目覚めたときに好きだと言って


お前のせいだ、と繰り返し彼は言う。
お前がその男を選んだ結果がこのざまだ。お前が一時の浮ついた気持ちに流された結果、この俺を永遠に喪うことになったのだと、彼はその口元を皮肉げに歪めながら嗤った。

「……違う」

違うの。
違うの、あの時の私は、目の前の事件を解決することに頭がいっぱいだっただけ。決してあなたを蔑ろにしたかった訳じゃない。
弱々しく首を振って、震える声で訴えても、彼は私の言葉を聞き入れようとはしなかった。

彼の両手が私の首に掛かる。ぎりぎりと渾身の力で締め上げられて、呼吸が出来なくなる。それでも私は抵抗できなかった。病に侵された彼の腕など、ともすれば振り払ってしまえるほど弱い力だったのに、私はその腕から逃れようとしなかった。
それは最早誰にも言えない、けれど永遠に消えることのない罪悪感。
かつて愛した男をあんな形で死なせてしまった、自分に対するやり場のない怒り。
今目の前にいる彼は、そうした自分の感情が綯交ぜになって作り出した幻想だった。

幻想の口から炎が噴き出る。それは見る間に鮮血へと変わり、私の顔に降り注いだ。

「…………っ、」

喉を絞められているせいで悲鳴も上げられない。開いた唇から漏れるのは喘鳴のような乾いた呼吸音だけで、代わりに涙が目尻から溢れ出た。

お前のせいだ、と繰り返し彼は言う。
俺を見捨てたお前のことを、俺は絶対に許さない。と、彼は呪いのように私に囁く。
自分の吐き出した体液で、私を、そして自分自身を血の海に沈めながら。

涙に滲んでぼやけていく視界の中で、その鮮やかな赤い色だけが、くっきりと暗闇に浮かび上がっていた。
力尽きて瞼を閉じるその瞬間も、彼の冷たい唇は私の名前を呼びながら、

―――愛しているよ。

と、呪いのように何度も何度も繰り返していた。

*****

「さくら!」

何度目かの呼び掛けの末に、さくらは涙に濡れた睫毛を重そうに震わせた。痛々しく腫れた瞼がゆっくりと持ち上がり、藍色の瞳がその向こうに覗く。
その目が宙を彷徨って、次第に僕の上で焦点を結んだのを確認し、僕は詰めていた息を吐き出した。

「さくら、ああ、よかった……」
「…………?」

自分の状況が把握できていないのだろう。ぼんやりした表情でこちらを見返す彼女は、頬を濡らす涙を拭いもせずに自分の首許に手をやった。

「どうした?苦しいのか?」
「……いいえ、苦しく、ないわ……?」
「随分魘されてたから心配したぞ。悪い夢でも見たのか?」

冷たい頬を指で拭ってやりながら、僕は尋ねた。それを聴いた彼女はようやく自分が眠りから目覚めて僕の腕の中にいることを思い出したらしく、両手で顔を覆って静かに泣きだした。

「……ごめん、なさい」
「ん?」
「あなたに心配を掛けたくはなかったのに……」
「そんなこと気にするな。僕は自分の恋人が悪夢に魘されている時に、横でのうのうと惰眠を貪るほど鈍感な男じゃないつもりだ」
「…………」

僕が彼女の手首を掴み、やんわりとどけてやると、彼女は悲痛な面持ちで緩く首を振った。ついさっきまで、息切れを起こしそうなほど精神的に追い詰めれていたはずなのに、今の彼女はまるで目覚めたことを後悔しているかのように見えた。

「一体どんな夢を見たんだ?」
「……言え、ない」
「言えないような内容の夢か?」
「…………。もう、覚えてないわ」

嘘を吐いていることはすぐに解った。うわ言に幾度も「ごめんなさい」と繰り返していたことや、頑なにこちらと目を合わせようとしないその態度から、夢の内容が僕にとって都合のよくない内容であったのだろうということも。
彼女がこれほど取り乱すような、何度謝っても罪の意識が拭えないような過去のトラウマなんて、心当たりは1つしかない。僕に後ろめたさを感じているのなら猶更だ。

(あのプログラマーの夢か)

それは推測というよりももはや確信に近かったが、僕はそれを口にはしなかった。彼女の心を守るために、そして自分のプライドを守るために。
代わりに僕は彼女の体を抱き起こし、自分の胸元に小さな頭を押し付けた。冷えた体に温もりを分け与えるように、ゆっくりと背中を擦ってやる。

「解った、もう話さなくていい。嫌な話はもう終わりにしよう」
「零さん……」
「そうだ。そうやって、怖い思いをした時にはすぐに僕を呼んでくれ」

そうしたら僕はきっと、どんなに昏い悪夢の淵からでも君を救い出そうとするだろう。

「……夢の中まで迎えに来てくれるの?あなたが?」
「ああ。君が呼ぶなら、どこへだって」
「私が求めれば……、あなたは私を守ってくれる?」

僕を抱き締め返す彼女の手は、可哀そうなほど震えていた。いつも毅然としている彼女からは想像もできないほどの弱々しい懇願に、庇護欲が掻き立てられる。

「勿論だ。だから、君のその口で言ってくれ」
「なに、を?」
「私の傍にいて欲しいと。一生私を離さないでと、君の言葉で聴きたいんだ」

ずるいことを言っている自覚はある。彼女が弱っている所に付け込んで、僕に依存するように誘導しているだけだということは解っている。それでも、僕はどんな手を使ってでも、彼女の中に巣食う昔の男の幻影を消し去りたかった。
死んだ男への届かぬ謝罪を口にするくらいなら、今目の前にいる僕への愛を囁いて欲しかった。

「……私は、あなたに多くを望まないわ」

彼女は僕の胸に手をついて体を起こした。

「あなたのような人が、私のような女を対等に扱ってくれて、誰より信頼してくれている。それだけで、私にとっては身に余るほどの幸せを感じているの。本当よ」
「さくら、でも僕は」

思わず口を挟みかけた僕を、彼女は指先1本で黙らせた。僕の唇を人差し指でそっと押さえ、でも、と続ける。

「でも、あなたが私にもっと甘えてもいいと言ってくれるなら……、今夜だけお願いしてもいい?」

彼女の頬の涙は既に乾いていたが、濡れた瞳にじっと見つめられてどきりと胸が鳴った。暗闇の中でもはっきりと判別できるほど、彼女の大きな目は露を含んできらきらと輝いていた。

「朝が来るまで、私を目一杯甘やかして。その腕に私を抱いて、目が醒めたときに愛してるって言って」
「さくら」
「お願い。そうしたらきっと、もう今夜は怖い夢を見ないはずだから……」

彼女はそう言って僕の胸に唇を寄せ、心臓の上にキスをした。まるで僕の心臓が規則正しく動いていることを確認するかのように。僕の体が温もりを喪っていないことを、その唇で感じ取ろうとするように。

僕は忸怩たる思いを抱えながら、彼女の背中に腕を回して強く抱きしめた。柔らかい髪の中に鼻を埋め、波立つ心を落ち着かせようと深呼吸をする。

「ああ、解った。今夜はもう何も心配せずに、僕の腕の中でゆっくり眠ればいい」

言いつつ並んで横になると、僕はシーツを引っ張り上げて彼女の肩に掛けてやった。

「お休み、さくら。今度は僕が君の夢に逢いに行くよ」
「ふふ……。ええ、きっとね」

中途半端な時間に目が冴えてしまったせいで、さくらも最初は寝付けなさそうにしていたが、次第にとろんと瞼が落ちていき、やがて僕の腕の中で完全に意識を失った。その顔をしばらく眺めた後、僕は小さく息を吐いて彼女を抱き寄せる腕に力を込めた。

“今夜だけ”と彼女は言った。まったく、欲がないのも考えものである。
一生傍にいて欲しいと、私を離さないでと言って欲しかったのに。

(まあでも、彼女にしては素直に望みを言ってくれた方か。それだけ心が弱っていたんだろうな)

望んでいた言葉を聴くことは出来なかったが、これが今の僕と彼女に許された精一杯の我儘だろうと思った。彼女の言葉から“今夜だけ”という言葉が消えることは、僕がこの数年間抱いてきた本懐を遂げるまでは絶対にあり得ない。

だけどいつか必ず、彼女の口から“永遠に私の傍にいて”と言わせてみせる。そう決意を新たにして、僕は静かに目を伏せた。彼女の寝息を子守唄にしているうちに、僕の意識も徐々に眠りの中に引き込まれていった。