Dear. とまと様・清歌様

さあ、泣くのを止めて顔を上げて。夢を諦めない人の所に、私はやって来てあげるから。
そう言って、美しく着飾ったシンデレラを王子の許へ送り出す魔法使いの心境を、一体誰が知っていたのだろう。

王子さまはあなた。お姫さまは私じゃない誰か。
そして私は、あなたの許に憎い恋敵を導く哀れな魔法使い。

王子さまと魔法使いの視線は、ねじれの位置のように決して交わることはない。だから私とあなたの心も、決して交わることはないのだろう。

「お願い、のぞみ!どうしても卒業式に、降谷君に告白したいの!」
「……それで、なんで私の名前で降谷を呼び出さないといけないの?自分の名前で正々堂々と呼び出せばいいじゃない」
「だって、今まで降谷君とあんまり話したことないし。その点、のぞみは1年の時から降谷君と仲がよかったじゃん」
「……はあ、解ったよ。卒業式の後で屋上に来てって、降谷にメール送っとけばいいのね」
「ありがとう!本当にありがとう、のぞみ!」

ああ、何て愚かなことだろう。これから先、きっともう二度と会えなくなるであろうあなたに自分の気持ちを伝えることも出来ず、他人の背中を押してやるなんて。

けれど子供だった私には、自分の恋よりも友情を喪うことの方が恐ろしかった。だからこの時も、親友に懇願されるままに降谷を屋上へ呼び出した。私ではない別のお姫さまが、王子さまに告白するのをアシストするために。

告白の返事がどうだったのかは知らない。けれどこの日から、私と降谷は一切の連絡を取り合わなくなった。高校を卒業して別々の大学に進学すれば、いつかはそんな日が来るだろうと思っていた。けれど、その幕切れがこんなに呆気ないものだとは思いもしなかった。

告白することも出来ずに破れた恋を癒してくれたのは、11年という年月だった。大学や職場でそれなりの出会いを経験し、それなりのお付き合いというものを経験していくうちに、“王子さま”への気持ちも次第に薄れていくのが解った。それは寂しいことなのかも知れないけれど、同時にそれが大人になるということなのだろうとも思った。

魔法使いは御伽噺から抜け出して、現実の世界に旅立ったのだ。
そう自分に言い聞かせることで、胸の内でじくじくと痛む古傷に蓋をして生きていた。

そう、私は過去を忘れて平穏に生きていたのだ。―――この日、までは。

*****

絹を裂くような悲鳴が道路に響き渡ったのは、平日の昼下がりのことだった。ポアロの前で掃き掃除をしていた僕は、声のした方を振り返って、こちらとは反対側に走っていく男の影を視界の端に捉えた。その手には、真っ黒な服に身を包んだ男には明らかに似つかわしくない、女物のショルダーバッグが握られている。

引ったくりだ。僕は冷静にそう判断して、被害者の姿を探した。

「待って、私のバッグを返して……!」

先程悲鳴を上げた女性が、目の前の男の背中を追いかける。だが、ヒールの高いパンプスで、まして女性の足では到底男に追いつけそうもなかった。僕はすぐさまダッシュをして、ぐんぐんと引ったくり犯との距離を詰めた。走る男の足元に、手に持ったままだった箒を投げる。足と足の間に箒が絡まり、男は音を立てて無様に地面に倒れ伏した。

「ぐわっ!」

一瞬で最後の距離を詰めると、その背中に素早く乗り上げる。肩甲骨を膝で圧迫しながら、僕は男の腕を捻り上げた。

「女性のバッグを強引に奪うなんて、マナーがなっていませんね。そんなんじゃ、女性にモテませんよ」
「があああっ!」

ぎりぎりと関節技を決めながら、僕は笑顔でそう窘めた。男は指1本ぴくりとも動かすことが出来ないまま、苦悶の声を上げる。ここで漸く、バッグを奪われた女性が僕らの元に駆け寄ってきた。

「あ、あの」
「ああ、危ない所でしたね。もう大丈夫、あなたのバッグは無事ですよ」
「ありがとうございます!本当に助かりまし、た……?」
「はい、どうぞ。少し汚れてしまいましたね」

男が転んだ時に地面に放り出されていたショルダーバッグを、僕は拾って女性に差し出した。しかし、相手の女性はバッグに手を伸ばそうとせず、僕の顔を見て小さく息を呑んだ。

「?」

不思議に思って彼女の顔を見返して、―――僕も一拍のちに盛大に固まった。たった今助けたばかりの相手が、単なる通りすがりの女性などではなかったからだ。
そこに立っていたのは、高校時代の同級生で、卒業式に盛大なフェイントをかましてくれた彼女―――のぞみだったのだ。

彼女の唇が小さく開く。そこから飛び出してくる言葉が簡単に予測できて、僕は咄嗟に彼女の口を掌で覆った。

「ありがとうございました、私はこれで―――んっ」
「あっ、そこ、擦りむいて血が出てますよ。さっきこの男にバッグを奪われた時に転んじゃったんですね」
「んむ、むむーっ」
「そうですか、痛むなら手当をした方がいいですね。僕の勤務している喫茶店がすぐそこなので、この男を引き渡したらご案内しますよ」
「…………」
「ね?」

彼女はここで僕が発する“逃がさないぞ”オーラに気付いたらしい。観念したように眉間から力を抜くと、自分の口を覆う僕の手をとんとんとつついた。その手首をがっちりとキープして、僕は彼女の顔から手を離した。

「ぷはっ、……解りました、お言葉に甘えます」
「ええ、是非そうしてください。それじゃ、さっさと通報して、この男を引き渡してしまいましょう」
「はい。えっと、110番通報っと……」

彼女が通報してから5分後、所轄の刑事課の警察官が駆けつけた。取り押さえられていた男は、ここにきて反抗する気もなかったのか、大人しく連行されていった。



それから僕は彼女を連れてポアロの店内に戻った。幸い客は誰一人としておらず、梓さんも今のうちに買い出しに行ってくると言って外していたので、僕は誰に憚ることなく彼女をテーブル席に案内し、店の奥から救急箱を持ち出した。

「……あの、本当に手当てとかいいんで、帰らせてもらっても」
「駄目に決まっています。早く手当てしないと、傷跡が残ってしまうかも知れませんよ」

もう若くないんだから、と言って僕は完璧な営業スマイルを彼女に向けた。彼女は僕の視線を避けるように顔を背けて、気まずそうに頬を掻いた。

「……あの、つかぬ事を訊きますが、あなたは私の思う通りの人で間違いないんですよね?」
「そうですね。あなたが僕を見て逃げ出そうとした理由を知っているくらいですから、あなたの予想通りの人間だと思いますよ」
「……やっぱり降谷かぁ。何その似合わない丁寧語……」

まさかこんな所で会うなんて、と彼女は頭を抱えて項垂れた。僕はここで安室透の仮面を捨てて、憮然とした態度で彼女の足許に跪くように腰を下ろした。パンプスを脱がせて僕の太腿に乗せ、擦りむいた膝と打ち付けて痣になっている脹脛の手当てを始める。

「久しぶりだな、のぞみ。卒業式以来だったか?」
「そうだね、もう11年ぶり?くらい?」
「もうそんなになるのか。お互い歳を取る訳だな」
「降谷は全然変わってないけどね。不老不死の術でも使ったんじゃないの」
「そういうお前こそ。あの頃とあんまり変わってないな」

髪を伸ばして化粧をしている分、いくらか大人っぽく見えるものの、彼女の本質はあの頃から何も変わっていないように見えた。だから顔を見た瞬間に、高校時代の彼女との思い出が走馬灯のように蘇ってきたのだ。
そして同時に、卒業式に味わわされた苦い思い出も、脳裏にフラッシュバックした。

怪我の処置を終えて、彼女の足にヒールの高いパンプスを履かせてやると、彼女は喉の奥で小さく笑った。

「懐かしいなあ、こういうの。2年の時に文化祭で、シンデレラの劇をやったの覚えてる?降谷は王子さまだったよね」
「ああ、やったやった。高校生にもなってシンデレラは子供っぽすぎるんじゃないかと、最初は批難轟轟だったな」
「それがまさか、あんなギャグベースな台本になるなんてね。観客みんな、抱腹絶倒の大爆笑だったよ」
「あの時、のぞみは何の役をやっていたんだ?」
「シンデレラに魔法をかける、魔法使い役だったよ。ビビデバビデブー」

彼女はどこか投げやりな口調で、世界で最もポピュラーな“シンデレラ”に登場する魔法使いの歌を口ずさんだ。けれどその横顔は、どこか苦しそうに歪んでいた。

シンデレラの願いを叶えて、王子の待つお城へ送り出す魔法使い。それがあの卒業式の時と全く同じ状況であったことに、今更のように気が付いた。
そして全く同じタイミングで、のぞみはでもね、と呟いた。

「私も本当は、シンデレラになりたかった」
「―――、」
「たかが文化祭の出し物の、ギャグみたいな劇であっても。……私も本当は、あなたのシンデレラになりたかったの」

プリンセスの恋をお膳立てする魔法使いではなくて。本当は自分こそが、王子と結ばれるプリンセスになりたかった。彼女はそう続けて力なく笑った。

「……のぞみ」
「なんて、ね。ごめん、あんまりにも懐かしくて変なこと言っちゃった」

彼女は強引に話を畳んで、すぐにも帰ろうと荷物をまとめ始めた。僕はしゃがんだままだった腰を上げて、逃がすまいと彼女の手を掴んだ。

「のぞみ。今の話は、本当か?」
「……本当だよ。本当だったけど、でも、もう今更じゃない」

あなたもそう思ったから、卒業した後全然連絡をくれなくなったんでしょう、と彼女は自嘲するように言った。僕はそんな彼女の頬に手を添えて、無理矢理自分の方に顔を向けさせた。

「今更なんかじゃない。僕だってあの時、本当は同じことを思ってたんだ」
「え?」

ここでようやく彼女はまともにこちらを見てくれた。この言葉が嘘ではないのだと伝わるように、僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめながら言った。

「僕だって、シンデレラがお前だったらって。あの卒業式の日、屋上に来たのがお前だったよかったのにって、ずっと思ってきたんだ」
「…………」
「お前は全然気付かなかったかも知れないが、僕はあの頃、ずっとお前のことが好きだった」

11年越しの僕の告白を聴いて、彼女は頬を紅潮させて息を呑んだ。あの日伝えることが出来なかった言葉を、僕は噛み締めるようにもう一度告げた。

「お前が好きだ、のぞみ。11年もほったらかしにされた僕の気持ちに、お前も応えてくれないか」

僕は彼女の手首を握る指先に力を籠めた。何度も忘れようと足掻いても捨てきることの出来なかった想いが、この掌から伝わればいいと思った。
彼女は僕が自分を逃がすつもりがないことを察して、恐る恐る口を開いた。

「……いいの?」

魔法使いが、王子さまと結ばれたいと願っても。
と、彼女は自信がなさそうに言った。
僕はその言葉に大きく首肯して、彼女の瞳から今にも零れ落ちそうな涙をそっと拭った。

「ああ。僕が探していた運命の相手は、お前しかいない」

だからどうか、もう一度。

「僕ともう一度、恋を始めてみませんか」

そう言って彼女の手の甲にキスを贈ると、彼女はとうとうその目尻から一粒の涙を零した。

これまでずっと、シンデレラの背中を見送ることしか出来なかった魔法使いは、僕の渾身の告白を聴いて、ハッピーエンドを迎えたお姫さまよりも幸せそうにはにかんだ。


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