Dear. 佐倉様

零君と付き合いだしてから季節が一周した頃のことである。この日、私と彼は連れ立って、映画館が併設された大型ショッピングモールに遊びに来ていた。

「つばさ、あとであのお店に寄ってもいいか?」
「いいけど、今はとにかく急がなきゃ!映画、もう始まっちゃう!」
「どうせ最初の10分は番宣だろう」
「その10分が過ぎそうだから焦ってるの!」

私は零君の手を引いて、急いでエスカレーターを駆け上がっていた。お客さんがいない時でよかった。さもなければ、きっととんでもない迷惑を掛けていたところだった。

「もー、零君が朝からしつこいから……」
「つばさこそ、もうちょっと色気を隠す努力をしろ。朝からあんな顔を見せられたら、我慢出来る訳ないだろう」
「もうちょっと悪びれるなり何なりして。そんなわざとらしい褒め言葉、ちっとも嬉しくないんだから」
「その割には、耳、赤くなってるぞ」
「―――もう黙って。よし、間に合った!」

何とか予約していたチケットを発券し、私達は真っ暗な映画館に滑りこんだ。ちょうどタイトルロールが始まった所で、タイミングとしてはギリギリだったことを悟る。

私達が選んだのは、零君が好きだと言う推理小説を実写化したものだった。じめじめした人間関係が織りなす不可解なトリックと、それを解き明かす探偵役の俳優の演技に、時間も忘れて魅入ってしまう。
そしてクライマックスが近付くと、それまでの伏線や人物像の積み重ねによって登場人物に感情移入してしまっていたのか、ぶわりと涙が盛り上がった。それを察知して、零君がそっと手を握ってくれる。映画でじんわり熱くなった心と、隣に感じる温もりとで、私の胸はいっぱいになっていた。

上映後、泣くほどではないものの十分満足したらしい零君と、ロビーでパンフレットを片手に感想を言い合っていると、遠くから「あ!」という声が2つ重なって聞こえた。

「?」

思わず顔を上げてそちらを見やると、高校生らしいカップルが私達を凝視していた。正確には、私の隣の零君を、だ。

「安室さん!」

カップルの女の子の方―――長い黒髪を靡かせた可愛らしいお嬢さんは、そう大声で零君を呼びながら駆け寄ってきた。残された彼氏の方も、両手にドリンクを抱えたままこちらに向かってくる。きっとこれから彼らも映画を見るのだろう。彼氏の手には、もぎられていない映画のチケットが挟まっていた。

安室さん、という呼び方で、私はある程度の事情を察した。きっとこの2人は、零君が“安室透”として過ごしていた時期の知り合いなのだろう。
私が隣に視線をやると、彼は少し困ったように微笑んだ。彼のこんなわざとらしい笑顔を見るのは、付き合い始めてから初めてのことだった。

「お久しぶりですね、蘭さん。元気だったかい?新一君」
「お久しぶりです!安室さん、今まで一体どこでどうしてたんですか?」

蘭と呼ばれた彼女の方は、本気で零君を心配している口ぶりだった。対して新一と呼ばれた彼氏の方は、勢い込んで零君に詰め寄る彼女を止めようとしているようだった。

「あー、蘭、あんまりそういうことには突っ込まない方が……」
「どうして?だって、新一も心配してたでしょ?安室さん、ポアロも辞めちゃってどこに行ったか解らないって!」
「そりゃそうだけどよ、安室さんにも色々事情があんだろ」

この会話だけで色々と察してしまった。確か零君は、あの爆発事件が起きる直前、ポアロという喫茶店でのバイトを辞めてしまったのだと榎本梓が言っていた。それは恐らく、これが最後の決戦になるだろうというけじめと覚悟の顕れだったのだろうけれど、そんなことをこの高校生カップルにわざわざ教えているとは思えない。
私は小さく咳払いをして、助け船を出すことにした。

「透君、知り合い?」

さらりと私が偽名を使って呼びかけると、零君は安心したように肩から力を抜いた。

「ああ、つばさにも前に話しただろう?僕が毛利先生の所に弟子入りしていた時、よくしてもらっていたんだ。毛利先生の娘さんの蘭さんと、その幼馴染で高校生探偵の、工藤新一君だよ」
「ああ、お噂はかねがね」

お噂なんて全く聞いていなかったけどね、と内心思いつつ、私はぽんと両手を叩いて納得したような素振りをした。けれどそこで再び「あ!」と声を上げたのは、高校生探偵君の方だった。

「つばさ先生!」
「ん?」
「あ、ええっと、俺、その……」

名前を呼んだはいいものの、工藤少年は次の言葉が見つからないようだった。こちらの名前を知っているということは、私ともどこかで会ったことがあるのだろうが、さっぱり記憶に残っていなかった。

そんな私としどろもどろに言葉を発する工藤君を見かねて、零君が私の耳元に唇を寄せた。そこで告げられたのは、全く思いがけない言葉だった。

「えっ……、それじゃ、彼はあの時の?」

何と目の前の工藤少年は、あの日曜日に赤井秀一という男性と一緒に面会に来て、私に衝撃的な事実を教えてくれた江戸川コナンその人だと言う。彼は零君が潜入していた組織の手によって薬を飲まされ、体が10歳若返っていたのだということだった。

(まあ、頭を打って幽体離脱する世界だから、10歳若返るくらい不思議じゃないのかも知れないけど)

「ああ、そうだ。でもここでその名前を出すのはまずいから、工藤新一の名前で呼んでやってくれないか」

零君の真剣な眼差しに、私は今の言葉に嘘はないのだということを理解した。

「ん、了解。1年ぶり……かな?工藤君」

私がにこっと笑って片手を上げると、工藤君はほっとしたように表情を緩ませた。それがあの日の江戸川君の表情とそっくりで、確かに彼はあの少年の成長した姿なのだと再認識する。

「お久しぶりです、つばさ先生」
「新一、知り合い?」
「ああ。オメーには言ってなかったけどよ、あの大爆発があった直後、ちょっとお世話になった医者の先生なんだ」
「お医者様?」
「おう。オメーも昔、記憶喪失になって入院したことがあっただろ?その米花薬師野病院の先生だよ」
「ああ、あの病院の先生なんだ。あれ?でも安室さんと一緒にいるってことは……」

女子高生特有の勘なのか、蘭さんは私達の関係をあっさりと見破って表情を明るくした。それを見た零君は、苦笑して頬を掻いた。

「そこに気付くとはさすがですね、蘭さん。お察しの通り、彼女は僕の恋人です」

言いつつ私の肩を抱き寄せる零君の態度に、若い2人は揃って頬を染めた。こんな風に改めて紹介されたことなどなかったから、私の方もどぎまぎしてしまう。

「ちょっと、れ―――透君、いきなり何を」
「どうせ新一君は気付いていただろうし、隠すこともないだろう?」
「それはそうだけど。でも、やっぱりちょっと照れ臭いよ」
「照れたつばさも可愛いから問題ない」

零君の眼差しがあんまりにも穏やかで、本当に愛おしそうに私の頭を撫でるから、私は流されないように大きめの声を上げた。

「っ、もう!あんまり揶揄わないでよ、工藤君も彼女も困ってるでしょ」

ごめんね、この人最近幸せボケがひどくって。私はそう言うと、工藤君の手元のチケットを指さした。

「ほら、そろそろ行かないと映画始まっちゃうんじゃない?本当はもう少し、ゆっくりお話できたらよかったんだけど」
「あ、いえ!こちらこそ、デート中にお邪魔してすみませんでした」

蘭さんが慌てて頭を下げる。私は喉の奥で笑って、零君と顔を見合わせた。

「また近いうちに、毛利先生の所にご挨拶に伺います。詳しい話はその時にでも」
「解りました!父にもそう伝えておきますね」
「デートの続き、楽しんでね!」
「はーい、失礼します!」
「安室さんとつばさ先生も、仲良くなー」

手を振って去って行く高校生2人の背を見送って、私はくふふと笑った。

「……なんだ、つばさ」
「ううん?ただ、あの2人もあなたが命がけで守りたかった人達なんだろうなって」
「ああ、勿論だ。“安室透”と親しかった彼らのことは、何より守りたいと思っていた」
「ふふ。その名前、久しぶりに聴いたなあ」

組織とやらが壊滅する以前の話は、あまり零君から聴いたことはない。けれどあれから1年経った今なら、訊いても許されるような気がした。

「ねえ、零君」
「ん?」
「この後よかったら、私の家に来ない?」

一緒にご飯の用意をしながら、あなたの昔話を聴かせて欲しいな。私が甘えた声でそう強請ると、彼は目を細めて頷いた。

彼が守りたかった幸せは、確かに今この掌の上にある。そのことを実感しながら、私は零君と手をつないで帰路についた。


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