夢の残り香


瞼を開けて真っ先に知覚したものは、目に痛いほどの白だった。
足元も、天井も、目に映るすべてのものが真っ白な空間。

(……ああ。これは夢か)

そうと自覚するのに時間は掛からなかった。だって現実の僕は今頃、セーフハウスの簡素なベッドで束の間の休息を貪っているはずなのだ。3時間ほど眠った後は、またポアロに出勤して、“安室透”としての1日が始まる予定だった。

(夢を見ているということは、眠りが浅いんだな。こんな時こそ短くてもいいから、しっかり熟睡しておきたいのに)

はあ、と眉間を押さえてため息を吐く。自分の顔に伸ばした腕を包む服すら真っ白で、これは一体何の暗示なのだろうかとふと思った。

零さん

その時、僕しかいないと思っていた空間にふと誰かの声がした。驚いて首を巡らせると、やはり純白のワンピースに身を包んだ恋人が、穏やかな微笑みを浮かべて佇んでいた。

「さくら?」

ドイツに居るはずの彼女の顔をこうして間近で見ることが出来るなんて、なんと素晴らしい夢だろう。眠りが浅くなるから夢は見たくない、とついさっきまで思っていたはずなのに、我ながら現金なものである。
夢の中に登場した人間は、相手が自分に会いたいと思っていてくれることの証である。そんな胡散臭い説を僕はこれまで話半分に聴いていたのだが、今この時はそれが真実であればいいと思った。
僕はすぐさま彼女の許へと駆け寄った。すぐそこに立っているように見えたのに、彼女の顔がはっきり見えるようになるまで予想外に時間が掛かった。

「さくら、夢の中まで逢いに来てくれて嬉しいよ」

彼女は美しいほほえみを浮かべたまま、チェリーレッドの唇を開いて何事かを言った。

零さん、あなたにこの花を贈るわ
「うん?」

聴こえない。
彼女の声が聴こえない。

あなたは、この花が何ていう名前か知ってるかしら?
「待ってくれ、さくら」
私たち、お互いの好きな花の名前さえ知らなかったわね
「さくら、君の声が聴こえないんだ」

必死にそう訴えても、僕の声こそその耳に届いていないかのように、彼女はぴくりとも表情を変えなかった。そして彼女は、その胸に抱えていたあるものを僕に向かって差し出した。

「……花?」

彼女が僕の鼻先にそれを突き出したことで、僕は初めてその存在に気が付いた。それは彼女の純白のワンピースに溶け込んでしまいそうなほど、何の色味もない真っ白な花弁の花だった。

「これは?」

尋ねても応えは返ってこない。解っていたのに、僕はその花に手を伸ばしながらそう問いかけた。

花に変化が現れたのは、その茎が彼女の手を離れ、僕の褐色の手の中に納まってからだった。

「……え?」

さっきまでは確かに真っ白だった花弁が、今は夕焼けを切り取ったような美しいオレンジに色づいている。花弁の形もさっきまでとは異なり、上下非対称のそれには筋状の模様がくっきりと浮かび上がっていた。
一体どういうことだろう。これは何かの手品なのだろうか。そう思って彼女の顔に視線を戻すと、もはやそこに彼女の姿はなかった。僕の手に残された花だけが、確かに彼女がそこにいたことを証明する唯一の縁だった。

名も知らないオレンジの花は、彼女を見失って動揺する僕を宥めるように、健気にその花弁を揺らしていた。



そんな不思議な夢を見たあの日から、彼女は毎日のように僕の夢に現れては、白い花を手渡してくるようになった。彼女の手の中にある内は、確かに何の変哲もない、恐ろしいほど特徴のない真っ白な花なのに、受け取る度にそれは毎回違う色や異なる形に変化した。この前は薄紫。そして今日は濃い桃色の5枚の花弁に縁どられた花である。

(夢というものは記憶の整理だと言われているが、その説が正しかったとして、僕は一体どこでこんな花を見かけたんだ?)

全く見覚えがない。というよりも、普段トリプルフェイスとしての生活を送るうえで、いちいちその辺に咲いている花を気にするような心の余裕などなかったから、これらが何という名前で、どの季節に咲く花なのかも知らなかった。
厄介なのは、その花の姿形を目が醒めると同時に忘れてしまうことである。色や形を覚えていれば、スマホで検索でもすれば名前を知ることが出来ただろう。だが一度夢から醒めてしまえば、途端にあの鮮やかな色彩が不鮮明にぼやけていくのだから、人間の脳というものは不便に出来ているものだとつくづく実感する。

これが例えば僕の恋人の相棒だったなら、きっと一度見聞きしたものを忘れることなどないのだろう。ふとそう思いかけて、そもそも人工知能は夢を見るのだろうか、と素朴な疑問が沸き起こった。

「なあ、ギルバート」
「はい、どうしました?降谷さん」
「君は、夢を見ることはあるか?」
「いいえ。そもそも、人工知能に睡眠という概念はありません」

一蹴されて終わった。言われてみれば全くその通りで、自分でもなぜそんな質問をしたのだろうかと苦笑がこみ上げる。彼があまりにも人間らしい受け答えをするものだから、知らず知らずのうちに僕は彼を、どこかで生き物と同じもののように思っていたのかも知れない。

「妙な夢でも見たのですか?最近は良眠が続いているように記憶していますが」
「いいや、何でもない。忘れてくれ」

自分でもよく覚えていない夢の話などされても、彼を困らせるだけだろう。そう判断して、僕は自分で振った話を自分から切り上げた。



そうしてまた今夜も、僕は同じ夢を見る。夢の中では、前日にもらった花の色も、その前の日にもらった葉の形も、難なく思い出すことが出来た。けれど夢の中にはスマホなんて便利なものは持ち込めなかったから、その場で調べることは出来なかった。都合がいいのか悪いのかよく解らない夢である。
不完全燃焼な気持ちのまま彼女の残していった花を眺め、やがて深い眠りに就く。毎日それの繰り返しだった。

連日そんな夜を過ごしていれば、日ごろ何気なく見落としてきた街中の草花が、自然と目に留まるようになった。

「……この花、夢の中で見たことがあるような」

かつての自分が聴いたら何をメルヘンなことを、と一笑に付しそうなセリフを、僕の唇はつるりと紡いでいた。

「え?降谷さん、何かおっしゃいましたか?」
「ああ、風見。いや、大したことじゃないんだが」

僕が杯戸公園の花壇に生えていた花をじっと見つめていたことに気が付いて、風見は不思議そうに僕の視線の先を負った。そして眼鏡の弦に手を掛けて、薄桃色の八重咲の花弁に目を凝らす。

「ああ。あれはクジャクアスターですね」

サラリと告げられた言葉に僕は思わず目を見開いた。

「えっ……、君は知ってるのか?この花の名前を!」

まさかこの部下が花に関心を持っているとは思いもよらなかったため、大きな声を出してしまった。必死に詰め寄る僕に異様な気迫を感じ取ったのか、風見は目を泳がせながら「いえあの、ゲームで特効薬を作るために集めていたので、自然と覚えてしまったというか、」としどろもどろに答えた。

「自分もあまり草花に詳しい方ではありませんが、この花はどこにでも咲いていますからね。公園で見かけたこともあるのでは?」
「無粋だと思われるかも知れないが、これまで食用でもない花を気に掛ける余裕がなかったんだ。そうか、この花はクジャクアスターという名前なんだな」
「ああ、確かに。仕事第一の降谷さんが花に興味を持つなんて、少し意外でした。でもどうして急にこの花を?」
「いや……、別に特別な理由じゃない」

首を傾げる風見に曖昧な返事をすると、僕は八重咲の小さな花に手を伸ばし、その表面をそっと撫でた。風にも耐えないと思っていたか弱い生物は、その実もっと強かに、大地に根を下ろして堂々と胸を張って生きていた。

(今夜もあの夢を見られるだろうか)

もしも今夜も、夢の中で彼女に逢えるとしたら。
今日こそはきっと、彼女のくれる花の名前を答えられるような気がする。そんな根拠のない予感を胸に、僕は膝を払って立ち上がった。

薄桃色の星の名を冠する小さな花がそよ風に揺れ、僕にエールを送っているかのように見えた。



果たして、僕はまた同じ夢を見た。
真っ白な空間で純白のワンピースに身を包んださくらは、今日も穏やかに微笑んで僕に一輪の花を差し出した。それを躊躇いなく受け取って、同時に僕は離れていこうとする彼女の手首を反対側の手で捉えた。

「さくら」

僕の手の中で、真っ白だった花が形を変える。一枚の花弁が先別れしておしべとめしべを包んでいる造りは、ツツジを連想させる形をしていた。けれどこの花はツツジよりも淡く、深い色をしていた。

「さくら、僕は解ったよ」

僕の言葉にきょとんと眼を丸くして、彼女は小首を傾げた。その髪に手を伸ばして、もらったばかりの花を挿す。
彼女の艶やかな長い髪に、可憐な花はよく映えた。

「この花の名前を、僕は知ってる」
「…………」
「この花の名前は、ペチュニアだ」

夏の花壇や寄せ植えを彩る代表的な花の一つ、ペチュニア。花言葉は“あなたと一緒なら心が和らぐ”“自然な心”という意味を持つ。

「君が僕にくれる花は、僕が君に伝えたい言葉そのものだったんだな」

ある時はアルストロメリア。またある時は、ローズヒップ。“献身”“愛着”、“哀しくそして美しく”。
彼女のくれる花が毎日違う姿に変わっていたのは、僕が毎日違う言葉を彼女に届けようとしていたからだったのだ。だから、彼女の声は僕に聴こえることはなかった。聴こえる必要がなかったのだ。

「だから今日は、僕から君にこの花を贈るよ」

いくつもの仮面を被りながら生きているこの僕の、唯一の心の拠り所である君に。

そう言って彼女の髪に挿した花に口付けを贈ると、彼女はほんのりバラ色に頬を染め、

「         」

密やかな声で愛の言葉を囁いて、花より麗しく微笑んだ。