Dear. 匿名様

「…………っ」
「…………」
「……やっぱり無理です!自分には荷が勝ちすぎます!」
「……はあ。まったく、お前は警専講習で何を学んできたんだ?」

僕は目の前で顔を隠して身悶える部下を見下ろして、大きくため息を吐いた。

ここは警察庁合同庁舎の13階にある、ゼロの指揮官である裏の理事官の執務室、通称“校長室”である。ゼロを束ねる裏の理事官は“校長”と呼ばれ、その下には警部階級の秘書役の“先生”が就いている。今日は校長は官房長官と会談があるとのことで外しており、先生もまた、こちらに校長からの指示を与えるだけ与えて部屋を去って行ってしまったため、今この部屋には僕と部下の2人しか居なかった。

その指示というのが、明日の午後3時、僕と彼女で恋人を装って監視対象の出入りするホテルへ行き、その動向を探るというものだった。だからその手始めに、肩を抱き寄せて歩く練習をしようとしたのだが、3秒もしないうちに彼女の方が音を上げてしまったのだ。

(装うも何も、僕とのぞみは本当の恋人同士なんだがな)

僕より2つ年下の彼女は、2年前に警視庁の公安部からゼロに異動してきた。女性の警察官は全体の6パーセントとかなり少なく、公安警察ともなるとその比率は更に下がる。その中でゼロになるための警備専科教養講習・特別講習をクリアし、この部署に配属となったのだから、彼女はエリートの揃う公安部の中でも本当のエリートということになる。

だが、僕と仕事上で恋人を演じるようにと言われて恥ずかしさに膝を抱える彼女の様子は、とてもではないがエリート中のエリートだとは思えなかった。むしろその辺の女子大生と言われた方がしっくりくる。任務中は感情を一切表に出さず、淡々と仕事をこなす姿は本当に頼りになるのだが、こと恋愛が絡むと彼女は途端に不器用な素顔を覗かせた。

「講習と実戦じゃ違います。それに、降谷さんの恋人役なんて恐れ多すぎて……!」
「恐れ多いって、お前な。僕と恋人というのは役の上だけじゃないだろう」
「だって、未だに実感がないんです。あの降谷さんが、私の……こ、恋人だなんて」

生娘のように頬を染めて俯くのぞみに、僕はやれやれと頭を抱えた。

僕と彼女が交際を始めたのは3ヵ月前のことである。告白は僕からだった。本当は、こんな職業に就いているのだから、お互いに憎からず想っていたとしても、恋人なんて作らない方がいいだろうと思っていた。
しかし、とある事件の最中に彼女の命が危機に瀕し、無事に生還できた時、僕は我を忘れて彼女に正直な気持ちをぶつけていた。そうしたら、彼女は仕事中の落ち着きぶりはどこへやら、耳まで真っ赤にしておろおろと視線を泳がせた。そして僕が嘘を言っているんじゃないと悟ると、瞳を潤ませながら小さく頷き、僕の想いに応えてくれた。

しかし、それから3ヵ月経っても、僕達の付き合いは健全なままだった。それは単に彼女の性癖―――パーソナルスペースが異様に広いことに起因する。
机を挟んで食事をすることは出来る。カウンターの隣の席に腰かけることも可。しかし、それ以上は駄目だった。手を繋ぐ、ハグをする、そして親愛を籠めてキスをする。キス以上のことをする―――いい年をした恋人同士であれば、誰もが踏むであろうステップを、彼女は全くといっていいほど踏ませてくれなかった。何でも、大学時代の元彼と一悶着あったらしく、それ以来彼女は過剰なまでの防犯マニアになってしまったのだそうで、警察に入ろうと思ったのもそれが理由の1つだったらしい。

(公安としては、過剰なまでの防犯マニアというのはむしろ美点なんだが……)

恋人としては寂しいことこの上ない。お蔭で僕は彼女の家に上がったことさえなくて、任務でラブホテルの1室を借りて何日も泊まらなければならなかった時は、大きなベッドの上に厳重なバリケードを築かれていた。ここまでくるといっそ笑えてくる。

だが、うだうだと悩んでいる時間はあまりなかった。

「いいか、これも訓練だと思え。班長からの指示じゃなくて、校長がわざわざ僕達を指名してきたということは、警備局長直々の通達である可能性だってあるんだぞ。お前個人の感情に引っ張られて失敗することは許されないんだ」
「うっ……」
「今回の件、動いているのは僕達ゼロだけじゃない。国テロや捜一、捜二だって人員を割いている。総務課に居たお前なら、この意味が解るはずだ」

彼女が元々所属していた警視庁公安部の総務課は、公安事件の捜査を進めるためのコーディネートする役割を果たす部署だ。右翼が関わっているなら公安第三課、ロシアンマフィアが関わっているなら外事第一課、殺人事件が絡むなら刑事部捜査一課など、関連する部署から捜査人員を確保し、事件の全容を統括するのが仕事である。そこでエースとして見込まれていた彼女が、国際テロリズム対策課や警視庁の捜査一課、捜査二課も出張っている今回の事件の大きさを理解できないとは言わせない。

「いいか、“個”を捨てろ。お前は国家のために尽くす駒だ。警専講習で習ったことを思い出せ」
「うぐ……、はい。解りました」

僕が厳しい声で叱責すると、彼女は唇を引き結んで頷いた。床から腰を上げ、皺の寄ったスーツをはたく。

「これは訓練、訓練。……よし、もう大丈夫です。心の準備は出来ました」
「そうか。それじゃ、もっとこっちに寄れ」

自然と腕を伸ばし、彼女の肩を抱き寄せる。エスコートするように歩きはじめると、彼女はつんのめることもなく付いて来た。方向転換する際に腰に腕を回しても、彼女の足取りは堂々としたものだった。
おお、さすがに順応性が高いな、と感心しながら彼女の顔を見下ろすと、その顔は一切の感情をシャットアウトしているかのように、かっちかちに固まっていた。睫毛1本も揺らさないその表情は、鬼気迫るものがある。

「待て。お前、そんな顔して恋人とホテルに行くのか?」
「仕事以外で男性とホテルに行ったことがないので、いつもこの顔でした」
「こんなに殺気を放つ客を招き入れなきゃいけなかったフロントに同情するよ。顔はサングラスで隠すしかないか……?」

花粉症ということにすれば、マスクを付けていても怪しまれないかも知れない。どうせ監視対象を見張るのは、ホテルのロビーまでである。
僕が顎に手を当てて思案していると、彼女は申し訳なさそうに僕の手をつついた。

「あの、降谷さん。そろそろ限界です」
「は?まだこうしてから3分も経っていないぞ」
「そろそろ平常心を保てません。このまま抱き締められていると、うっかり降谷さんのことを投げそうです」
「お前に投げられるほど、僕も柔な鍛え方はしていない」

呆れたように答えつつ、僕は一旦彼女の肩から手をどけた。彼女は即座に僕から距離を取り、校長室のドアに額を付けて深呼吸を繰り返した。
先が思いやられるな、と思ったが、同時にこれはチャンスかも知れないとも思った。訓練と称して彼女に触れる機会を増やし、少しずつ距離を縮めて行こうと考えたのである。これから先、今回のようにカップル役で見張りにつけと言われる機会は少なからずあるだろうし、彼女も演技の幅が広がった方が、今後のためにもなるだろう。

「のぞみ」
「……はい、降谷さん」
「今日、書類仕事が終わったら僕のデスクに来い。明日までに、そのしゃちほこばった歩き方を矯正して、恋人らしく隣を歩けるように訓練するぞ」
「……それは」

命令ですか、と彼女は目を逸らしながら尋ねた。僕は扉の前に立つ彼女に近付き、その顎を掴んで強制的に目線を合わせると、ぐっと顔を近付けた。ひっ、と情けない悲鳴が聞こえたが、笑顔でそれを黙殺する。

「上司としての命令であり、恋人としての頼みだ。……今夜は寝かせないつもりだから、覚悟しろよ」

ぺろりと上唇を舐めながらそう告げると、彼女はあ、あう、と意味を成さない声を上げた。見たこともないほど狼狽える彼女が可愛くて、もう少しこの顔を見ていたい気もしたが、そろそろ彼女の脚技が飛んできそうだったので僕は大人しく彼女を解放した。そもそもここは校長室である。

「それじゃ、僕は先にオフィスに戻っておく。1人で立てるようになったらお前も来い」

いきなり距離を詰められて、キャパオーバーになってしまった彼女を残し、僕は校長室のドアを開けた。悠々と廊下を歩きながら、真っ赤に染まった彼女の顔を思い返す。

任務に私情を挟むことなどご法度だが、訓練の段階で多少いじめてやる分には構わないだろう。今から夜が楽しみだ、とほくそ笑みながら、僕は足取り軽く自分のデスクに戻って行った。


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