花と虚空


心地よい風が吹いた。
ほのかに甘い香りを運んでくる秋の風が、前を歩く零さんの美しい金糸の髪を靡かせる。さらさらと揺れるそれが陽光を弾いて、眩しさに私は目を眇めた。

彼は今、どんな顔をしているのだろう。彼は車を降りてから一度も振り返ることなく歩みを進めていて、その凪いだ背中からは彼の心情を推し量ることは出来なかった。

―――墓参りに付き合ってくれないか。

彼の方からそう切り出されたのは、今朝のことである。彼の家に泊まりに行って、同じベッドで目覚めて真っ先にそんなお誘いの言葉を告げられたのだ。

誤解を恐れずに言うならば、私はこの時、お墓参りと聴いてどきりと胸が高鳴った。それが誰のお墓であるにせよ、こんな風に切り出してくるということは、その相手は彼にとってよほど大切な人であるに違いない。これまで一切踏み込んでこなかった彼の過去を、彼の大切な思い出を、私とも共有してくれる気になったのだ。そのことが無性に嬉しかった。
躊躇いもなく承諾した私に、零さんはようやく肩の力を抜いて微笑んだ。一体誰のお墓参りに行くのかという当然の疑問を私は口にせず、また彼も答えなかった。

お墓参りに行くというのに、彼はまったくの手ぶらだった。お墓に供えるお花もお線香も持たずに家を出た彼に、私は特に何も言わなかった。自分がそこに居たという痕跡を残してはならないという、公安警察としての性分がそうさせているのだろうと思っていた。

(だけど、一体どこに向かっているのかしら。こっちの方にお墓はなかったはずだけど)

彼が車を止めたのは、河川敷にほど近い大きな公園の駐車場だった。この近所に霊園や納骨堂はなかったはずだが、彼は迷うことなくその足を進め、広々とした公園の敷地に足を踏み入れた。

「さすがにこの時期になると、あんまり人影もないな」

長い沈黙を破り、不意に彼が口を開いた。けれどその顔は変わらず前を向いていて、こちらからはその表情は窺い知れなかった。

「だが、逆に好都合だ。お陰でゆっくり参ることが出来る」
「…………」
「もう少しで到着だ。―――ほら、あそこだよ」

そう言って彼は前方を指さした。釣られて視線を前に投げかけると、そこには裸の枝を秋風に晒した大きな樹が立っていた。季節外れの時期に来てしまったものだから、当然その枝は可憐な花を付けているわけでも、瑞々しい葉を茂らせているわけでもなかったが、彼は確かな足取りでその根元に近付いて、ようやく私を振り返った。呆気に取られる私を可笑しそうに見返して、緩やかな弧を描いた唇を開く。

「ここが、僕の友人たちの墓標だよ」

彼は静かな声でそう断言した。けれど私は未だにそれがお墓であるとは実感できず、ぱちぱちと目を瞬かせた。

零さんの言うお墓とは、1本の桜の樹だったのである。

「どうしてここが墓なんだ、って顔をしているな」
「……ええ。どうしてここがお墓なの?桜の樹の下には屍体が埋まっているとか、そういう話?」
「梶井基次郎か。センスは悪くないが、今回はちょっと違う」

それに、ここを墓標と呼んでいるのはただの僕の感傷さ、と彼は自嘲気味に肩を揺らした。それから彼は桜の幹に背中を預けて、地面の上に腰を下ろした。自分のスペースの隣にポケットから取り出したハンカチを敷くと、私に向かって手を差し伸べる。

「少し長くなるんだが、君さえよければ、僕の話を聴いてほしい」

とある5人の男たちの、若かりし頃の話をね。

そう言って彼は柔らかく微笑んだ。その微笑みに誘われるように、私は彼の手をしっかりと握り返した。
ぶわりと大きな風が吹いて、私の髪を翻した。視界を覆う髪を慌てて手で撫でつけると、咲いているはずのない桜の花弁が4枚、彼の周りに舞い散ったような気がした。

*****

どっしりと大地に根を張る桜の幹に寄り掛かりながら、僕はさくらに長い話を語って聴かせた。ゼロ、ヒロと呼び合った幼馴染のこと、僕が警察を志した理由、桜吹雪の舞う季節に警察学校で出会った大切な同期たちのこと。その同期たちがどのようにその職務を全うし、その命を散らしたのかということも、僕は包み隠さず話した。さくらは繋いだ手をぎゅっと握りしめたまま、真剣な表情で僕の話に耳を傾けてくれていた。

「最後に残っていた伊達が死んだのは、もう一年以上昔のことだ。それぞれの墓に参ったことはあるが、一度行ったきり足を運ばないようにしていたんだ」
「それは……どうして?」
「伊達の墓参りに行った時、彼の後輩にあたる刑事課の人間と鉢合わせしそうになったからさ。僕はこんな仕事に就いているから、変装もなしで堂々と彼らの墓参りに行ける立場でもないし、何度も同じ場所に足を運んでいることが万が一組織の人間に知られたら、そこは一瞬でマークされてしまうからな」

だから、と言って僕は枯れ枝同然の桜の樹を見上げた。

「だからこうして、僕たちが出会った日にも咲いていた桜の樹を、勝手に墓標に見立てて心の中でお参りをしていたんだ。お参りと言っても、精々桜の花を見て彼らと過ごした日々に想いを馳せるくらいのことしか出来なかったけどな」
「なるほど。桜の花はあなたにとって、とても特別な意味をもつ花なのね」

彼女はそう呟いて幹に背中を預けた。ごつごつしてて痛いわ、と苦笑する顔に釣られて、僕も頬を緩ませる。

「ああ。僕の所属する“ゼロ”も元々は“サクラ”と呼ばれていたこともあるし、警察手帳に付いている旭日章も、別名“桜の代紋”と呼ばれているだろう?」

“東天に昇る、かげりのない、朝日の清らかな光”を意味する旭日章。警察学校を無事に卒業し、これを身に付けることを許されたあの日、僕の心身は名実ともにこの国のものになった。
その喜びを共に分かち合った仲間たちは、既にこの世には亡く―――。

「……どうしてそんな方たちのお墓参りに、私を連れてきてくれたの?」

彼女は桜の樹に寄り掛かったまま小首を傾げた。当然ともいえるその疑問に、僕は彼女の瞳を覗き込みながら答えた。

「決意表明をしたくなったんだ」
「決意表明?」
「ああ。こうして僕が自分の過去を誰かに打ち明けるのは、君が初めてのことだったんだが」
「それは―――とっても光栄だわ。誰も知らないあなたの内側に踏み込ませてもらえて、とっても嬉しい」

彼女は自分の頬を押さえながらそう言った。その頬は桜色に上気していて、彼女の言葉が本心から出たものであるということを僕に教えてくれていた。

「そうやって、僕の過去も僕の未来もひっくるめて、今の僕を支えてくれる君のことを、友人たちに紹介しておきたかったんだ。彼らの前で、君を一生涯かけて愛しぬくということを誓っておきたかった」
「零さん……」
「さくら」

万感の想いを込めて彼女の名前を呼ぶと、僕はその上気した頬に手を添えた。ゆっくりと体を屈めて距離を詰めると、彼女は照れたように淡く微笑んだ。
その微笑みが終わらないうちに、僕はチェリーレッドの唇に自分のものを重ねた。
僕たちの熱い唇が触れ合った瞬間、存外強い風が僕たちを包み込んだ。彼女の艶やかな髪が他愛もなく風に攫われ、またさらさらと彼女の肩に打ち掛かる。

その肩に、咲いているはずのない桜の花弁を見たような気がして、僕は思わず目を丸くした。

「零さん?」

どうかしたの、と目顔で尋ねてくるさくらに、僕は「いや、」と生返事をして、ぐるりと視線をあたりに一周させた。

(今、一瞬誰かの声が聴こえたような)

気のせいだろうか、と思いつつも、僕たちを冷やかすような風の中に確かに聴き慣れた男たちの声を聴いたような気がして、僕は耳をそばだてた。そんな僕の様子に気付いたのか、左手首のスマートウォッチから落ち着いた男の声がした。

「風は時として彼方からの呼びかけを伝える」
「ギルバート?」
「そんな言い伝えを、どこかの書物で読んだことがあります。この風は、あなたのご友人たちが彼岸の世界から、あなたに何かを呼び掛けている声なのかも知れません」

霊魂の存在なんて頭から信じていなさそうな人工知能は、この時ばかりは珍しくそんなスピリチュアルなことを言った。

「ヒロたちの、声……」

僕は冷たい風を頬に受けながら、もう一度彼らの声が聴こえないかと耳を澄ました。さくらはそんな僕の傍らにそっと寄り添い、僕の手を握ってくれていた。

―――何だよ、降谷。随分美人な彼女を捕まえたじゃねえか。
―――全くだ。女に現を抜かすなんて学生の風上にも置けない、なーんて偉そうに俺に説教してたのは、どこのどいつだったっけ?
―――まあまあ、僻むのはそこまでにしとけよ2人とも。大事な女がいれば、その分男が上がるってもんだ。降谷がそれをようやく理解してくれて嬉しいよ。
―――伊達のそのセリフ、まるで父親みたいだな。でも、ゼロが幸せそうで安心したよ。

そんな言葉が容易く彼らの声で再生されて、僕は唇をわななかせた。
声はそれだけで留まることなく、一際大きな風となって僕たちを包み込んだ。

―――俺たちは、風になってお前の行く先を見守ってる。だからゼロ、孤独に苛まれそうになった時は、彼女と一緒に風を数えてくれないか。
―――いくつもいくつも風を数えて、2人で俺たちの息吹を感じてほしい。それなら、もうお前も寂しくないだろう?

この胸に直接届いたその声は、確かにあの懐かしい景光の声だった。

「―――……っ」

人をさみしんぼ呼ばわりするな、という言葉は音になることなく風に攫われた。それでも僕の精一杯の悪態は彼らに届いたようで、揶揄うように僕の髪を乱しながら木枯らしは彼方へ遠ざかっていった。

思わぬ風圧の強さに目を閉じた僕の視界を覆ったものは、

“桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。”

そんな言葉が思い出されるほど美しい、桜吹雪の幻影だった。
けれどもこの時僕の胸を満たしていたのは、決して“孤独”などではなかった。

亡き友人たちへの別れを告げた僕の掌に残っていたものは、細くて頼りなくて、それでも何より僕の心を安堵させてくれる、確かな彼女の温もりだった。