邂逅と離合


ここで彼女と出会ったのは、本当に心の底から神に誓ってただの偶然だった。

何故ここまで大袈裟な言い方をしてまで予防線を張るのかというと、“彼女”というのが俺の尊敬する上司であり、最も敵に回したくない男でもある降谷零の、唯一絶対的な存在だったからである。

「あ」
「あっ」

我ながら間抜けな声を上げて、俺はたった今触れ合ったばかりの指先の持ち主を凝視した。そんなにじっくり観察しなくても、俺には相手が何者なのかすぐに理解できたのだが、まさかこんな所で出会うなんて、という驚きが勝ったのだ。

本田さくら―――年若い女の身でありながらたった1人でヨーロッパへ渡り、人工知能の研究者として第一線で鎬を削っている日本の情報工学界の申し子。そして我らが上司・降谷零の運営する協力者であり、恋人でもある人間である。この情報だけで彼女がいかにレアキャラ感溢れる人物かということはお解りいただけると思うのだが、そんな相手と仕事帰りに立ち寄った米花町のラーメン屋で、たまたま隣同士の席に座って、たまたま割り箸に伸ばした指が触れ合う―――なんて、一体どんな確率だ。きっとトンネル効果もびっくりの確率であることは間違いない。

「あ、すみません。お先にどうぞ」

俺は内心の動揺を悟られないように平静を装いながら、割り箸を取ろうと伸ばした手を引っ込めた。代わりにこんがり焼けた餃子を大将の手から受け取って、ラーメンの丼の横に置く。それから餃子に付けるタレを何にしようかと迷っている振りをしつつ、俺は横目で本田さくらの様子を窺った。

(気付かれたか?いや、気付いてないな。というかこのまま気付かずにいてくれ)

俺は彼女のことをよく知っているが、彼女は俺のことを知らないはずだ。彼女が降谷さんに目を付けられるきっかけとなった警察庁サイバーテロ未遂事件には、風見さん共々俺も携わっていたのだが、あの時は碌に会話もしなかったし、俺の特徴のない顔を彼女がわざわざ覚えているとも思えない。そう判断して、俺は可及的速やかにこの店から戦略的撤退をすることにした。正直なところ、下手に彼女と接触して、降谷さんに睨まれるのは御免こうむりたかったのだ。それに、他人の協力者と勝手に接線を持つことは原則的に禁止されている。

(とにかくサクッと食って、サクッと帰ろう。折角の絶品ラーメンが勿体ない気もするけど、また食べに来ればいいだけのことだ)

そう心に決めて、俺はお酢のボトルに手を伸ばした。確か風見さんが、餃子はお酢と胡椒で食べるとさっぱりしていておいしいのだと言っていた気がする。

しかし、そこで隣から聴こえてきた声に俺の手はピタリと止まってしまった。

「ここの餃子はウスターソースを付けて食べるとおいしいって、あなたの上司が言っていましたよ」
「えっ?」
「確か、餃子の餡の下味を付ける時にウスターソースを使っているとかで、とっても合うんですって。ですよね?大将さん」

にっこりと笑ってラーメン屋の大将に話しかけたのは、勿論本田さくらである。いつもは行列ができるほど繁盛しているこの店も、今は俺と本田さくらの2人の客しか店内にはいなかった。

「姉ちゃん、よく知ってるねェ!その隠し味を当てられたのは、今まで1人しかいなかったんだがよ」
「その1人って、喫茶ポアロの安室さんでしょう?」
「おっ、姉ちゃん安室さんの知り合いかい?」
「はい。私、ポアロで安室さんと梓にここのお店のことを聴いて、ずっと食べたいなって思っていたんです。噂の閻魔大王ラーメンをね」

はきはきと答える声に嘘は含まれていなかった。かく言う俺も、降谷さんに連れてこられた風見さんからこのラーメン屋の話を聴き、あの2人がそんなに褒めるならばと思って寄ってみたクチである。つまり俺も彼女も、降谷さんというインフルエンサーに影響されてこの店で鉢合わせしたという訳だ。

「そいつぁ嬉しいねェ!うちのラーメンはくせになるって評判だから、姉ちゃんも気に入ったらまた来てやってくんな!」
「ええ、もちろんです。今度は安室さんや梓と一緒に来ますね!」

うきうきと返事をする顔は非常に可愛らしいが、俺に向かって投げた言葉はこれっぽっちも可愛らしくなかった。更に彼女はその笑顔のままこちらを振り向いて、ダメ押しをするかのようにこう言った。

「その時は、あなたも一緒にいかがですか?谷川さん」
「…………」

俺の存在に気付かないままでいてくれ、という願いが叶えられずに終わったことを、俺はウスターソースの香りを嗅ぎながら悟った。

「えっと、どこかでお会いしましたかね……?」

引き攣った笑みを浮かべながら、この期に及んで白を切ろうとした俺を、しかし彼女は逃してはくれなかった。俺に向かってにこやかに割り箸を一膳差し出して、とどめの一撃をお見舞いしてくる。

「ええ。去年の夏、大畠先輩の事件の時にお会いしました。風見さんと一緒にいらっしゃった方ですよね?」

そこまでバレているなら仕方ない。俺は腹をくくって彼女の手から割り箸を受け取った。

「あー、はい。確かにあの時、あなたとはお会いしましたね。本田さん」
「その節はありがとうございました。あなたや風見さんがいなかったら、今頃私は立ち直れなかったかも知れません」
「いやいや、俺は大したことは何もしてないんで。そんなに感謝されることでもありませんよ」

パキンと綺麗に真ん中で割れた箸を握って、俺は熱々のメンマを掬った。ふぅふぅと息を吹きかけてから口に運ぶと、肉厚な食感とともにジューシーな味わいが口の中にじゅわっと広がる。

「うまっ」

博多で生まれ育った俺としては、ラーメンに関してはこだわりが強い自覚があったが、これは素直においしいと思えた。

「安室さんがオススメするくらいのお店だもの。そりゃあおいしいはずですよね」
「確かにそうっすね。あの人、自分でも料理するから無駄に舌が肥えてるんだよなー」

俺は少し前に降谷さんからもらった弁当のことを思い出した。「作りすぎたから食べてくれ」と言って渡されたそれを手に、俺と風見さんは無言で顔を見合わせたものだった。勿論中身は残さずいただいたが、片手間に作ったと言う割には、プロ並みに手が込んでいておいしかった。
俺がその時の話を彼女に語って聴かせると、彼女はラーメンを啜りながらくすくすと笑った。

「いいなぁ、あの人のお手製のお弁当を作ってもらえるなんて。羨ましいわ」
「本田さんは俺らなんかとは比べ物にならないくらい、あの人の手料理を味わってるんじゃないですか?俺らなんて、精々残飯処理係くらいにしか思われてませんよ」
「ふふ、確かにそうかも知れませんね。でもお弁当を渡す時、内心ドキドキだったんじゃないかしら。受け取ってもらえなかったらどうしようって」
「俺らを相手に、そんなしおらしいことを考えるような御仁じゃないでしょう。いつだって自信満々なドヤ顔を崩さないような人なのに」

あの人のドヤ顔が崩れる時というのを俺は何度か目撃しているが、それは大抵赤井秀一が絡んでいる時だけだ。そう思いつつウスターソースを付けた餃子をほおばると、本田さくらは興味津々といった目つきで俺ににじり寄ってきた。

「部下の目から見たあの人って、一体どんな感じなんですか?やっぱり厳しい?」
「厳しいなんてもんじゃないっすよ。鬼です」
「鬼?」
「はい。本田さんはあんまりあの人が怒った所って見たことないかも知れませんけど、怒ったあの人はマジでヤバいっす。近寄りたくないですもん」
「ど、どんな風に怒るんですか?怒鳴ったり手を上げたりするんですか?」
「そんなことはしないっすけど、静かに寄って来て静かに腕を捻り上げられます。んで、絶対零度の目線で射抜かれる」

俺が遠い目をしながら答えると、彼女はああ、と納得したような声を上げた。

「解るような気がします。私も彼に怒られる時は、大抵静かに怒られますもん」
「本田さんでも怒られることがあるんですか」
「しょっちゅう怒られますよ。まあ、その、こちらを心配して怒っているんだってことは伝わるんですが」
「うわ出た。愚痴に見せかけた惚気ですね」
「のっ……」

惚気だなんてそんなつもりじゃ、と彼女は慌てて否定していたが、ほんのり赤く染まった頬にはまるで説得力がなかった。

「別に否定しなくてもいいんじゃないですか。あの人の方は俺に対してめっちゃオープンに惚気てきますよ」
「あ、あの人、私のことを何を言っているんですか?」
「僕はいつも彼女に感謝しているんだとか、彼女のお陰で僕は強くいられるんだとか。歯の浮くようなセリフだなって、昔の俺なら間違いなく言ってたと思いますね」

俺はここで言葉を区切って、気恥ずかしそうにしながらも続きを期待している本田さくらの顔をとっくりと眺めた。

「本田さんに会うまで、俺、正直あの人がまともに恋愛なんて出来るんだろうかと疑ってたんですよ」
「?」
「だって、素面で“僕の恋人は祖国だ”なんて言っちゃう人ですよ。仕事に心血注ぎ込みすぎて、生身の女に恋心なんて抱けないんじゃないかと思ってました」

だけど、と言って俺はふと唇を緩めた。

「本田さんみたいな女性が相手なら、あの人が惚れるのも解ります。あの人は完璧主義者で独占欲が強くて面倒くさい男ですが、どうかこれからもよろしくお願いします」
「……ありがとうございます。いつまでもそう言っていただけるように、これからも精一杯、あの人を支えていきたいと思います」

えへへ、と彼女は髪を弄びながら照れくさそうにはにかんだ。彼女の手の中にあった丼は、気付けばもうほとんど空になっていた。

会計を済ませると、俺たちは並んで帰路についた。

「今日、あのお店であなたに会えてよかったわ。私、一度あなたとゆっくりお話をしてみたかったんです」
「へぇ。そりゃ一体どうしてですか?」
「だってあなたは、私の知らないあの人のことをたくさん知っているもの。私はあの人を技術的にサポートすることは出来るけれど、あの人の背中を任されることは未来永劫ありえませんから」

だから降谷さんの背中を任されることの多い俺や風見さんのことがほんの少し羨ましいのだと、彼女は言葉とは裏腹に嬉しそうな口調で語った。

「あなたの言葉をそのまま返すようですけど、あの人はあなたや風見さんのことを心底信頼しているんです。どうかこれからも、あの人を現場で支えてあげてください」

彼女は真摯な眼差しで俺を見上げた。その瞳に込められた想いを確かに受け取って、俺は力強く首肯した。

「はい。任されました」

それから俺たちはどちらからともなく手を差し出した。最初は触れ合っただけで引っ込めていた手を、今度は固く握りあう。

「あの人を支える者同士、これからも仲良くしてください」
「はい。俺の方からも、またあなたに力を借りることがあるかも知れません」

互いに顔を見合わせて微笑みながら、俺たちは手を離した。彼女はぺこりと頭を下げると、俺とは反対方向に向かって足を踏み出した。

その背中が小さくなるまでその場に立ち止まったまま、俺は彼女の履いたパンプスが奏でる足音を心地よく聴いていた。