Dear. ミユ様・清歌様

桜が舞うには随分早い、3月の初頭のことだった。彼女は全ての花の中で、桜が一番好きだと言った。
平安時代の歌人も詠んでいたでしょう、と淡く微笑む顔が、今も脳裏にこびり付いている。

花散らで、月が雲らぬ世なりせば……。
ものを思わぬ我が身ならまし。西行法師だったか?

途中で言葉を奪った僕を、彼女は恨めしそうに見上げていた。
降谷君の意地悪、最後まで言わせてよ。そう言って僕の腕を小突く手首が、枯れ枝のように細かった。それが何とも言えず悲しくて、僕は見ないようにするだけで精一杯だった。

彼女は僕の大学時代の恋人で、僕と景光と同じ学部に通っていた。僕を通じて景光とも仲良くなり、時折3人でセッションの真似事のようなこともやった。僕が大学を出て警察学校に進んでからも、ロースクールに通う彼女との交際は続いていた。だから、警察学校の同期の面々も、彼女とは互いに顔見知りだった。

彼女の体に異変が起きたのは、僕らが半年間の入校期間を終えて、それぞれの配属が決定する頃だった。公安に配属と聴かされて、彼女との交際もこれで終わりかと覚悟を決めた矢先、彼女の友人から連絡を受けたのだ。

学校で血を吐いて、病院に運ばれたの。もしかしたらもう、助からないかも知れない。

そう泣きじゃくりながら告げられた言葉が、俄かには信じられなかった。すぐに教えてもらった病院へ駆けつけると、彼女は意識を失った状態で、殺風景な病室に横になっていた。
死んではいない。そのことに一瞬安堵しそうになって、けれどすぐに絶望に叩き落とされた。
目を醒ました彼女は、弱ったなあといつも通りの調子で頭を掻いた。僅かに黄疸が見えるその顔からは、循環器系の病気なのだということが素人目にも読み取れた。

よく解らないんだけど、肺の難病なんだって。そういえば最近、疲れやすいし足がむくんできたなあとは思ってたんだけどね。
治るのか。
解んない。
解らないって、何だよ。
だってもう、ステージ末期なんだって。全力は尽くすけど、もって1年かも知れないって、先生は言ってたかな。

ああ、彼女は納得してしまっているのだと、少しだけ哀しくなった。
自分がこのまま死ぬことを、足掻きもせずに受け入れてしまっている姿が哀しかった。

彼女はその言葉通り、発症してから1年後に死んだ。自分の死を受容した人間に別れを告げられるほど非道な人間にはなり切れなくて、僕は結局彼女が亡くなるまで、恋人として傍に居た。公安として働きながらの交際は、ごく稀にしか会えないほど味気ないものだったが、彼女は文句ひとつ言わなかった。

桜が何より好きだと言っていた。その桜を見ることもなく、彼女は死んだ。
彼女が死んだのは、桜が舞うには随分早い、3月の初頭のことだった。





この日、僕の勤める高校では卒業式が催されていた。僕が担任を受け持っていた学年も、今日を最後にこの学校を巣立っていく。

「ほな、皆で写真撮んで!」
「せやな、隣のクラスから何人かカメラ係呼んでこよ!」

卒業証書授与式も終わり、最後のHRを終えると、生徒たちはしんみりした空気を振り払うようにわいわいと騒ぎ始めた。僕はそれを少し離れた所で見守りながら、教室を出て行こうとする遠山さんを引き留めた。

「ああ、カメラ係なら僕がしますよ。このカメラで撮ればいいですか?」
「何言うてはるんですか!?安室先生も一緒に入ってくださいよ!」
「え?僕もですか?」
「せやせや!安室先生がおらな、話にならんで!」
「ほら、先生は真ん中にお願いします!」

あれよあれよと腕を引かれるままに、僕は先頭の真ん中の列に割り込んだ。ふと隣を見れば、そこには僕が可愛がってきた生徒である藤原みずほがいた。彼女は背が小さいから、自然と最前列に配置されたのだろうと察しがついた。

「藤原さん、お隣、失礼しますね」
「あ、はい!……先生の隣で写真に写るなんて、なんという罰ゲーム……」

ぽつりと呟かれた言葉に、僕は軽くショックを受けていた。まさか彼女の口からそんな言葉が出るとは思わず、真顔で目を瞬かせる。

「罰ゲーム、ですか」
「へ?ああ、あの、悪い意味じゃなくてですね!眩しすぎる先生の隣にいたら、私なんて霞んじゃうといいますか……」
「え?」
「そうだ、今からでも遅くないから、ちゃちゃっとお化粧してきていいですか!?」

それくらいしないと、麗しすぎる先生の横になんて並べませんよ。そう真剣に告げられて、僕は先程のショックなんてどこかに飛んで行ったように笑い始めた。

「そんなこと、気にする必要ありませんよ。藤原さんはそのままで十分魅力的ですから」
「いやでも、先生だってこんなちんちくりんが隣に写ってるんじゃ嫌でしょう?」
「僕は藤原さんが隣に居てくれるなら、何でもいいんですけどね」

くす、と笑ってそう言うと、僕は彼女の耳元に顔を近付けた。生徒達が誰も僕らを見ていないことを確認して、そっと耳打ちする。

「そうやって恥ずかしがるお前が可愛くて仕方ないって言ったら、どうする?」
「―――ッ!?」

僕の声を間近で聴いた彼女は、一瞬で頬を真っ赤に染めて耳を押えた。

彼女が自分の中の僕への気持ちに気付いたのは、今から1年と半年ほど前のことである。この1年半の間で、僕と彼女はじりじりと攻防戦を繰り広げてきた。僕の本当の名前を知って、僕がどれだけ彼女を想ってきたのかを知っても、彼女は最後の最後で教師と生徒という立場を崩そうとしなかった。

だが、そんな愉快な日々も今日で終わる。

卒業式の後、ちょっとでいいから時間をくれと、まるで宣戦布告のように告げられたのは、彼女が僕の母校の大学を受験した日のことだった。受験が終わったその足で、彼女は僕に会いにこの高校までやって来たのだ。だからどんな結末になろうと、彼女と僕の恋の駆け引きは今日で一旦終わりを迎えることになる。

「ほな、黒羽君、撮影係頼んだでー!」
「おう、お任せあれ、っと」

隣のクラスから引っ張って来られたのは、黒羽快斗君だった。隣には中森青子さんの姿も見える。

「そんじゃ皆様、はいチーズ!」

カシャ、という音と共にシャッターが切られ、僕は可愛い生徒達と並んで笑顔で写真に納まった。前世ではこんな風に、大勢で写真に納まる日が来るなんて思ってもみなかった。



撮影会や部活での追い出し会も終わり、僕は彼女と約束した通り、裏庭の桜の木の下に向かっていた。桜は僅かにその幹を赤く染めているだけで、蕾さえ見られない状態だった。

彼女は、桜の木の下で幹に寄りかかって待っていた。

「……藤原さん」

近寄って行って声を掛けると、彼女は静かに顔を上げた。
それは確かに、この3年間ずっと見守ってきた彼女の顔ではあったのだが、どこか違和感を抱かせるものだった。

彼女はその幼い顔に、大人びた微笑みを浮かべていた。

「安室先生。……いえ、違いますね」

ふるやくん。
と、彼女は僕を呼んだ。
いつでも僕を慕ってくれた、子犬のような彼女の声ではなかった。
それは確かに、あの日僕の前から消えてしまった、僕の恋人の声だった。

僕が呆然と目を見開いていると、彼女は透き通るような笑顔のまま、詠うように口を開いた。

「今日は桜が見られなくて、残念ですね」
「…………」
「私ね、桜が1番好きなんです。平安時代の歌人も詠んでいたでしょう?」

その言葉に、僕ははっと息を呑んだ。そんな会話を彼女としたのは、確かこんな春先の日のことだった。
動揺をなんとか押しこんで、僕は震える唇を開いた。

「―――花散らで、月は雲らぬ世なりせば……」
「ものを思わぬ我が身ならまし。……ふふ、降谷君も覚えてたんだね」

西行法師の“山家集”に載せられている和歌の1つで、反実仮想を用いた歌である。桜の花が散らず、月が雲で隠れてしまわない世であったなら、自分は物思いせずに済んだのに、という意味だ。

でも今は、花が散ってくれてよかったと思えるようになったよと、目の前の彼女は言った。


「だって、お蔭でまたあなたに出会えたんだから」


その言葉だけで十分だった。僕は彼女との距離を1歩で詰め、小さな体を力いっぱい抱き締めた。早鐘を打つ鼓動が一体どちらのものなのか、僕には判別できなかった。
だから呼んだ。これまでどれほど呼びたくても、決して呼べなかった愛しい名前を。

「みずほ……、みずほ、みずほ」
「うん。ごめんね、ごめんね降谷君」
「謝るな。僕こそ悪かった、もうあんなに寂しい思いはさせないから」
「うん……、うん、ありがとう」

大好きだよ。そう言ってはにかむ彼女の唇に、僕は万感の想いを籠めて口付けた。

生まれ変わっても忘れ得ない彼女と今世で再会を果たしたのは、桜が舞うには随分早い、3月の初頭のことだった。


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