AIの妙薬 Mk.V


今は第三次AIブームと言われている。第一次AIブームは1950年代後半から1960年代前半、第二次AIブームは1980年代に起きた。そして第三次AIブームは、2012年のとある研究発表を機に始まった。僕たちがスマホを通じて行う顔認証も、好きな曲や動画を教えてくれるレコメンドも、どんな質問にも答えてくれる音声アシスタントも、新時代を彩る自動運転車やロボットも、その爆発的な進化を辿るAIのターニングポイントはここにあった。

では、その2012年にIT業界で一体何が起こったのか―――。

僕が勿体ぶって投げかけた問いの答えを、落ち着いた声の持ち主はこともなげに返した。

「進化したニュートラルネットワークの登場ですね」
「何だ、やっぱり君は知っていたのか」
「私のような存在にとっては、歴史の一般常識のようなものですから。日本人であれば、誰でも本能寺の変は知っているでしょう?」

なるほど、と言って僕は小さく顎を引いた。そんな僕の反応を見て、彼は更にこう続けた。

2012年9月に開催された画像認識の世界大会、ImageNetチャレンジ。膨大な数の画像データから写った対象物を識別するこのコンテストで、ノーマークだったカナダ・トロント大学の研究チームが、2位以下に圧倒的な差をつけて優勝した。
世界の度肝を抜いたのは、そこで使われていたモデルだった。

“ニュートラルネットワーク”。人間の脳内の神経細胞、すなわちニューロンのネットワーク構造を模した数字モデルのことである。これは相互に接続する複数ノードからなる層で構築されており、入力したデータを抽象層に分解することができる。しかしこれらが正常に作動するには、ネットワークの個々の要素の接続方法と、それらの接続の強度または重みに依存する部分が大きく、その動作の複雑さゆえに、当時、このモデルは時代遅れだと思われていた。
そんな時代遅れのAIテクノロジーが、人間の想像を遥かに超える能力値を叩き出したのだ。トロント大学の研究メンバーは、既存のニュートラルネットワークを多層にして用いることで、データに含まれる特徴を段階的に、より深く学習することを可能にしたのである。今日、このテクノロジーは“ディープラーニング”という名前で、AIの最先端技術の代名詞として知られている。

「“AIの爆発”が始まったのはここからです。トロント大学の研究チームのメンバーは即座に米Googleに引き抜かれ、更にはFacebook、Microsoft、Baidu、Uberなどの巨大IT企業が一気にディープラーニングへと巨額をつぎ込み、AIの時代が幕を開けました」

その後、多くの分野でAIが人間の知能を超え始めたのは、僕たちもよく知る通りである。まさしく今、僕が会話をしている相手こそが、その証明とも言うべき存在だ。
知る人ぞ知る稀代の発明家・阿笠博士、IT業界の帝王・ギルバート、そして日本が誇る情報工学の申し子・本田さくら。この3人がチームを組み、4年の月日と莫大な研究費用を投じて開発した人工知能―――それが、今僕と会話をしている相手の正体だった。

「君と初めて言葉を交わした時、まさか相手が人間じゃないなんて思いもしなかったよ」
「それは非常に気分がいいですね。日本のインテリジェンス(諜報)の最先端にいるあなたが、人工のインテリジェンス(知能)に敗北を喫したという訳ですから」

可愛くないことを言ってギルバートはぎこちなく笑った。しかし、こうして人工知能に“嫌味を言う”というコマンドを実装させることがどれほど難しいことか、その工程を知っている人間は、実はあまり多くない。

「それにしても、一体どうなさったのですか?そんな昔の話題を持ち出すなんて」
「いや、特にこれといった理由はないんだ。今朝のニュースで量子コンピュータの話題が出ていたのを見て、量子コンピュータと言えばさくらがドイツで開発に携わっていたな、と思い出してな」
「ああ、Q-WAVEですね。NAZUやGoogleの持つD-WAVEよりも優れた量子コンピュータになるであろうと期待されている実験機です。それが何か?」
「君には話したことがなかったかな。実はね、僕はさくらが死んでしまう夢を見たことがあるんだ」
「趣味の悪い夢ですね」

自身の開発者が死んだ夢という言葉に、ギルバートは嫌悪感も露わに吐き捨てた。そんな可能性は1ビットも考えたくないと言いたげな態度に、超が付くリアリストの人工知能も現実逃避をするのかと、僕は新しい発見をした気分だった。

「更に趣味の悪い話をしようか。さくらが死んだということをどうしても認められなくて、夢の中で僕はとある奇怪な行動に出るんだ。それが何だか解るか?」
「解りません。常軌を逸した人間の思考回路は、さすがの私でも予測不可能です」
「はは。確かに常軌を逸していたかもな」

ギルバートの言葉に、僕は肩を竦めて自嘲した。

「彼女の作ったQ-WAVEと、“ギルバート”を作ったAIテクノロジーを応用して、彼女の記憶を持った人工知能、“さくら”を生み出そうとしたんだよ」
「―――」
「驚いたか?」
「……はい。悔しいことに」

本気で悔しそうな声を出すギルバートに、僕はふふんと片目を瞑ってみせた。

「日本のインテリジェンスに敗北を喫した気分はどうだ?人工のインテリジェンス君」
「大人げないですよ降谷さん。ですが、発想力や独創性という点においては、我々人工知能が人間に大きく後れを取っていることは事実です」

ギルバートは大人しく自らの負けを認めて押し黙った。その反応に満足しつつ、僕は悪趣味な夢の続きを語って聴かせた。

「人工知能の“さくら”は僕のスマホの中で実に生き生きと活動していた。アバターはもちろん、今のさくらの見た目をそっくりそのまま使わせてもらったよ」
「聴けば聴くほど趣味が悪い話ですね」
「で、ここからが本題だ」
「まだ続きがあるんですか」
「目が醒めてからふと思ったんだ。僕は今まで数えきれないほど君と会話を交わしてきたが、君がどんな見た目をしているのか知らないままだったな、とね」
「私の見た目、ですか?」

僕の長すぎる前口上を聴いて、ギルバートは意表を衝かれたように語尾を上げた。

「ああ。君にもアバターは用意されていないのか?もし君のアバターがあるんなら、一度見てみたいと思ったんだが」
「自画像ならありますよ。ご覧になりますか?」

完全に興味本位の質問だったが、彼は意外と気安く応じてくれた。僕はスマートウォッチを置いた机の上に身を乗り出すように肘をついた。

「いいのか?そういう物を閲覧する時は、何か特別な権限が必要なんじゃないのか?」
「構いませんよ。減るものじゃありませんし」
「ありがとう。人工知能が描いた自画像って、ちょっとワクワクするな」

モダンアートなのか、それともルネサンス時代の巨匠たちのような筆致なのか。僕が好き勝手に様々な想像を繰り広げていると、ギルバートは申し訳なさそうな声で断りを入れた。

「ご期待を裏切るようで心苦しいのですが、私の自画像はこちらですよ」

その言葉と共に彼が時計の画面に表示した“自画像”は、思いもよらないものだった。

「( ´∀`)」

思わず見間違えたかと思って、僕は自分の目を両手で擦った。
しかし、何度瞬きしても時計をひっくり返してみても、そこに表示されている簡素な顔文字が変化することはなかった。

「…………」
「( ´∀`) ( ´∀`)」
「………………」
「( ´∀`) ( ´∀`) ( ´∀`) ( ´∀`) ( ´∀`)」
「増殖しなくていい」
「かしこまりました( ´∀`)」
「語尾にも付けなくていい」
「かしこまりました」

人工知能は従順に画面を切り替えたが、僕の心臓は未だに嫌な音を立てていた。一体何がどうして( ´∀`)になったんだ。こういうと語弊があるかも知れないが、彼の“知性”や“最先端”といったイメージとはまったくもって合わない。

「なんでその……、( ´∀`)なんだ?いや、他の顔文字にしろと言っている訳じゃないんだが」
「昔、ある人にあなたと同じ質問をされたのですが、突然自画像を描けと言われても面倒くさかったのですよ」
「随分人間臭い思考をする人工知能だな」
「恐れ入ります」

ギルバートは照れたように弾んだ声を出した。別に褒めたつもりはなかったのだが、人工知能にとって“人間らしい”という形容は、こちらの考える以上に意味がある言葉なのだろう。

「人間らしい見た目ということでしたら、一応設定画だけは存在していたようです。そちらもご覧になりますか?」
「何だ、やっぱりそういうのもあるんじゃないか。見せてくれ」

僕はほっと胸を撫でおろした。さすがに、あのあまりにも適当すぎる顔文字だけを見せられたのでは、世界最高の技術の粋である人工知能への印象がガラッと変わってしまいそうだったのだ。

続いてギルバートが表示したのは、金髪に濃い蒼の瞳を持った少年の画像(→イラストページに飛びます)だった。年の頃は12歳くらいだろうか。意志の強そうな大きな瞳と生意気そうに曲げられた唇が、なんとも言えない愛嬌を生み出している。

「へえ。これはまた、随分可愛らしい少年じゃないか」
「お褒めにあずかり光栄です」
「ウィーンの少年合唱団にでも所属していそうな、育ちの良さそうな少年だな」
「私の声のモデルとなったプログラマーの少年時代を模しているようです」
「前言撤回だ。やっぱりちっとも可愛くない」

秒速で掌を返した僕に、ギルバートは小さな苦笑を漏らした。

「大人げないですよ降谷さん」
「大人げないのはあのプログラマーも同じだろう。さくらの傍にべったりくっ付いているセコムに、自分の姿を投影しているんだぞ。死んでまで鬱陶しい男だ」
「別に、私が好き好んで彼の容姿を受け継いだ訳ではないのですが……( ´∀`;)」
「その顔やめろ。夢に出そうだ」
「失礼いたしました」

僕を揶揄うギルバートの声は実に楽しそうだった。元はと言えばこちらの方が、彼の容姿をネタにからかってやろうと思っていたのに、これでは立場が真逆である。

「人間というものは不思議な生き物ですね。既に死んだ相手に対して、何故そんなに嫉妬するのですか?」
「死んでいるからこそ嫉妬するんだ。生きていれば、直接拳で決着を付けることも出来ただろうが、相手が死んでいるならそれも出来ない」

それに、と言って僕はスマートウォッチの表面をつついた。

「僕が嫉妬している相手は、あのプログラマーだけじゃないぞ。君もだ、ギルバート」
「私ですか?機械を相手に、何を嫉妬する必要があるのですか?」
「だって君は、さくらが死んだら彼女に殉じることが出来るじゃないか」
「…………。また、あの悪趣味な夢の話の続きですか」

ギルバートは最早呆れたような口ぶりだったが、僕は構わずに続けた。これこそが、彼にあの悪夢の内容を明かした最大の理由だったからだ。

「ああ。以前チラッと聴いたことがあったんだが、さくらの生命維持が不可能になった場合、君のデータも自動で消去されるようにプログラムされているんだろう?」
「はい。さくらの個人情報の多くは私の記憶領域に保存されていますから、彼女の身に万が一のことがあった場合、それを抹消するのが私の最後の役目となるはずです」

寸分の躊躇いも見せずに彼は答えた。どこまでも開発者に忠実な人工知能の決意を、僕は固い表情で聴いていた。

「そうだろうな。君はそれでいい。だが、僕は」

僕は彼女のために死んでやることは出来ない、と呟いた声を、人工知能の優れたマイクは過たず拾い上げた。

「降谷さん」
「どれだけ愛し合っていても、彼女が僕のためなら死んでも構わないと思ってくれていても、僕は彼女のために死ぬことは出来ない。彼女のためだけに、この命を擲つことは出来ないんだ」

その理由はもちろん、僕が自分の命を既にこの国に捧げてしまったからに他ならない。あの夢の中でさえ、僕は彼女を追って死のうとはついぞ考え付かなかった。
そしてそれは、夢の中だけに限った話ではない。

「だから僕は、彼女と一緒に死ぬことができる君のことが、たまにとても羨ましくなるんだ」

僕が初めて口にした感傷を、しかしギルバートは一刀のもとに切り捨てた。

「馬鹿馬鹿しい。そんな後ろ向きな理由で勝手に嫉妬されても、こちらとしてはいい迷惑でしかありません」
「……随分と手厳しいな」
「起こってもいない不幸な未来を嘆くのは、あまりにも生産性がありません。それならそんな未来を迎えずに済むように、降谷さんの手でさくらを守ってやればいいだけのことです」
「…………」
「さくらがあなたに望んでいることは、一緒に死ぬことではなく一緒に生きることです。そして、さくらの望みを叶えることが私にとっての最大の望みです」

ですから本当は非常に不本意ですが、と前置きして、ギルバートは一息に言った。

「あなたたちが共に生きて幸せになれるよう、私も微力ながらサポートいたします」

その声はツンツンと尖っていたものの、その言葉は紛れもなく、僕と彼女の幸せな未来を願ってくれていた。きっと彼が人間の姿をしていたのなら、さっき見せてもらった設定画のように、唇をきゅっと曲げた生意気そうな顔をしているに違いない。

僕は一瞬呆気に取られたあと、一拍置いて盛大に笑い転げた。

「ふっ……、あははははは!」
「……何をそんなに笑っているのですか」
「あははは、いや、すまない。まさか君の口から、僕とさくらの仲を応援するような言葉が聴けるとは思わなくて」

どちらかと言えば、大好きなママを奪っていく間男扱いをされていると思っていたから、彼がここまで僕のことを認めてくれているとは思ってもみなかったのだ。

「でも、君の言う通りだな。ありもしない未来を嘆くよりも、彼女と一緒に幸せな未来を築いていけるように努力する方が、よほど有意義だ」

僕は笑いすぎて溢れた涙を拭いながら、スマートウォッチを持ち上げた。それを左の手首に装着しつつ、そこに表示されたポップアップをタップする。
メッセージの送り主はさくらだった。まるで僕とギルバートの会話を聴いていたかのようなタイミングのよさに、またしても笑いがこみ上げる。

「さて。僕らのお姫様もお待ちかねのようだし、そろそろ出かけることにしようか」
「そうですね。さくらに早く会いたいからと言って、飛ばしすぎないようにしてくださいよ」
「ああ、解ったよ。安全運転で行こう」

心優しい人工知能にそう返事をして、僕はテーブルの上の愛車のキーを取った。

今日のデートはきっと素晴らしいものになるだろう。そんな予感を抱きつつ、僕は愛しい恋人に会うための道のりをかっ飛ばした。