Dear. 匿名様

学年末テストも無事に終われば、ホワイトデーの季節がやってくる。
ちょうど1か月前の14日と同じく、浮足立った空気が再び学校全体を包みこむ。いかにも何かが起こりそうな雰囲気を漂わせながら、今日と言う1日は始まった。

この日は音楽の授業が終わればお昼休みだった。教科書と筆記用具をまとめて抱え、お腹空いたなー、と月並みなことを考えながら立ちあがる。そのまま教室のドアを開けようとしたところで、景光先生に呼び止められて私は体ごと振り返った。

「藤原、こないだのお返しだ。あの時はありがとな」

その言葉と共に差し出されたのは、白い紙に包まれたお菓子の箱だった。デパートの地下でよく見かける、バターサンドのおいしいお店のパッケージである。

「えっ、いいんですか!?こんな素敵なもの貰っても」

まさか景光先生からお返しなんてもらえると思ってなくて、私は両手でそれを大事に受け取ってから目を瞬かせた。すると景光先生は、私の頭にぽんと手を置いて猫のように目を細めた。

「ああ。社会人の男として、貰いっぱなしなんて出来ないからな。あと、手作りチョコがおいしかったから、そのお礼に」
「ありがとうございます……!えへへ、景光先生においしかったって言ってもらえて嬉しいです」
「そうか?俺よりゼロに褒めてもらった方が嬉しいんじゃないのか?」
「だって景光先生なら、私に気を遣ってお世辞とか嘘とか言わなさそうですし。それに安室先生の手作りのお菓子を食べてきた景光先生なら、舌も肥えてるはずですし!」
「なるほど。確かに一理ある」

名推理だな、と言って景光先生は私の頭をよしよしするように撫でた。小さい子扱いされているようで恥ずかしかったけど、最早いつものことなので私もその光景を見ていたクラスメイトも、それを当然のように受け入れていた。

「それで、ゼロから伝言だ。放課後、お前に渡したいものがあるから、古典準備室に来いって」
「安室先生が?」
「ああ。よかったな、ちゃんとお返し貰えそうだぞ」
「……はい!バレンタインの時、景光先生が背中を押してくださったおかげです」

ありがとうございました、と言って頭を下げると、先生は全く嫌味を感じさせない笑顔で大きく頷いた。それから「そのバターサンド、案外賞味期限短いから気を付けろよ」と言い残し、音楽室を出て行った。

私は手許の箱をもう一度じっくりと見つめ直した。自分の示した好意に対して、こうして何の衒いもなく好意を返してくれることが嬉しかった。

(せっかくの頂き物なんだから、大事に食べようっと。その前にお昼ご飯!)

思わずにやけてしまいそうになる頬を引き締めながら、私は荷物を抱え直して音楽室のドアを開けた。それから和葉達の待つ教室へ、弾む足取りで戻って行った。



そして待ちに待った放課後、私は若干緊張した面持ちで古典準備室の前に立っていた。コンコン、とノックをすると、中から穏やかな声が返ってくる。

「安室先生、失礼します」
「ああ藤原さん、お待ちしてましたよ」

先生は私に背を向けるように机の前に立ち、私が中に入ってくるのを待っていた。それを見て、私は準備室の扉を閉めてそろそろと奥の机の前まで足を進めた。

「景光から聴いているかも知れませんが、あなたをここに呼んだのはこれを渡したかったからなんです」
「あ、ありがとうございます。って、これ……」
「バレンタインのお返しです。と言っても、こんなものでお返しになるかは解りませんが」

言いつつ差し出された物を見て、私は驚愕に目を見開いた。
それは一見何の変哲もない、薄っぺらいノートのようなものだった。けれど、そのベージュ色をした表紙には大きくCHOPINと書かれていて、その上にはPOLONEZ Op.22と印字されている。

「これは、楽譜……ですか?」
「はい。僕もそこまでピアノの曲に詳しくはないんですが、僕から藤原さんへのリクエストです」
「リクエスト?」
「はい。いつか僕にも、あなたの演奏するピアノを聴かせて欲しいな、と思って」

それで選んだのがこの曲だ、と先生は続けて言った。ショパンの“アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ”―――オーケストラとのピアノ協奏曲として書かれた曲を、ポーランドのピアニスト、ヤン・エキエルが全てピアノ譜に編曲した輸入盤の楽譜である。

「こ、この曲を、私に?」
「あっ、ひょっとして、もう既に持ってますか?」
「い、いえ、さすがに持ってないです。だってこの曲、ショパンコンクールのファイナルで演奏されるような曲ですよ!?」

いくら私が十数年ピアノを嗜んできたと言っても、こんな大曲に挑戦したことはない。これまでにショパンで手を出したことがあるのは、短いエチュードや、英雄ポロネーズと言った精々6分程度の曲で、10分を超える曲に手を出すのは尚早だと思っていたのだ。
それをこの先生は、自分からのリクエストだと言った。

これがどんな難易度の曲なのか、先生は理解しているのだろうか。この曲1曲を仕上げるために、何年費やすことになると思っているのだろうか。

私の反応に満足したように、先生は何度も小さく頷いた。

「いいじゃないですか。超えるハードルが高いほうが、あなたは燃えるタイプでしょう?」
「さすがにハードル高すぎて挫けそうです……」

私は肩を落として弱音を吐いた。だってこの曲は、おいそれと手を出していい曲ではない。けれど先生はそんな私の不安も見抜いていたかのように、こちらを安心させるようににっこりと微笑んだ。

「大丈夫ですよ。藤原さんの力量をもってすれば、難なくその曲を弾きこなせるようになります。必ずね」

それはまるで私がこの曲を弾きこなす未来を見てきたかのように、やけに確信に満ちた口振りだった。

「……ホントですかぁ?」
「ええ。僕が保証します」
「先生がそんなに言ってくださるのは、嬉しいですけど……」

やけに自信満々な先生の態度に内心照れつつ、私はベージュ色の楽譜を見つめた。

いつか、いつか手が届くなら弾いてみたいと思っていた曲を、恐れ多くて自分で買うことも出来なかった楽譜を、先生が君なら弾けると言ってプレゼントしてくれた。そして私の演奏を聴いてみたいと言ってくれたのだ。あの安室先生が。あの安室先生が!

(落ち着け、落ち着け。この曲の難易度も、私のレベルも先生は知らないんだから。さっきのは、私に都合のいいお世辞を言ってくれてるだけなんだから浮かれちゃダメ)

浮かれちゃダメだと解っているけど、―――こうまで期待されては応えない訳にいかない。
私は腹を括って先生の顔を真っ直ぐに見据えた。

「解りました、頑張って練習します。……ただ、」
「ただ?」
「ただ、卒業まで待ってください」

私は貰ったばかりの楽譜を胸に抱いて、宣言した。

「あと1年で、先生に聴いてもらえるレベルにまで仕上げます。だからそれまで、待ってて下さい!」

自分でも無謀なことを口にしていることは解っている。こんな大曲を、勉強も部活も頑張りながら1年で仕上げるなんて、余程の集中力がないと出来る訳がない。
それでも、私は先生のがっかりする顔を見たくなかった。先生が過剰なまでに寄せてくれる期待を、裏切りたくなかったのだ。

私の精一杯の宣言を、先生は嬉しそうに笑って聴いていた。やがてその笑顔のまま、先生は腰を折って私の顔を覗き込んだ。唐突に端正な顔が近付き、私は一歩後ずさる。
先生の手が伸びて、楽譜を抱えた私の右手に3本の指が絡んだ。中指の付け根を擽られて、得体の知れない感覚が背筋を這う。

「っひ、ぅ、」

素っ頓狂な声を上げる私を見て、先生はくつくつと喉の奥を鳴らして嗤った。
そして言った。低くて艶っぽい、大人の声で。

「ああ、待っててやる。だからその曲が完成したら、僕に必ず会いに来て欲しい」
「せん、せい」
「そしてもう一度、あの頃みたいに、その曲を僕に聴かせてくれ」

みずほ、と。
先生の声が、吐息が私の鼓膜を震わせた瞬間、私は息を呑んで先生の顔を見返した。先生はそれ以上は何も言わなかったけれど、先生にとってこの曲が私の想像以上に大切な意味があるのだということだけは理解できた。

結局この日、ホワイトデーのお返しに私が貰ったものは、景光先生に貰ったバターサンドとクラスメイトから貰ったキャンディと、そして1冊の真新しい楽譜だった。
けれど私の胸に何より印象的に焼き付いた“お返し”は、楽譜を大事に抱き締める私を見つめて静かに微笑む、“降谷零”の顔だった。

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