Dear. 匿名様

しくじった、と悟ったのは、咄嗟に差し出した手に鋭い破片のようなものが掠めた直後だった。

「降谷さん!」
「……っ、大丈夫だ、風見。それほど深い傷じゃない」
「ですが、その腕で銃を扱うのは不可能です!ここは公三課に任せて、降谷さんは離脱してください!」

風見の指摘に、僕はもう一度自分の腕を見下ろした。皮膚を切り裂いた破片は体内には残っていないが、手首の内側を掠ったせいで出血量が多い。また、手首から肩まで広範囲にかけて傷を負ったようで、右腕を動かそうと途端に激痛が走り、僕は顔を顰めて唇を噛んだ。

「解った。風見、僕が抜けた後はお前がここの指揮を取れ。三課の山口係長と組対部の辰巳警部には僕から連絡を入れておく」
「はっ、解りました。すぐに病院に向かってくださいね!」
「ああ。お前も無事で戻って来いよ」

心配性な年上の部下に苦笑を返すと、僕は爆発音の反響する廃屋の中を駆け抜けた。半年かけて追い詰めてきた相手が逮捕される瞬間を、この目で見られないことだけが、ほんの少し心残りだった。



捜査本部に戻って応急処置を受け、“校長”に報告を上げると、僕はその足で米花薬師野病院へ向かった。部下からは近場の杯戸中央病院の外科に、と進言されていたものの、どうせなら恋人の顔を見たいと思ってわざわざ米花町までやってきたのである。
ここ、米花薬師野病院には、僕も2ヵ月ほど入院していた時期がある。だから全く行った事のない病院に行くよりも、こちらで受診した方が手続きが楽だという側面もあった。

しかし、病院に到着してから気が付いた。僕の恋人はICUに勤務している。という事は、今日外科外来を受診しても恋人に診てもらえる訳ではないということを。

(僕としたことが、抜かったな……。久しぶりにこんな怪我をして、少しぼけっとしていたんだろうか)

頭を抱えながら、ひとまず外科の外来受付を済ませる。平日の午前中だからか、外来で順番待ちをしている人影は比較的少なかった。
待合室のソファに腰を落ち着け、小さくため息を吐く。何とはなしに周囲を見渡すと、遠くから「あ!」と甲高い声が聴こえてきた。

「あなた、安室さんじゃないですかぁ?」
「え?」
「やっぱりそうだ。私の事、覚えてます?」

間延びしたような声が聴こえてきた方を振り返ると、そこには1人の年若い看護師が立っていた。覚えてます?と問われて記憶を手繰り寄せると、何となく見覚えがあるような気がして僕は目を眇めた。

「ええと、確か以前入院した時に、お世話になった―――ような」
「あはは、いいですよぉ無理して思い出そうとしなくても。私、以前は外科の入院病棟で勤務していたんです」

そう言われて思い出した。彼女は確かに、僕が以前、組織が壊滅した時に起きた大爆発に巻き込まれてこの病院に入院していた時に、僕と風見の居室を担当していた看護師である。

「ああ、思い出しました。その節は大変お世話になりました」
「いいえー、それが仕事ですから。ところで、今日はどうなさったんですかぁ?」
「実は、今日もちょっと怪我をしてしまいまして……」

僕が包帯を巻いた手首を見せてへらりと笑うと、彼女はええっと大袈裟に驚いた声を上げた。

「大変じゃないですか!うわ、滅茶苦茶痛そう。つばさ先生、安室さんがこんな怪我したこと知ってるんですか?」
「いいえ、彼女にはまだ伝えていません。勤務中に不要な連絡を入れたら迷惑かと思って」
「迷惑なんてことありませんよぉ。先生、本当は今日お休みだったんですけど、当直明けでまだ残ってたんで、よかったらお呼びしましょうか?」
「え?でも」
「勿論、先生が診療するわけじゃありませんけどね。何かと事情を知ってる人が居た方が、“安室さん”もやりやすいでしょう?」

そう言って若い看護師は器用に片目を瞑ってみせた。その言葉に、僕は自分の本当の身分や“安室透”という偽名を使っている事情を、この看護師には知られているのだということを理解した。
僕が神妙な顔つきで黙り込んだのを見て、彼女はピッチを使って誰かに連絡を取り始めた。二言三言交わして、解りました!と元気よく通話の相手に向かって返事をする。

「つばさ先生、まだ残ってたみたいです。これからこっちに向かうって言ってましたから、このままもうしばらくお待ちくださいねー」

有無を言わせない口調で迫られれば、こちらに断る術はない。僕はぎこちなく頷くと、もう1つ大きな溜息を吐いた。



若い看護師の言葉通り、つばさはそれから5分ほどして待合室にやって来た。眠そうに目をこする様がいつもより幼く見えて、僕は彼女に気付かれないようにこっそりと笑った。

「安室さん、こんにちは」
「こんにちは、つばささん。すみません、明けでお疲れなのにわざわざ来てもらって」
「いいえ、連絡をもらって助かりました。外科の方には私からも口添えしますから、どこでどういう風に怪我をしたか正直に話してもらって大丈夫ですよ」

やはりあの看護師がつばさをここに呼んだのは、僕の身分を秘匿するためだったようだ。僕が一介の公務員としては不自然な状況で怪我をしたと供述しても疑問を持たれずに済むように、つばさから外科医に根回しをしてくれるつもりらしい。

「担当医は私の同期で、色々と融通の利く男なので、多分怪しまれることはないと思いますよ。何ならこれで黙らせます」

これ、と言ってつばさは手に持った杯を傾ける仕草をした。僕は苦笑しながら首を振った。

「いえいえ、大丈夫ですよ。つばささんが信頼する人なら、僕も安心してお任せできます。それに、」
「それに?」

僕が中途半端な所で言葉を区切ると、つばさは目顔で続きを促した。そんな彼女の耳元に顔を寄せ、周囲に聴こえないように囁く。

「例え単なる同期であっても、お前が他の男と飲みに行くことを、この僕が許可すると思ったのか?」
「っ、零、君」

僕が低い声でそう告げると、つばさはびくりと細い肩を揺らした。その体をそっと押さえつけ、僕は追い打ちを掛けるように彼女の耳に息を吹きかけた。

「同期で仲がいいのは構わない。だが、怪我をした恋人を放置しておいて、飲み会に出掛けるのは酷くないか?」
「す、ストップ、ストップ!あ、あああの、ここ、私の職場だから!家じゃないから!」

つばさは一瞬で耳まで真っ赤に染めて、僕の顔をぐいぐいと押しやった。ついさっきまで眠気のためにとろんとしていた瞼も、今はぱっちりと開かれている。

「もう、職場で変な噂立てられたらどうするんですか」
「何も変なことじゃないでしょう?これがオペ中なら、執刀医と患者が恋人関係にあったらまずいかもしれませんが、今の僕は手術が必要なほどの大怪我をした訳じゃない」
「屁理屈って言うんですよ、そういうの。明日から病院中のスタッフにどんな目を向けられるか、想像しただけで恐ろしい」

つばさは両腕で自身の体を抱き締めた。緑色のスクラブに包まれたその体は、最後に会った時よりも幾分痩せて見えた。
ここ最近、僕の仕事が大詰めを迎えていて、中々彼女に会う時間が取れなかった。だからその間、彼女がどんな食生活を送っていたのかなんて僕は当然知らない。だが、この様子を鑑みるに、まともな食生活は送っていないんだろうということは簡単に察しがついた。
今回の事件が片付いたら、また彼女の家に行って一緒に食事でも作ろう。僕がそう決心した時、診療室から男性の声で“安室透”の名前が呼ばれた。

「行きましょうか、安室さん。一体どこでそんな怪我を作ってきたのか、洗いざらい吐いてもらいますからね」

人の悪い笑みを浮かべて立ち上がる彼女に、僕は苦笑を浮かべて従った。

「そういう台詞は、僕達の十八番のはずなんですがねぇ」
「ふふ、確かに。それなら、今追っている容疑者を確保して、握っている情報を吐かせるためにも、一刻も早くその手を治さないと駄目ですよ」
「ええ、解りました。よろしくお願いします、つばさ先生」

わざとらしく先生、と付けてその名を呼ぶと、彼女は擽ったそうにはにかんだ。

思っていた形とは違ったが、こうして久しぶりに彼女と会って会話が出来たことで、全身にやる気が漲ってくるのが手に取るように解った。やはり多少の遠回りをしてでも、この病院に来てよかったと頷きながら、僕は彼女に続いて診察室の扉をくぐった。


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