Journey To The Lovers


「すみません!」

微睡みの中に突如響いた叫び声に、私は睡魔をどこかに押しやって瞼を開いた。

「お客様の中に、医療の心得のある方はいませんか!?」

そんな、ドラマや小説でありがちな言葉が聞こえてきたのは、成田から関空へ向かうフライトの最中だった。あと30分もすれば大阪国際空港に到着するという時になって、にわかに騒がしさを増した畿内をぐるりと一瞥し、私は隣に座る恋人を振り返った。

「どうしたんだろ。急患かな」
「さあ。でも、この慌てっぷりは狂言や悪戯の類ではなさそうだな」

声を上げているのはツアーのガイドらしき帽子を被った女性である。女性の周囲で顔を引き攣らせているのは様々な肌の色をした外国人観光客で、旅行中の急患なのだろうということが見て取れた。

「どうやら、君の出番のようだな」
「ごめん、あなたも一緒に来てくれる?」
「僕も?」
「うん。患者さんが日本語を喋れないなら、適切に病状を聴取できる自信ない」
「ああ、なるほど。解った、僕も付いていくよ」

恋人の言葉に大きく頷いて、私はシートベルトを外して立ち上がった。騒ぎの大本である後部座席に顔を向けていた乗客の目が、今度は一斉にこちらに向けられる。

不安、動揺、辟易、そして多少の好奇心。彼らの目に浮かぶ感情は様々だったが、私はそれらを一顧だにせずに後部座席へと歩み寄った。

「私は医者です」

パニックに陥るツアーガイドの女性の肩に、極力穏やかに手を掛ける。

「どうかなさいましたか?どなたか気分不良でも?」

ガイドの女性は私の声に驚いたように大きく目を見開いた。藁にも縋る思いで助けを求めたはいいものの、まさかこんなにあっさりと医者が見つかるとは思っていなかったのだろう。その目が安堵によって徐々に潤みはじめ、私の手を力強く握りしめるようになるまでに時間はそう掛からなかった。

「じ、実は、こちらのお客様が先ほどから呼びかけに反応してくださらなくて……!」

女性の指差す先に居たのは、禿頭の大柄な外国人男性だった。額や口元に刻まれた皺を見るに、かなりの高齢ということが解る。やや浅黒い肌の色と濃い口髭に、どこの国の人だろうかと私は首を傾げた。

「この方のお名前と生年月日はお解りですか?」
「えっと、名前、名前は……、あっ、隣に座ってらっしゃるのが奥様なんですが」

ツアーガイドの女性には、ここまで答えるだけで精一杯の様子だった。これ以上彼女を問い詰めても慌てさせるだけだろう。そう判断して、私は事情を聴く相手を禿頭の男性の妻に変更することにした。

「Excuse me?」
「!」
「I’m a doctor. What’s wrong?」

合っているのかいまいち確証のない英語で尋ねる。すると男性の妻はくわっと目を見開いて、私の両肩にしがみついてきた。

「xxxxxxx! xxxxxxx,xxxxxxxxxxxxxxx!」
「!?」

しかし、私の問い掛けに返ってきたのは英語ではなかった。ラテン系の言語だろうか、素晴らしい巻き舌で切々と病状を訴えてくる。けれど英語ならばいざ知らず、それ以外の言語となると私には理解することが出来なかった。
思わず不安げな表情を浮かべそうになり、ぐっと唇を噛み締める。ここで私がうろたえた顔を見せる訳にはいかない。患者さんにとって、医者以上に頼れる人間はいないのだから。
そう自分に言い聞かせ、私は自分の肩に食い込んだ女性の指をそっと撫でた。安心させるように微笑んで、背後の恋人を振り返る。

「ごめん、零君。翻訳してくれる?」
「任せてくれ。スペイン語は専門外だが、なんとかなるだろう」

そう言って、私の自慢の恋人は―――日本の公安警察を束ねる警察庁警備局警備企画課に属する“ゼロ”の一員である降谷零は、人好きのする笑顔を浮かべて女性に正面から向かい合った。



零君の的確な通訳と私の簡単な触診によって、禿頭の男性の病状は粗方把握できた。持っていたおくすり手帳も拝借し、飲んでいる薬から既往歴を確認する。当然スペイン語で書かれていたため、解読するのに若干手間取ったが、持っている知識を総動員して患者の病態を理解するよう努めた。

(これは……地域の中小病院じゃ対応できないな。大病院に救搬の手配をしてもらわなきゃ)

飛行機が滑走路に着陸した時には、事前に管制センターから要請してもらった救急車が既に待機していた。降りてきた救急隊員に、私の方から病状と簡単な所見を伝える。

「東京の米花薬師野病院のICUに勤務している結城つばさです」
「ああ、ドクターが居てはったんですね。こら話は早いわ。患者さんの容態を教えてください」
「はい。お名前はアントニオ・ペドロ・ロドリゲスさん、84歳男性。30分ほど前から急激な意識レベルの低下あり。JCS3桁です。黄疸あり、浮腫あり。循環器系の異常を疑います。既往歴を確認しましたが、パーキンソン病、統合失調症の他に大動脈弁狭窄症のため人工弁置換術のOPE歴がありました」

救急隊員は私の言葉を小さく頷きながらメモしていく。意識のない男性の体はストレッチャーに乗せられて、救急車の中に吸い込まれていった。

「また、奥様の弁によれば、丸一日尿が出ていないとのことです」
「奥さんが尿の回数まで把握してはるんですか?」
「元々高齢なこともあり、介護が必要な状態だったようです。主介護者は奥様ですね」
「はあはあ。続けてください」
「はい。つまりそれだけの間尿が出ていないということは、急性腎不全による尿閉ではないかと思います。採血データも何もないのでそれ以上のことは解りかねますが、高カリウム血症の疑いもあります。また、それが原因かは不明ですが、著明な徐脈を認めます」
「徐脈?HRなんぼですか?」
「HR30台です」

HRというのはHeart Rate、つまり心拍数のことである。

「ありがとうございます。こりゃあおっきい病院やないとアカンなあ」

救急隊員は唇を引き結んで頭を掻いた。私はそこで自分のバッグから付箋を取り出し、連絡先を書き付けて彼に渡した。関空からなら、吹田市にある国立循環器センターが一番近くて大きな病院である。国循には先々月の学会を通じて知り合った循環器専門医がいる。何かあればお互いに力を借りようと口約束をしていたのだが、まさかこんなに直近でその縁を頼ることになろうとは。

「この方は国循の主任ドクターです。よかったら、頼ってみてください」
「ありがとうございます、ほんならここ当たってみます。ご協力ありがとうございました」
「いいえ。お勤めご苦労様です」

そこまで話して私と零君は現場を離れた。飛行機の中ではかなりパニックに陥っていたツアーガイドの女性も、今では随分と落ち着きを取り戻して他の観光客を元気に取りまとめている。

「つばさ、お疲れ。恰好良かったぞ」

零君はそう言って私の肩を抱き寄せると、頭を抱え込むようにぽんぽんと撫でてくれた。私は彼の胸板に後頭部を擦りつけて、えへへ、と唇を綻ばせた。

「零君が居たから、ちょっと格好つけちゃった」
「でも、相手がスペイン人だと解った途端、顔色が変わったよな」
「あ、あれは、誰でもびっくりしちゃうでしょ。英語ならせめてリスニングくらいは何とかなるけど、スペイン語なんてグラシアス(ありがとう)くらいしか知らないもん」

英語だろうがスペイン語だろうが、臆せず会話を続けられるこの男がハイスペックすぎるのだ。一体何か国の言語をその頭に叩き込んでいるのか、訊きたいような訊きたくないような複雑な気分である。
私が多少の悔しさを感じながらむう、と頬を膨らませると、彼は突然あははは、と声を上げて笑い出した。

「ごめんごめん。馬鹿にしたかったんじゃなくて、あの時のつばさの顔が可愛かったって言いたかったんだ」
「なぁに、それ。可愛いって言えば私の機嫌が直るとでも思ってるんでしょ」
「いいや違う、本気で言ってる」

ここで彼はふと真剣な表情を取り繕って、私の目を真っすぐに見つめてきた。

「いきなりスペイン語で捲し立てられてびっくりしただろう?でも、いくらびっくりしても、自分の手に負えないと思っても、君は決して患者を見捨てようとしなかった。そして不安そうな顔を患者の家族に見せまいと、必死に笑おうとしていた」
「…………」
「そんな優しさと強さを持つ君が、僕を見るときだけは迷子になった子供みたいに、縋るような眼差しを向けてくれた。ああ、君に頼りにされてるんだって実感できて、僕はあの時すごく嬉しかったんだ」

ここで彼は荷物を手放して、その腕で私の体を正面から抱き締めた。どくんどくんと規則正しく紡がれる心拍数が、薄手の服を隔ててダイレクトに伝わってくる。

「世界中に自慢して回りたいくらいだ。僕の恋人は格好いいし頼りになるし、そして何より誰よりも可愛いんだぞって」

彼のストレートな褒め言葉は、私の胸をぽかぽかしたもので満たしていった。けれど素直になれない私は、彼に顔を見られないよう額を彼の胸に擦りつけて、唇を尖らせた。

「……それ、全部こっちのセリフ」
「ん?」
「私だって自慢したいもん。私の恋人は、ただでさえ恰好良くて頭もよくて腕っ節も強いのに、いざって時に心底頼りになる素敵な人なんだよって」

まあ、あなたの立場は特殊だから、私の心の中で盛大に自慢するだけにしとくけど。と続けると、彼は一瞬虚を突かれたように黙りこくって、やがて大声を上げて笑い始めた。

「っはは、あははは!」
「零君?」
「ははっ、いや、悪い。何だか僕たち、バカップルみたいだな」

確かに、空港のロビーで荷物も放り出してしっかりと抱き合い、お互いを褒めちぎる姿はバカップル以外の何物でもないだろう。何とも頭の悪いやり取りをしてしまったものである。10代の学生でもあるまいし。

だけどこんなバカみたいなやり取りも、彼とするのなら悪くない、なんて。

(言ったらそれこそバカップルみたいだから、絶対に口に出しては言わないけど)

きっと彼も私と同じ気持ちなのだろうということは、背中に回された腕の強さから確信することが出来た。