあったのか?」
「えっ?」
「僕の勘違いだったらすまない。だが、君の様子が普段とちょっと違う気がして」
「…………」
「何と表現したらいいのか解らないが……、とにかく、今日の君はとっても魅力的に見えるんだ。ああもちろん、いつもは魅力がないと言いたいんじゃない」
「…………」
「ただ、今日は白い頬がバラ色に上気しているし、いつもはキリッとしている目もどこかうっとりしているし、そのくせ宝物を見つけたかのようにキラキラしているし―――。つまり、今日の君はとても生き生きした魅力に満ちているんだ」

彼女が何も言わないから、僕は1人でバカみたいに彼女を褒め称える言葉を続けた。彼女はやはり大きな瞳を無邪気に輝かせながら、僕が次に何を言うのかと探るようにこちらを見ていた。

「だから、何かとびきりいいことでもあったのかと思ったんだ。違ったか?」
「……驚いた。さすが、ゼロの観察眼は侮れないわね」

さくらはここで観念したように僕から視線を外すと、華奢な指先で自分の髪をくるくると指に巻き付けた。

「そんなに解りやすかったかしら。誰にも話したことはなかったんだけれど」
「他の誰を誤魔化せても、僕の目は欺けないぞ」
「どうやらそのようね。いいわ、全てお話します」
「ああ。何があったのか、詳しく話してくれ」

一体何が彼女の気分をそんなに高揚させているのか、その理由に僕は見当がつかなかった。ただ、その理由がどうやら自分ではないらしいということが、恋人としてはどこか悔しかった。
僕の見つめる先で、彼女は両手を顔の前に持って行き、ゆっくりと指を組んだ。それから陶然とした目で宙を見上げると、「うふふ」と思わせぶりに笑い始めた。

「実はね、今日、とっても嬉しいことがあったの」
「ほう」
「One D moreっていう、私の大大大好きなイギリスの男性ボーカルグループがあるんだけど、その人たちが今度ドイツで単独ライブをやることになったのよ」

供述開始早々に聞き逃せない単語が飛び出したが、僕はひとまず続きを促すことにした。

「それで、そのOne Dのリーダーのジョージが、ライブの演出を誰も見たことがないような革新的なものにしたいって言ったらしくて」
「ふむ」
「それで演出家として白羽の矢が立ったのが、なんとこの私だったの!」
「へぇ?それは確かにすごい話だな」

僕も以前、彼女が演出に携わった船上パーティーに参加したことがある。あのクオリティをライブ会場でも再現できるなら、それは壮大なものになるだろう。他にも彼女やチームラボの面々は、日本でもアイドルグループのライブの演出に協力をしてきた実績があり、One D Moreのリーダーがそのことを知っていたのなら、今回の指名もそう不自然なことではないように思えた。しかし当の本人にとっては、青天の霹靂にも等しいものだったらしい。

「そうでしょう?これってすっごく光栄な話よね!数ある演出家やIT技術者の中から、この私を指名してくれたのよ!それも、他ならぬリーダーのジョージから直々に!」

彼女は両手で握りこぶしを作りながら、すっかりはしゃいだ声で僕に同意を求めてきた。

「それで今日、さっそくライブの打ち合わせをしてきたんだけど。皆さん、初対面だったのにとってもフレンドリーで、こう、近寄ったらすっごくいい匂いがして」
「へぇ」
「それで私の目をじっと見つめて、“会えて嬉しいよ、さくら”って……!ねえ、解る?ジョージが私の顔を見て、私の名前を呼んで笑いかけてくれたのよ!こんな幸せなことってないわ!」
「ほぉー……」

ああもうどうしよう、嬉しすぎて心臓が破裂しちゃいそうだったわ、と彼女は両手で胸を押さえて興奮の度合いを僕に伝えようとした。しかしテンションの上がる彼女とは対照的に、僕のテンションは下降線の一途をたどっていた。

面白くない。はっきり言って、非常に面白くない。

自分の恋人が、他の男と会って名前を呼ばれたくらいのことでこんなに幸せそうな顔をしているのをまざまざと見せつけられて、それでもにこにこ笑っていられる奴がいるとしたら、そいつはかなりのマゾヒストか聖人君子だろう。生憎、僕はそのどちらでもなかったので、とても正直に“面白くない”という感情を、顔面筋を総動員して表現した。

「これっぽっちも知らなかったな。君がそんなにOne Dの熱狂的なファンだったなんて」
「あっ、でも、彼らを好きになったきっかけはね」
「僕の前で、他の男を好きなんて言うな」

思っていた以上に尖った声が出てしまい、僕はハッとして口を押えた。彼女もここでようやく僕が不機嫌だったことに気付いたらしく、目を丸くして僕を見返していた。
彼女が隠そうとしていたことを無理やり暴いたのはこちらの方だ。だから、ここで僕が彼女に対して怒るのはお門違いだろう。そんなことは、言われるまでもなく承知している。
だが、頭で納得していても簡単に割り切れるものではないのが人の情というものだ。

「君の口から、他の男を好きだなんて言葉を聴きたくなかった。僕以外の男のために、そんな悩ましげな表情を浮かべる所を見たくなかった」
「零さん……」
「君にそんな顔をさせられるのが恋人の僕じゃなくて、君のことをよく知りもしない男だという事実が、正直、かなりショックだったんだ。自業自得だということは解っているが」

出来ることなら今すぐドイツに飛んで行って、他の男なんて見られないようにしてやりたい。日本から出られない自分の立場をこんなに疎ましく感じたのは、これが初めてのことだった。

「子供っぽい独占欲だと君は呆れるかも知れないが、これが僕の偽らざる本心だ。いいか、君は僕のものだ。誰よりも君を愛しているのはこの僕で、君を一番幸せにできるのもこの僕だ」

だから、と言って僕は膝の上で拳を握った。

「だから、絶対に他の男の所に行くな」

自分でも馬鹿馬鹿しいことを言っている自覚はある。さくらが今更僕を裏切って、他の男に目移りするような女じゃないことも解っている。だが、彼女のあの顔を見てしまったあとでは、これくらい言わないとどうしても気が済まなかった。

さくらは呆気に取られたような顔で僕を見つめていたが、やがてその口許にゆるゆると笑みを浮かべた。

「やきもち?」
「うるさい。ああそうだよ、僕は君のことに関してはとことん心が狭くなるんだ。悪かったな」
「何にも言ってないじゃない。私は嬉しいわよ、あなたのそんなに余裕のない顔を見ることが出来て」

でも、あなたは1つ勘違いをしているわ、と彼女は悪戯っぽく笑った。

「私が彼らを好きになったきっかけはね、あなただったのよ」
「僕が?」
「ええ。初めてハロちゃんのことを紹介してもらった時、あなたの部屋でギターを聴かせてもらったでしょう?」
「ああ、確かにそんなこともあったな」

さくらに指摘されて、僕はあの日の記憶を頭の奥から掘り起こした。ハロのことを自分の家族だと紹介した日、僕の演奏を聴いてもらうだけでなく、彼女にも簡単にギターの弾き方を教えたことがあったのだ。

「その時に、あなたが歌ってくれた曲の中にOne Dの歌があって。それがとっても素敵だったから、自分でも色々と探して聴いてみたの」

言われてみれば確かに、あの日手遊びで弾いた曲の中には、One Dのヒットチャートも含まれていたような気がする。あまりにも有名な曲だから、それを選んだという自覚さえなかったが。

「楽譜も見ずに演奏できるくらいだから、あなたもよっぽどのファンなのかと思っていたのよ。それで、あなたも好きなアーティストなら私も好きになりたいなって思って聴いていくうちに、自分でもびっくりするくらいはまっちゃって」
「……それって」
「ええ、そうよ。私が彼らを好きになったのは、完全にあなたの影響なの。だから今回、こうして彼らのライブの演出を任されることになって、私がそんなに幸せそうな顔をしているのは、あなたのお陰とも言えるのよ」

そう言ってさくらは微笑ましそうに笑った。その顔を見て、僕は胸の中でつかえていたものが取れたような気がした。
僕が彼女の世界を知りたいと思って、彼女の研究内容を調べているのと同様に、彼女もまた僕の好きなものを共有したいと思ってくれていたのだ。
その原動力となっているのは、紛れもなくこの僕へ向けた愛情だった。

「そういうことだったのか。悪かったな、勝手に嫉妬して怒ったりして」
「まったくだわ。お詫びに今度、私が日本に帰ったら、いっぱいOne Dの曲を聴かせてちょうだい」
「ああ、時間を見て練習しておくよ。期待しておいてくれ」

君もライブの演出係がんばれよ、と本心からエールを送ると、彼女はもちろん!と言ってはにかむように笑った。

その笑顔は、今日見た彼女の表情のうち、最も幸せそうに華やいでいた。