A Little Spice for Just Anothere Day


きっかけは、園子さんの発した何気ない一言だった。

「そういえばー、安室さんとさくらさんって、何でお互いに敬語使ってるんですか?」

女子高生の他人の恋愛事情への興味関心にかけるエネルギーは凄まじい。その観察眼には探偵を自称しているこの僕もうっかり感心するレベルで、この時こうして指摘されるまで、僕も彼女も互いの呼び方などという些細な問題を気にしたこともなかった。

「敬語使うのもそうですけど、例えば名前を呼び捨てにしたりとか、さくらさんからも安室さんのことを名前で呼んでみたりとか、そういうことしたいなって思ったことはないんですか?」
「…………。言われてみれば、そうですねぇ」

園子さんの素朴すぎる疑問を受けて、僕はカウンターの向こうでデザートの盛り付けをしていたさくらと顔を見合わせた。

「園子ってば、ちょっと自分が京極さんに呼び捨てで呼んで欲しいと思ったからって、安室さん達まで巻き込まなくてもいいじゃない」
「だからこそよ。もしさくらさんも恋人に呼び捨てで呼んで欲しいと思ってるなら、同じ悩みを共有する女として見過ごせないと思ったんじゃん!」

窘めようと口を挟んだ蘭さんに、園子さんは拳を握って力説した。なるほど、ずいぶん突拍子もない質問だと思ったら、自分の境遇とさくらの境遇を重ねていたからこその問いだったのだ。
苦笑しながらさくらを振り返れば、彼女もまた僕を見ていた。アイコンタクトを交わしたのはほんの一瞬のことで、彼女は何食わぬ顔をしてカウンター席に座る女子高生2人にデザートの桃のパフェを差し出した。

「確かに園子ちゃんの言う通りね。これまであんまりお互いの呼び方なんて意識してこなかったし、敬語を使うのも当たり前だと思ってたわ。安室さんの方が、6つも年上のお兄さんだからかしら?」
「でも安室さんからしたら、さくらさんは6つも年下の女の子じゃないですか。安室さんは自分の彼女にタメ口で話したいなって思わないんですか?」
「ううーん、難しい質問ですねぇ……」

僕は空っぽになったテーブル席の上を片付けながら、困ったように眉を下げた。本音を言えば、その質問の答えはさして難しくもなんともない。ただ単に“安室透”の仮面を被っている時は、この口調が染みついてしまっているだけである。
現に“降谷零”の顔に戻った時は、彼女のことも当然のように呼び捨てにするし、僕も彼女もわざわざ敬語なんて使わない。敬語を使う、使わないというのは、僕らにとって“安室透”と“降谷零”を切り替えるためのスイッチのようなものだった。

「大人の女性を相手にするときは、ついつい敬語が出ちゃうんですよねぇ。別にさくらさんに親しみを感じていないという意味じゃないんですが」
「確かに安室さんって、私たちに対しても丁寧な口調を崩さないですもんね」
「それってつまり、私たちのことも大人の女性として認めてくれてるってことですかー?」

蘭さんに追随して園子さんが嬉しそうな声を上げる。その瞳は一人前の女性としてはまだまだ未熟な、けれどその分パワフルな光が宿っていた。

「そうですね。あなた達はもう立派な、一人前の大人の女性ですよ」

彼女たちの望む答えを告げてにっこりと微笑むと、若い女の子たちはきゃあ、と上ずった声を発して頬を染めた。

「何か、安室さんに大人の女性、なんて言われるとドキドキしちゃーう」
「新一や京極さんは、そういうこと言ってくれなさそうだもんね。特に新一なんて、いくつになっても私のこと子供扱いするし……」
「真さんだって一緒よぉ!私が頑張って大人っぽい服とか水着とか着てても、真顔で“お腹が出すぎじゃないですか?”とか“肩が寒くないんですか?”とか訊いてくるんだから!」

それは単なる照れ隠しだろう、と思いつつ、それを僕が指摘するのは野暮なので口にはしなかった。さくらもくすくすと可笑しそうに笑っている。きっと僕と同じように、男子高校生の純情さを微笑ましく思っているに違いない。

しかし、一瞬流れかけた話題をそのまま流してくれるほど、園子さんは甘くなかった。

「っていうか、私のことは今は置いといて。安室さんとさくらさんですよ!」
「ええー?そこ、そんなに気になるポイントかしら?」
「気になりますよ!というか単純に、安室さんがさくらさんのことを呼び捨てにしてる所を見たいだけなんですけど」
「……ですって、安室さん」

どうしましょう、と半ば本気で困った声で、さくらは僕をじっと見上げた。これは、少なくとも一度はさくらのことを呼び捨てで呼んでやらなければ、彼女たちは納得してくれないだろう。
いつもと同じ呼び方でいい。ちょっとばかり優しげに聴こえるように声音を変えて、「さくら」と呼んでやればいいだけの話だ。そう割り切って、僕は空の食器を載せたトレーを持ってカウンターキッチンの中に入った。

「あー、えっと、……ゴホン」

わざとらしく咳払いをし、緊張しているという空気を作り出す。トレーをシンクの内側に下ろせば、載せていた食器が触れ合って思いの外大きな音を立てた。
それから僕は数秒間瞳を泳がせて、やがてしっかりとさくらの顔を見据えて口を開いた。

「……さくら」
「っ、」
「今日のシフトが終わったら、杯戸公園の向かい側にあるバルに行ってみないかい?こないださくらが飲みたいって言ってたお酒が入荷したらしいんだ」

それとなくアドリブも付けてみる。息を吸うように演技をすることは、最早日常生活の一部になっていると言っても過言ではない。

「……私、安室さんに飲みたいお酒の話なんてしてましたっけ?」
「してたじゃないか。こないだ、君が僕の家に来た時に」

ここで僅かに身を屈め、彼女の耳元に唇を近付ける。思わせぶりにさくらの頬に指の背で触れると、カウンターの向こうでごくりと息を呑む気配がした。

「よく覚えてますね。そんな、私自身も忘れていたようなことまで」
「覚えてるさ。さくらのことなら何だって」

何てったって、愛しい恋人の言葉だからね。

とどめのようにそう言って耳朶に唇を押し付ける。ちゅ、とリップ音を立てることも忘れない。それだけで、途中から手で顔を覆いつつ指の隙間からこちらを凝視していた女子高生2人は、きゃあっと悲鳴とも歓声ともつかない声を上げた。

「やっばー!!安室さんの本気やばい!!」
「ちょ、直接言われてるのは私じゃないのに、こっちまでドキドキしちゃった……」
「はは。お褒めにあずかり光栄です」

もうそろそろいいだろう、と思って僕はさくらの肩に手を置き、体を離した。彼女もこんな茶番に付き合わされて、いい加減呆れているだろうな、と予想しながらその顔を覗き込む。

しかし、彼女は僕の予想とは違う表情を浮かべていた。

「…………ッ、」

僕の唇が触れた耳を片手で押さえ、何かに耐えるようにぎゅっと目を細める。真っ赤になった顔を僕から隠すように、さくらは丸いトレーを持ち上げて僕と自分の顔の間にバリアを作った。

「ご、ごめんなさい。これ以上は勘弁して」
「さくらさん?」
「これ以上は、私の心臓がもちません……」

これは意外な反応である。これまで千はゆうに超えるほど呼び捨てで呼んできたのに、今更“安室透”に呼ばれたくらいでこんな顔をするのかと、意表を衝かれたような気がした。

「さくらさん、可愛いー!」
「安室さんの前では、さすがのさくらさんでもピュアな女の子になっちゃうんですね!」
「か、揶揄わないで。自分でも意外なくらいドキドキしたんだから……」
「いやいや、気持ちはすっごく解ります!安室さんにあんな声で口説かれたら、そりゃそんな顔したくなりますよね!」
「ホント、大人の男の人ってずるいなぁ……」

さっきまでとは立場が逆転して、今度は女子高生2人の方が微笑ましくさくらを見守っていた。そんな生暖かい空気に耐えかねたのか、さくらはトレーの向こう側から恨みがましい視線をこちらに投げかけながら、

「本当に、あなたってそういう所がずるいわ。―――」

透さん、と。
今にも消え入りそうなか細い声で、彼女は確かに僕のことをそう呼んだ。

そのまま彼女は言い逃げをするようにキッチンを出ていった。箒と塵取りを持って店のドアを開けると、僕たちの視線から逃れるようにせっせとポアロの前の道路の掃き掃除を始めた。
その耳は、遠目で見てもすぐに解るほど真っ赤に色付いていた。

(…………、やられた)

たかが名前呼び、たかが呼び捨てと侮っていたが、これは確かに、ぐっとくるものがある。

僕は頭を抱えてシンクの淵に寄り掛かった。その様子を窺っていた女子高生2人は、僕がさくらの予想外の反撃に悶えたまま微動だにせずにいるのを見て、恐る恐る声を掛けてきた。

「あのー、安室さん」
「だ、大丈夫ですか……?」
「すみません、大丈夫です。大丈夫ですが、ちょっと待ってください」

さすがにこんなみっともない顔を、お客様に見せる訳にはいかないので。と断りを入れてから、僕は顔を覆ったまま彼女たちに背を向けた。
食器棚に映った自分の顔は、彼女たちに指摘されるまでもないほど緩んで締まりのないものになっていた。

こんな新鮮なときめきを感じられるのであれば、たまにはこんなお遊びに付き合うのも悪くはない。そう思って、僕はキラーパスを出してくれた園子さんに密かに感謝の念を送った。