雨だれの小夜曲


※若干背後注意(R15くらい)
※大したことはしてない




はあ、と荒い呼吸音が薄暗い玄関にこだました。その音をかき消すように、分厚い扉を隔てた向こうからざあざあと雨音が聴こえてくる。

(あつい、)

ぐっしょりとこの体を濡らす雨粒が、結った髪の毛先から滑り落ちる。板張りの床に叩きつけられたそれがぱたぱたと音を立てて、私はぴくりと眉根を寄せた。

(あつい……)

壁に押し付けられた手首に鈍い痛みが走って、その痛みにこれが現実なのだと思い知らされる。痺れて動かない指先も、濡れた服が纏わりついた二の腕も鳥肌が立ちそうなほど冷え切っているのに、彼の手に触れられている箇所だけが燃えるように熱かった。
いや、熱いのは私の体を壁に縫い付ける彼の掌だけではなかった。彼の粘膜が私の粘膜と触れ合い、くちゅくちゅと水音を立てているその箇所から、じわじわと身を焦がすような熱が内側から全身に広がっていく。

「は……、零、さ……」
「…………」
「ん、……んんッ、……ふ……っ」

私が言葉を発するのを咎めるように、彼は乱暴に私の唇の粘膜に触れた。

キスをされている。
零さんが借りているアパートの、明かりも点けていない玄関で、狭い空間に無理やり体を捻じ込ませながら、零さんにキスをされている。

糸を引きながら彼の唇が一度離れ、その隙に逃げようとしたのを見越したかのように抑え込まれる。大きな手が私の顎を掴んだかと思えば、すぐにもう一度唇が重なった。

「ん―――ッ、んん―――っ!」

噛み付くような口付けだった。驚きに萎縮する私の舌を絡め取って、彼の歯が立てられる。痛みはなかったけれど痺れるような感覚が首の後ろから這い上がり、私は強く目を閉じた。
立っていられない。根こそぎ奪い取られるような感覚が怖くて、私は彼の腰に縋り付いた。腰に、それから広い背中に指を這わせて、彼の逞しい体に縋り付いた。
私が指に込めた力に応えるように、彼の灰色のスーツに皺が寄る。何とか踏ん張って足に力を入れようとするけれど、密着した彼の胸から立ち上る甘い匂いに、また訳もなく腰が砕けそうになった。

(頭、ふわふわ、して……気持ちいい)

まるで赤子の手をひねるように、彼の手に、唇に脳髄が溶かされていく。キスしかされていないはずなのに、まるで貫かれているかのような快感が全身を走り、私は胸を震わせた。

「……っ、……ぅ」

助けて、と言ったつもりだった。酸欠で霞む視界が怖くて、足元が抜けていくような恐怖に慄いて、私は私をこんな状態に追い込んだ張本人に助けを求めた。
私の後頭部の髪を掴んでいた彼の手から、僅かばかり力が抜ける。漸く解放された唇は彼のものか私のものかも解らない唾液で濡れていて、暗闇の中でそこだけが卑猥に光って見えた。酸素を求めて呼吸をすれば、怯えたようなか細い声が漏れる。

「れい、さん……?」
「……っ、すまない。乱暴な真似をして」

彼ははたと我に返ったように目を見開くと、私の髪を鷲掴みにしていた手をぱっと放した。その指先からまた新たな雫が飛び散って、ぱたりと小さな音を立てる。

「ん、……別に、平気だけど……」

いきなりどうしたの、と言外に尋ねると、彼はその蒼い瞳に明らかな欲情の炎を湛えながら、私の全身を見下ろした。

「服が……」
「服?」
「濡れた服が君の体に張り付いていたから、ムラッとしただけだ」
「っん、」

言いつつ彼は私のうなじに顔を埋めた。熱い舌が肌を這い、ぞくぞくしたものが背筋を駆け上る。

「……ふふ。それで、帰って早々こんなにがっついているってわけ?」
「君だって、半ばその気だったんだろう?」

彼は私の肌を伝う水滴を舐め取りながら、そんな失礼なことを言った。

「あっ、……その根拠は?」
「君の目だ」
「私の、目?」
「ああ。君の目が、僕を見つめるから」

黒々と濡れて真ん丸になった私の目が、彼を見つめていたから。だからこんなに昂っているのだと、彼はこちらに全ての責任を丸投げしてきた。

「あなたの方が、先に私を見ていたんでしょう」
「それは仕方ないだろう。恋人がこんなエロい恰好で隣に立っていたら、男なら誰だってガン見するさ」

彼はそう言って私の着ていたブラウスの上から胸の膨らみを撫でた。濃い色の下着と肌の色が、張り付いた白い布地の下に透けて見えて、今更のように羞恥心が沸き起こる。

「……いきなりのゲリラ豪雨だったものね。あなたのスーツもびしょびしょだわ」
「おまけにこの気温だ。体が冷えて仕方ない」

だから2人で体が温まることをしよう、と言って、彼は私のブラウスを引き裂く勢いでボタンを外した。何もこんな狭い所で始めなくても、ベッドまではあと十数歩の距離なのに。一瞬そんな考えが頭を過ったが、彼の性急な手付きに煽られて、結局そのまま流されることにした。私の方からも彼の肩にするりと手を回して、仕立てのいいスーツを脱がせてやる。その間も、ちゅ、ちゅ、と音を立てながら彼の唇が私の胸元に落とされて、濡れた髪が皮膚を擽った。

(あ、この匂い……)

零さんが使っているシャンプーの香りだ。そう認識して、私は目の前で揺れる頭に手を添えると、そっと金の髪に口付けた。大好きな香りが鼻腔を満たし、私は満足げに唇を綻ばせた。

「……雨の日って」
「ん?」
「あなたの匂いが、一段と濃い気がするの」

私の言葉に彼は一瞬押し黙って、それから私の顔を上目遣いに見上げてきた。

「それは、褒め言葉と受け取っても?」
「ええ、勿論よ。私、あなたのこの匂いがたまらなく好きなの」

ぞくぞくしちゃう、と言って私は彼のネクタイに手を伸ばした。シュルシュルと衣擦れの音が鼓膜を揺らし、彼の襟元が締め付けから解放される。
その両端を持ったまま、私はそれを軽く引っ張った。僅かに首を傾けて彼我の距離を詰め、薄く開かれた唇に自分のそれを押し付ける。

「さくら……」
「ん、……は、ん……っ」

彼の歯が私の下唇を食み、歯列を舌でなぞられる。求めに応じて口を開ければ、彼の掌が私の後頭部を引き寄せた。髪の生え際を指先でそっと撫でられて、「ひゃ、」と弱り切ったような声が漏れる。

「……も、そこ、やだってば……」
「ああ、さくらはここが弱いんだもんな」
「ん……、ん……!」

ふるふる、と首を振って彼の手から逃れようと思っても、咬みつく唇がそれを許してくれなかった。簡単に結っていたヘアゴムを取られて、濡れて重みを増した髪が私と彼の顔を覆い隠す。ここで彼はすん、と鼻を鳴らして、下ろしていた瞼を開いた。

「確かに、雨の日は君の匂いが濃くなるな」
「……それって、いい意味で?」
「勿論だ。僕しか知らない、君の匂いだ」

甘く熟れて僕を誘う、僕の大好きな匂いだ。彼は陶然と囁きながら、私の背中に腕を回してブラジャーのホックを外した。
ふるりと揺れた私の胸にむしゃぶりつく彼の頭を引き寄せながら、私は後頭部を固い壁に預けて目を閉じた。

“あなたの匂い”などという、いかにも抽象的な匂いであっても、それは決して文学的な表現などではない。これまでに互いの肌に触れあってきた記憶と経験に基づいた、確かな根拠のある匂いである。
触覚、視覚、味覚、聴覚などの情報は、大脳新皮質を経由してから記憶を司る大脳辺縁系へと伝わる。これに対して、嗅覚で得た情報はそのままダイレクトに大脳辺縁系へ伝達される。だから、雨に濡れたため、また彼とこうして触れ合ったために生じた体温の変化による匂いは、皮膚に刻まれた彼の指先の感触とともに強く記憶に焼き付くのだ。

大脳辺縁系は、自律神経を司る視床下部との神経伝達が盛んであるために、俗に「感じる脳」とも呼ばれている。したがって、それぞれがセックスの時に記憶した、互いの肌の感触と密接に結びついた匂いを嗅覚が感じ取ると、大脳辺縁系から視床下部に神経伝達物質が運ばれ、全身の官能を呼び起こすのである。

(ああ、だから)

だから今日は訳もなく気持ちが昂っているのだと、私はようやく腑に落ちた気持ちで息を吐いた。いつの間にか私も彼も、身に着けていた衣服をほとんど脱ぎ捨てて、生まれたままの姿になっていた。
その表面に浮かんだ水滴が雨粒なのか汗なのか、最早私には見分けがつかなかった。

「零さん―――」

きて、と言って私は両腕を広げた。その言葉に彼は最後の理性をかなぐり捨て、私の体に覆い被さってきた。じっとりと濡れた肌が擦れ合って、彼の香りがぶわりと肺を満たした。

ざあざあと降りしきる雨音は、先ほどよりも勢いを増してマンションの壁を叩いていた。