お伽噺をあなたに


「……驚いた。あなたはまるで魔法使いね」

彼女は僕の隣で瞳を輝かせてそう言った。彼女の双眸に常に宿っていた憂いの色が、今この時は星の彼方に飛んで行ってしまったかのようだった。

「空飛ぶ絨毯に乗るのは初めてのようだけど、気に入ってもらえたかな?」
「ええ、とっても。いつも遠くに見上げていた空が、今はこんなに近いなんて!」

王宮の片隅にある部屋から、1人でぽつんと眺めることしか出来なかった空が、今は雲も掴めそうなほど近くにある。その事実に彼女は感嘆の声を上げながら、両腕を広げて全身で夜風を受け止めた。

「ねえ、遠くに見えるあの海は何て言う海なの?」
「あれは地中海だな。今は夜だからよく見えないと思うが、昼間は青い海がとても綺麗な所だよ」
「本当に?アグラバーの街よりも綺麗?」
「それはどうかな。いつか自分の目で見比べてみればいい」

さくらはこの国の王女であり、唯一の王位継承者でもある。そんな仰々しい立場のせいで、あの王宮から自由に外出することもままならない。だからこれは、いつか彼女が自由に外の世界に飛び出していけるようにという願いをこめた、おまじないのようなものだった。
彼女は僕の提案を受けて自嘲気味に微笑んだ。はっきりと言葉にはしないものの、その目に浮かんでいるのは明らかな諦観である。せっかく星空の逃避行を楽しんでいたのに、これ以上そんな悲しげな顔をしてほしくなくて、僕は必死に言葉を繋いだ。

「その時は、僕がまた君を迎えに行くよ」
「……あなたが?」
「もちろんだ。僕以外に誰がこうやって、君をあの部屋から連れ出せる?」

こうやって、と僕が絨毯を指し示すと、この乗り物を遠隔操作しているランプの精・ギルバートは、僕の言葉を肯定するように空中で大きく絨毯を旋回させた。

「きゃあっ!!」

彼女は不意を衝かれた動きに驚いて悲鳴を上げたが、すぐに笑顔になって絨毯の淵にしがみついた。

「ああ、びっくりした。落っこちちゃうかと思ったわ」
「この僕が、君を振り落とすような真似をするはずがないだろう?」
「どうかしら。あなたって、意外な所で抜けていそうだもの。隣に私が乗っていることを忘れて、突然アクロバット飛行を始めるかも知れないわ」
「僕が君のことを忘れるだって?」

挑発するように笑うさくらに、僕はその手を取って指と指を絡めた。

「いくらこの星空が輝いていても、あの海が吸い込まれそうなほど美しくても、僕にとって世界で1番魅力的なものは―――さくら、君だよ」
「零さん……」
「君が昼間の地中海を見たいと言うなら、いつだって僕は君をあの孤独な王宮から攫ってみせよう。君があの月を欲しいと言うのなら、今すぐにあの月を撃ち落としてやろう」
「ふふ……。あなたって、いちいち大袈裟ね」
「大袈裟にもなるさ。何と言っても僕は今、人生で1番の大勝負に挑んでいるんだからな」
「え?」

きょとんと首を傾げるさくらに、僕は不敵な笑みを向けた。

「今夜、こうして一緒に魔法の絨毯で旅に出ている間に、君が心から楽しそうに笑ってくれること。それが僕の勝利条件だ」
「なぁにそれ。先に条件を言ってしまったら、あなたが絶対的に不利じゃない?」
「いいや、そうでもないさ」

僕は通りすがりの果樹園に生っていたリンゴの実を1つむしり取ると、さくらの手の中に載せてやった。

「“王女”としての君じゃない、“さくら”としての時間を、こうして僕に独占させている。その時点で、僕としてはかなりいい線いってると思うんだが」

さくらは受け取った赤い果実をじっと眺めると、やがて降参したようにその表面に歯を立てた。シャク、と音を立てて果肉が削れ、甘い香りがふわりと広がる。

「あなたの言う通りね。今の私はアグラバーの王女じゃない、ただの私。ただの私の時間を欲しいなんて言う人は、あなたくらいのものだわ」
「本当にそうかな?君が気付いていないだけで、きっと今の僕の立ち位置を狙っている男は大勢いるぞ」
「いいえ、違うわ。皆が見ているのは、私の立場とその背後にある権力だけよ」

そんなことはない、と言おうとした僕を遮って、彼女はくすりと声に出して笑った。

「それにね、あなただけでいいの」
「えっ?」
「他の誰に望まれなくてもいい。あなただけが、“王女”じゃないただの“さくら”を見て、傍にいたいと言ってくれればいいの。それだけで、私の世界は何もかもが見違えるように色づいていくのよ」
「さくら……」

彼女はまっすぐに僕の顔を見据えていた。初めて会った時から片時も忘れたことのない、空を幾重にも重ねたような深い色をした瞳で、彼女は僕の心に何事かを訴えかけていた。

僕の世界を、僕を取り巻く環境を変えてしまったのは君の方だ―――と、喉まで出かかった言葉を僕は飲み込んだ。僕が身分を偽って彼女に接近したことが知られれば、きっと軽蔑されるだろう。ようやくここまで心を許してくれるようになったのに、今更距離を置かれてしまいそうなことを口にする勇気は僕にはなかった。

僕が何も言わないのを見て取って、彼女はつい、と僕から視線を外した。

「それにしても、この絨毯は一体どういう仕掛けになっているの?大人2人が乗っていても、こんなに安定して飛行できるなんて。おまけにあんなアクロバティックな動きまで出来るなんて、本当に不思議だわ」

さくらは好奇心旺盛な眼差しで、僕らが腰を下ろしている絨毯に目を向けた。このままでは、周りの風景もそっちのけで航空力学をどう応用させれば絨毯を長時間飛ばせることが可能になるのかという考察を始めてしまいそうだったので、僕は慌てて話題を変えようと遠くに見える星空を指さした。星座が多くて賑やかな夏の夜空に比べて、一等星が1つしかない秋の夜空は落ち着いたものである。

「さくら、ほら。あそこにキラキラ瞬いている星が見えるだろう?」
「えっ、どこに?」
「あそこだよ。僕の指の先を視線で辿ってごらん」
「ううん……、解らないわ。どこにあるの?」

彼女は真剣な顔つきで僕が指さす方向をじっと見上げた。なるべく僕と目線の位置を合わせようとして、ずい、と身を近付けてくる。
気付けば彼女の整った横顔は、僕の目と鼻の先まで接近していた。くるりと自然にカールした睫毛が、彼女が瞬きをするたびに大きく揺れる。

「あっ!解ったわ、あの星でしょう?」

僕が彼女の睫毛の長さに目を奪われている間に、彼女は僕が示した星を無事に見つけることができたらしい。嬉しそうに頬を紅潮させて振り向くと、鼻先が触れ合いそうな距離で目が合った。

刹那、僕たちは瞬きも忘れて見つめ合った。

「―――」
「……さくら」

思わず唇から漏れ出た声の熱っぽさに、自分自身で驚いた。夜を切り取ったような彼女の瞳の中に映る僕の顔は、自分でもこんな顔ができるのかと思うほど優しい微笑みを浮かべていた。

「さくら」
「……零、さん」
「じっとして。このまま」

穏やかな声で命令しながら、僕は彼女の頬に手を添えて首を傾けた。僕の意を汲んだ彼女は、恥じらうように眉根を寄せつつ、大人しく瞼を下ろした。
僕たちの唇が重なった時、遠くで花火が打ち上げられる音が聞こえた。

ひゅるるるる、とどこか気の抜けたような発砲音を、耳をつんざくような破裂音が追いかける。碧や黄色、色とりどりの火薬の花が紺碧の空を彩って、僕たちのシルエットを地面にくっきりと浮かび上がらせた。

さっきまでは2つの塊だった僕らの影は、今は1つの大きな塊になっていた。

「……今のは、あいさつのキス?それとも出来心?」

唇が離れて最初に彼女が発したのは、僕にとっては耳が痛いセリフだった。アグラバーの街で初めて会った時に、彼女を追ってきた王宮の警吏の目を欺くために恋人のふりをして、狭い路地裏でその唇を奪ったことを言っているのだ。

「どちらでもないな。今のキスは、本気のキスだ」
「本気って?何に対して本気ってこと?」
「つまり、僕は……君のことを、」
「私のことを?」

さくらは猫のように目を細めて笑った。彼女の態度は一見こちらを煽っているように見えたが、実際はその瞳が期待と緊張に揺らいでいるのが解って、僕はたまらない気持ちになった。

「すまない。僕はまだ、この胸に溢れる思いをうまく表現する言葉を知らないんだ」

だから僕は、自分の心の命じるままに彼女に手を伸ばした。頬を撫で、首筋を指で辿り、その後頭部を引き寄せた。
言葉に出来ない想いを載せて触れ合った唇は、仄かにリンゴの味がした。

砂漠の冷たい夜風がいくら僕らの体に吹き付けても、互いの胸を焦がす熱は一向におさまる気配を見せなかった。