Dear. 匿名様・清歌様

その声が聴こえてきたのは、ほんの偶然だったのだろう。

「藤原。俺さ、お前のこと好きなんだ」

3コマ目の授業が終わり、昼休みに入ったばかりの音楽室で、僕は扉に手を掛けたポーズのまま固まっていた。腕に抱えた古文の教科書や古語辞典が、急にずしりと重くなったように感じられる。

景光と一緒に昼食を摂ろうと思って声を掛けにきたつもりだったのに、まさかこんな現場に出くわしてしまうなんて。

「……えっ?好きって、その」
「友達としてじゃない。女として好きなんだ。本当は、同じクラスになった時からずっと気になってた」

音楽室の中で会話を続ける2人は、廊下で僕がその会話を盗み聞きしているなんてこれっぽっちも気付いていない。僅かに開いた隙間から、会話を続ける2人の顔を確認するが、それは声を聴いて予想していた通り、僕の受け持つクラスの生徒達に他ならなかった。
告白されている方の生徒―――藤原みずほは、大きな目をまん丸く見開いて、じわじわとその頬を赤く染めた。

「あああの、高島君の気持ちは嬉しいんだけど、私」
「知ってるよ。好きな男が居るんだろ」
「……っ、う、ん」

素直に頷いたみずほの態度に、僕はほっと胸を撫で下ろした。彼女の好きな男が僕だと明言された訳ではないが、このままずるずると流されて相手の生徒と付き合うことにはならないだろうと安堵したのである。
しかし、僕の予想に反して高島は引かなかった。

「でも俺、そんな理由で諦めるつもりねえから」
「へ!?」
「だって俺、お前が誰の事好きなのか知ってるし」
「な、何で!?どうして!?」
「何でって、お前の好意ってめちゃくちゃ解りやすいじゃん」

高島は不貞腐れたように言ったが、みずほは真っ赤になって頭を抱えた。そんなに解りやすいかなぁ、と彼女が弱ったように呟く声が聴こえたが、(僕が言うのもアレだが)彼女の好意は非常に解りやすい。嘘を吐けない性格の彼女は、好きなものは隠そうともせず好きだと言うし、苦手なものは率直に苦手だという顔をする。
そんな彼女をこれまでずっと見てきたのだと、高島は力説した。

「お前が安室先生のこと好きなのは知ってる。でも、生徒と教師でうまくいく訳なんかない」
「それは……」
「安室先生は分別のある大人だし、生徒に手を出すような男でもない。だったら、少なくともお前が卒業するまでは、藤原の気持ちが成就することはないってことだろ」
「…………」

みずほはここでぐっと唇を噛んで黙り込んだ。扉に添えていた僕の手にも、自然と力が入る。

(嫌な所を突いてくるな……)

彼の指摘はもっとも効果的に僕の心に刺さった。確かに、教師と生徒という関係である以上、僕の方からおおっぴらにアプローチを仕掛ける訳にはいかない。もしも、僕が1人の生徒に特別な思い入れを持っていて、それが少なからず邪な感情を含んでいることが知られたら、僕も彼女もこの学校には居られなくなるだろう。

「叶わない気持ちをずっと持ち続けるのはきついだろ。藤原だって高校生なんだし、彼氏とか作って遊びたいって思うだろ」
「私は別に、何が何でも彼氏が欲しいとか、男の人と遊びたいなんて思ってない」
「じゃあ卒業するまでずっと、振り向いてくれない相手に片思いをし続けるつもりなのか?」

反論しようとしたみずほの口を封じるように、相手は一歩前に出た。それを見て、みずほはたじろいだように一歩下がった。

「あ、あの」
「俺だったら、お前にそんな寂しい思いはさせない。だから俺と、」
「待って、ちょっと待って、ストップ!」

みずほの視線は高島へと注がれてはいなかった。彼女の視線は相手の顔を素通りし、その背後の音楽準備室の入り口に向けられていた。
その視線を辿って、僕も初めて気が付いた。準備室の扉に背を預け、彼女達を静かに睥睨する人影があることに。

「はい、そこまで。盛り上がるのはいいけど、ここ音楽室だからな?」

そこに気配を殺して立っていたのは、呆れたように肩を竦めた景光だった。

「……景光先生。聴いてたんですか」
「ああ、最初から最後までな。授業が終わって、俺が職員室に引っ込んだと思って安心していたんだろうが、生憎まだ隣の準備室に居たんだよ」

景光は背中を壁から離し、みずほを庇うように高島の前に立った。高島は恥ずかしがる様子もなく、顎を引いて景光の顔を鋭く見据える。

「お前が藤原のことを心配する気持ちは解るが、それを藤原に押し付けたらただのありがた迷惑だろ?自分の想いを相手に伝えることと、押し付けることは違うだろう」
「景光先生は安室先生の親友だから、藤原が安室先生に傷付けられたって平気なんでしょう。でも、俺は叶わない恋をし続けて、傷付く藤原を見たくない」
「最初から失恋前提か。それは藤原に失礼なんじゃないか?」
「じゃあ景光先生は、万に一つの可能性を信じて、藤原にずっと無謀な片想いをし続けろって言うんですか?」

万に一つ、どころか僕が愛しているのは今も昔も藤原みずほただ1人なのだが、当然それは高島にはあずかり知らないことである。彼には彼なりの正義感があり、彼なりのみずほを想う強い気持ちがあってのこの強硬な態度なのだ。景光はそれをうまく言い包めようとしたのだろうが、僕と親しい人間に窘められてもそれは逆効果にしかならなかったようだった。

場の空気が硬直しかけたその時、景光の登場以来口を噤んでいたみずほが口を開いた。

「―――傷付いたりしないよ」

静かな、けれど強い意志を感じさせる声が、2人の男の動きを止めた。
廊下に佇む僕もまた、彼女の言葉に息を呑んで固まっていた。

「藤原……」
「私は傷付いたりしないよ。例え一生振り向いてもらえなかったとしても、私は」

私は安室先生を好きになったことを、絶対に後悔なんかしない。

「安室先生と私じゃ、釣り合わないことは解ってる。奇跡が起こって先生が私のことを見てくれるようになったとしても、在学中は絶対に振り向いてもらえないってことも解ってるよ。だけど、」

彼女はここで言葉を区切り、タメを作るようにぎゅっと握った拳に力を籠めた。

「それでも私は、先生のことが好き。私が先生に近付きたいと思っても、出来る努力なんて限られてるけど、それでも」
「…………」
「そうやって好きな人のために努力をする自分のことが、私はすっごく好きなの」

だからそんな私を見て可哀相だと思うのなら、それは違うと彼女はきっぱりと言った。

「高島君の気持ちはありがたいけど、私はやっぱり、好きになった人としか付き合えない。だから、さっきの話はお断りさせてください」

ごめんなさい、と言ってみずほは深く頭を下げた。耳に掛けていた髪が、重力に従ってさらさらと頬に打ちかかる。

「…………」

高島はまだ言葉を探していたようだったが、自分が何を言ってもみずほの決意を覆せることはないと悟ったらしい。苦しげに眉根を寄せると、ごくごく小さな声で解った、と呟いた。

「……悪かった。昼休みに、長々と付き合わせて」
「ううん、こっちこそ」
「謝るな。お前は何も悪いことしてないんだから」

初めは教師と生徒なのに恋愛感情を持つなんて、と言っていた彼も、みずほの本音を聴いて認識を改めてくれたようだった。

「そんじゃ、俺はもう行くわ。景光先生も、すみませんでした」
「いや、気にしないでくれ。俺も盗み聞きなんてしてて悪かった」

最後に景光に頭を下げると、高島は音楽の教科書を持って僕が立っている方とは反対側の出口に近付いた。勢いよく扉を開け、僕に気付かないまま教室に向かって駆けていく。
その背中を見送って、僕は詰めていた息を飲み込んだ。不器用な少年の恋心が自分のせいで玉砕したところを目の当たりにして、自然と背筋が伸びる思いだった。
そして今度こそ、僕は躊躇うことなく音楽室の扉に手を掛け、教室の中に居る人物の名前を呼んだ。

「藤原さん」
「……へっ?あ、あ、安室先生!?」

僕の声に過剰な反応を見せたのはみずほだけで、景光は驚いた様子もなく微笑んで片手を上げた。

「ゼロ、遅かったな。美味しい役は俺が貰ってしまったぞ」
「助かったよ、ヒロ。僕がのこのこと出て行くより、お前が説得してくれた方があいつも聞き入れやすかっただろうしな」
「え?え?ど、どういうことですか?」

みずほは混乱しきった様子で、僕と景光の顔を見比べている。その顔があまりにも間抜けで可愛らしくて、僕は思わず声を上げて笑ってしまった。

「すみません、藤原さん。実は、高島君との会話を聴いていたのは景光だけじゃないんです」
「え?ってことはまさか、安室先生も……」
「はい、ばっちり聴いてました。最初から最後まで」

にっこり、と完璧な笑顔を向けてやれば、みずほは条件反射のようにぽっと頬を染めた。しかし次の瞬間には、自分が何を口走っていたのかを思い出したのか、その顔から一瞬で血の気が引いた。

「わ―――私、あの、」
「あ。俺、諸伏先生に一緒に昼食でもどうだって誘われてるんだった。先に食堂に行ってるな、ゼロ」

慌てふためくみずほに被せるように、景光は白々しいことを言い始めた。世界史の諸伏高明先生は、諸事情があって生徒達には伏せているが、実はこの幼馴染の兄にあたる男である。

「ああ。諸伏先生によろしくな、ヒロ」
「ひ、景光先生、行っちゃうんですか!?」
「ああ、ごめんな。それじゃあ藤原、後は頑張れ」

軽く手を振って、景光は本当に音楽室を出て行ってしまった。畢竟、この場には僕とみずほの2人だけが残された形となる。

「あ、あの、安室先生。あの、さっき私が言ったことは」
「藤原」
「あんまり本気にしないで―――って、わわっ」

みずほは往生際悪く言い訳をしようとしていたが、僕はこれっぽっちも聴いていなかった。彼女の細い手首を掴んで、小柄な体を抱き寄せる。僕の腕ですっぽりと覆ってしまえるほどの小さな体は、だけど確かな温もりを僕に伝えてくれていた。

彼女はさっき、僕に近付けるよう努力をする自分のことが好きだと言った。そんな明け透けな好意を向けてくれる彼女のことを、僕も好ましいと思ってきた。

だが、そのひたむきな想いに僕がずっと甘えてきたのだということを、彼女はきっと気付いていない。

「せんせい、苦し、」
「藤原」
「……は、い」

意図的に低くした声で彼女の名前を呼ぶと、みずほはびくりと肩を震わせた。

「すまない。何も言わずに、もう少しこのままで」

そう言って彼女の小さな頭を撫でると、彼女はがちがちに緊張しながらも、恐る恐る僕の背中に腕を回してきた。

どくん、と心臓が鳴った。これまで僕の方から戯れのように彼女に触れることはあったとしても、彼女から明確な反応を貰えたことはなかったからだ。何も言うなと僕が言ったから、彼女はその命令通り、何も言わずにじっと僕の抱擁を受け入れていた。
だが、遠慮がちに僕のスーツを抓む手は、言葉よりもよほど雄弁に彼女の気持ちを僕に伝えてくれていた。

―――ああ。
今はまだ、溢れ出そうなこの気持ちを、君に伝えることは出来ないけれど。
いつか必ず、前世から積み重ねてきたありったけの愛情を、彼女にぶつけてやりたいと思った。そうして今度こそ、その掌に沢山の幸せを載せてやりたかった。

誰も来ない音楽室で、僕達が抱き締めあっていたのはほんの3分程度のことだった。それでも今の僕達には、その3分が永遠にも思えるほど、幸せで濃密な時間だった。


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