Dear. 匿名様

……どうしてこうなった。
どうしてこうなった!!!

夏でもないのに噴き出た汗が、つうっと背中を伝った。極度の緊張に見舞われて、呼吸が浅く細くなっていく。

(いやいや落ち着け、こういう時こそ冷静に、カームダウンカームダウン)

私は今にもパンクしそうな思考回路を落ち着かせようと、深呼吸を繰り返した。薄い胸を手で押さえつけ、瞼を下ろして鼻で息を吸う。
吸って、吐いて、またまた吸って。ゆっくりと口から息を吐き出せば、ばくばくと高鳴っていた心臓は少しだけ落ち着きを取り戻した。

けれど、そんな私の努力を嘲笑うかのようなタイミングで、すぐ傍の暗闇の中から声がした。

「それにしても、困りましたね。誰かが気付いてくれるのを待つしかないかな……」

うぎゃあ。
思わずそう叫びそうになった口を、慌てて閉じる。折角大人しくなりつつあった心臓は、またしてもばっくんばっくんと激しいポンプ運動を開始した。その症状はどこからどう見ても、完全に不整脈のそれである。

私の不整脈の原因である人物―――安室先生は、こちらの動揺に気付いていないのか、のんびりとした口調で腕をさすった。

「まだこの季節だからいいようなものの、もう少し寒い時期なら凍えてましたね。……藤原さん?」
「ひゃ、ひゃい!」
「大丈夫ですか?随分脈拍が速いようですが」
「だっ、だいじょうぶ、でしゅ!」
「でしゅ?」
「です!!」

思いっきり噛んだ。そしてそれをマジトーンで突っ込まれた。恥ずかしすぎて、穴があったら埋まりたい気分である。どうせ真っ暗闇なんだから、私がどんな顔をしていようが先生には見えていないだろうけれど、それでも私にだって人並みの羞恥心というものがあった。

「……もう、先生!いくら暗くたって、こっそり笑ってるのバレバレですからね!」
「あははは、す、すみません。だってそんな典型的な噛み方する人、初めて見たので……。こんなことでこんなに笑ったのは久しぶりですよ」
「それはどうも!今夜はお赤飯ですね!」

恥ずかしさからそう悪態をついて、私は抱えた膝に顔を埋めた。そうして改めて、どうしてこんなことになったのか、ここまでの経緯についてじっくりと思い返してみることにした。

1、今日は私達の通う高校の文化祭でした。
2、私達のクラスは体育館で開催されていたバザー会場の片付けを任されていました。
3、日直だった私と安室先生で、片付けの最終チェックをしていました。
4、最後に残っていた垂れ幕を倉庫に片付けていたら、生徒会の人達がやってきて倉庫を閉めていきました。
5、暗闇の閉鎖空間に、安室先生と2人で取り残されました。

……うん。我ながら、怒涛の展開すぎて付いていけない。特に4番。倉庫の1番奥に居たとは言え、外から鍵を掛けられるまで生徒会の人達に気付かなかった私達も私達だけど、生徒会の人達も一言声を掛けてくれたってよかったんじゃないだろうか。
なんて、恨み言を言ってみても事態が解決するわけではない。とにかく今は、どうにかしてここから脱出する方法を考えないと。

私のスマホは教室のサブバッグの中に入れたままで、安室先生のスマホは職員室に置きっぱなしとのことだった。つまり外部との連絡手段は皆無である。さすがに、いつまでも私と安室先生が教室に戻らなければ、誰かが事態に気付いて探しに来てくれるかも知れないけれど、見付けてもらえるのがいつになるかは解らなかった。

(このまま、夜になるまで気付いてもらえなかったらどうしよう……。今日は確か、運動部も部活動は休みだって聴いてるし、下手したら明日までこのまま閉じ込められてる、なんてことも……)

自分の想像に寒気が走り、私は膝を抱えた両腕に力を籠めた。ただでさえ広いとは言えない倉庫内の空間が、さらに圧迫感を増した気がした。
ばくばくと心臓がうるさい。地べたに腰を下ろしているはずなのに、地面が揺れているような感覚がする。こんなに気分が落ち着かないのは、決して安室先生と2人っきりという状況に緊張しているから、という理由だけではなかった。

私の様子がおかしいことに気付いたのか、安室先生がこちらに身を寄せたのが気配で解った。先生の体温が近い。衣擦れの音が、すぐ耳元で聞こえる。

「藤原さん」

そして、先生の温かくて大きな手が、縮こまる私の肩に回された。その腕に逆らうことなく身を委ねれば、私の上半身は先生の胸元に引き寄せられていた。

「藤原さん、大丈夫ですよ」
「……安室先生」
「暗闇の中でも、僕が君の傍に居ます。だから、そんなに怯えなくても大丈夫です」
「…………」

先生の口振りは、まるで私が暗闇に怯えていることをとっくの昔に知っていたかのようだった。私は所謂閉所・暗所恐怖症というやつで、子供の頃に祖母の家の蔵でかくれんぼをしていた時に誤って閉じ込められたことが原因で、暗い場所に1人でいると恐怖を感じることがままあった。けれど、そんな取るに足らない情報を安室先生に話した記憶はない。

私が暗い所が苦手だってことをどうして知ってるんですか、と弱弱しく尋ねると、先生はさあ、どうしてでしょうねと言ってはぐらかした。そして私が抵抗しないことを確認すると、空いた左手で私の頭をぐっと自分の胸元に押し付けた。それは決して弱くはない、けれどこちらに苦しい思いをさせないようにと配慮された力加減だった。

「藤原」
「……はい」
「怖いなら怖いと言ってくれ。1人でじっと我慢される方が、見ているこちらとしては辛いんだ」
「…………」
「こんなに近くにいるのに、いくらでもお前を助けてやれる距離にいるのに、またお前が1人で恐怖と戦っている姿を見守ることしか出来ないなんて―――そんな思いは、二度とごめんだ」

至近距離で聴こえた先生の声は、微かに掠れていた。私には先生の言葉の意味が半分も解らなかったけれど、それでもその言葉が紛れもなく私に向けられたものなのだということは理解できた。

だったら、その言葉に甘えてみるのも悪くないかも知れないと思った。

「あむろせんせい」
「……はい」
「先生、……何かお話しして」

私はそう言って腕を広げると、先生のジャケットの裾をきゅっと握った。私の唐突な願い事を聴いて、それまで重々しい空気を発していた先生の肩から力が抜けた。

「……お話し、ですか?」
「はい。どうしてか解らないけど、先生の声を聴いていたら、少し気分が落ち着いたような気がするんです」

自分でも不思議だった。最初は先生の声が近くから聴こえてきただけで飛び上がるほど、ガッチガチに緊張していたというのに。今ではこうして抱き締められて、耳元で囁かれると、却って心が凪いでいくような心地になれる。
思いがけない私の発言に呆気に取られていた先生は、やがて肩を震わせて笑い始めた。

「ふ……っ、まさか、そんなに可愛いおねだりをされるとは思ってもみませんでしたよ」
「わ、笑わないでください。自分でもちょっと、子供っぽすぎたかなって思ってるところなんです」

ご迷惑だったら別にいいです、と私が撤回しようとすると、先生は迷惑なんてとんでもない、と言って吐息だけで笑った。

「そうですね。それじゃ、助けがくるまで古文の話でもしましょうか」
「古文の話、ですか?」
「はい。今年のセンター試験の問題が興味深い内容だったんですけどね」
「ああ、それは聴いたことがあります。確か、キツネがお姫様に片想いをする話でしたっけ」
「ええ、そうです。かなり話題になっていたので、僕も全文を読んでみたんですよ」
「へぇー……」

それから私と安室先生は、暗闇に怯えていたことも忘れてしまったかのようにセンター試験の話題で盛り上がっていた。結局それから30分後、私達が戻らないことを心配した和葉達によって無事に救出されることになるのだけれど、その30分という長くも短くもない間、私達はずっと互いに寄り添い合っていた。

「みずほ、ホンマに災難やったなあ。片付け終わったと思ったら、あんなとこに閉じ込められて」
「うん?……うん、そうだね」
「?どないしたん?」

災難だったという言葉にすぐに頷かなかった私の態度に、和葉は小さく首を傾げた。私はへら、と笑って頬を掻くと、悪いことばっかりじゃなかったよ、と答えて足取り軽く教室へ向かった。

暗闇が怖いばかりではないと知ったのは、この時が初めてのことだった。


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