Dear. ユノハ様

私はこの日、久しぶりに38度を超える熱を出し、朝からかなり調子が悪かった。昨日のゲリラ豪雨に打たれたあと、碌に体を温めることもしなかったせいだ。そんな訳で、私は高校に入って初めて学校を休むことになった。

(テスト前の大事な時期に、学校休みたくなかったなぁ……)

これで1位が危うくなったらどうしよう、と思ったけど、他の人にうつすのも迷惑がかかるので、私は大人しく家にいることにした。

「みずほ、本当に大丈夫?お母さん、夜遅くまで帰って来れないけど……」
「へーきへーき。ただの風邪だし、夜まで大人しく寝とくから。お粥、用意してくれてありがとね」

仕事に出掛ける母親を見送るのは、これが初めてのことである。いつもは私が朝の6時前には家を出るので、誰かを見送ることなどなかった。

「それじゃ、行ってきます」
「はーい、行ってらっしゃーい」

母親が玄関のドアを閉めた途端、私は速攻で笑顔を消した。
体がだるい。本当は、ベッドから離れているのも億劫だ。だけど喉はカラカラに渇いていて、水だけでも持って行こうと私はふらふらと台所に向かった。
風邪を引いたのは本当に久しぶりだったから、都合よくスポーツドリンクの買い置きがある訳でもない。食欲も無かったから、私は水だけを手に持って自室に上がり、ベッドの中に潜り込んだ。猫のように体を丸め、シーツを手繰り寄せる。

ふと、顔の前にある手首を見つめてみる。ピアノを嗜む人間らしく、ほっそりしたシルエットだと自分では思う。けれどそれはあくまで健康的な細さであって、枯れ枝のようにやせ細った腕とは違う。
そうと理解していてもたまに襲ってくる恐怖と孤独を、私は無理やり眠ることで閉じ込めていた。体調を崩した時、どうしてか解らないけど、私は無性に不安になった。今は昔とは違って、きちんと呼吸も出来るし血を吐いたりもしていないのに。

(……、血を吐くって、何だそれ……)

駄目だ。どうにも熱でぼんやりして、考えがまとまらない。ありもしない記憶が蘇りそうになって、私は思考を放棄した。
夜になれば、母親が帰って来てくれる。ひょっとしたら、ラインで休むことを伝えておいたから、和葉あたりもお見舞いに来てくれるかも知れない。それまで大人しく待っていようと、私は襲ってくる睡魔に身を委ねた。



次に目覚めたのは夕方の四時前で、汗でぐっしょりと濡れた体にパジャマが張り付いていた。

(……気持ち悪い……)

パジャマだけでも替えようと、私は立ち上がってクローゼットに脚を向けた。震える手で着替えを済ませ、僅かにお腹が鳴ったことに安堵しながら1階に降りる。冷たい飲み物を取りにリビングへ行こうとしたところで、とうとう限界が来た。
回る視界に耐え切れず、リビングのドアを開けた体勢のままずるずると頽れる。
うつ伏せのまま床に身を横たえた。ひやりとした床の温度が、火照った体に心地いい。
少しだけ、この冷たさに体を預けておこうか。ほんの一時の休憩のつもりで、私は瞼を伏せた。

*****

藤原みずほが登校していないことは、朝のHRの時点で解っていた。熱を出したと保護者の方から連絡があったから、恐らく昨日のゲリラ豪雨に打たれたことが原因だろう。

(僕の上着を掛けるだけでは足りなかったか。やっぱり多少強引にでも、ひっついておくべきだった)

誰かに見られたら大問題になるであろうことを考えつつ、僕は彼女の親友である遠山和葉に声を掛けた。

「遠山さん」
「あ、安室先生!お疲れ様です」
「お疲れ様です。今日、藤原さんがお休みされていたと思うんですが」
「ああ、せやからアタシと平次で、今からお見舞いに行くとこなんです」
「お見舞い?」
「はい。明後日から実力テストやのに、古文の授業受けられへんかったー言うて、あの子、今日のノート見せてくれて言うてきたんですよ。熱がある時くらい、大人しゅうしとけばええのに」

遠山さんの返事を聴いて、僕はふむ、と顎に手を当てた。テスト前だから部活も休みであるし、担任として彼女の容態は気になるところだし、と誰にともなく言い訳を考える。

「それじゃ、僕が藤原さんの家までお送りしますよ」
「へっ!?安室先生が!?」
「ええ。古文の課題のプリントも届けなくちゃいけませんし、藤原さんのご両親は遅くまで家に帰らないみたいですし。途中で差し入れのおやつを買って行きましょう」

僕の提案に、遠山さんは目を輝かせて頷いた。甘い物で釣られてくれるとは、彼女もまだまだ可愛げがある。
こうして僕は遠山さんと服部君を後部座席に乗せて、藤原みずほの家へ向かった。

彼女の住む一軒家には、以前家庭訪問で訪れたことがある。記憶にある通りに進んでいくと、思った通りのクリーム色の壁の家が見えてきた。
遠山さんは何度もこの家に遊びに来たことがあるらしく、躊躇いも無く門扉に付けられたインターホンを押した。しかし数秒が経過しても、反応はなかった。
寝てるんやろか、やったら起こすんも悪いかな、そんなことを言いつつ遠山さんはもう一度インターホンに触れた。やはり今度も反応はなかった。

僕は門扉を開けて玄関の前に立ち、試しにドアを引いてみた。不用心なことに、それは大した抵抗も見せずに開いた。明かりも点いていない室内は、まるで人の気配がしない。
さすがに外出できるほど回復したとも思えないが、と考えて視線を巡らせたその時、リビングの入り口で蹲っている人影が見えた。ぴくりとも動かないそれが彼女であると認識して、背中を氷塊が滑り落ちる。

「みずほ!」
「ちょ、おま、大丈夫か!」

遠山さんと服部君が土足で玄関を駆けあがり、彼女の体を揺らす。けれど、僕は一歩もそこから動けなかった。

思い出したくもない記憶が、フラッシュバックしそうだった。

「みずほ!ホンマにシャレにならんて、返事して!」
「和葉、あんまり揺らしたらアカン!それよりも救急車や!」

2人が焦ってそんなことを口走った時、

「……あれ、和葉?服部君?」

それまでぴくりとも動かなかった彼女が、のろのろと顔を上げた。

*****

「……あれ、和葉?服部君?」

重い頭を持ち上げて、かさかさの喉を振り絞って声を出すと、心配そうにこちらを覗き込んでいた2人の顔が目に見えて穏やかになった。けれどそれも一瞬のことで、それはすぐに鬼の形相に変わってしまった。

「アンタ、こんなとこで寝るとか何考えてんねん!こっちの心臓が止まるか思たわ!」
「ホンマやぞ、強盗にでも遭ったんかて疑ってもうたわ。寝るならベッドに行かんかい」
「ごめんごめん、床が冷たくて気持ちよかったから、つい」

安心させようとしてへらりと笑うと、笑いごとちゃうで、と和葉に背中をはたかれた。そうしてゆるゆると視線を巡らせて、玄関にもう一人の人影が立っていることに気付く。
それが誰なのか認識して、さっと血の気が引いていくのが解った。

「あむろ、せんせい」

明かりのない玄関で佇む先生は、見たこともない顔をしていた。
怒っている訳でもなく、呆れている訳でもない。ただ、酷く傷付いたような顔をしていた。

私の呼びかけが届いたのか、先生の足はそこで初めて機能を思い出したように動き始めた。玄関で靴を脱ぎ、おぼつかない足取りで私の元へとやって来る。
そして私の顔を覗き込んで、私の意識がしっかりしていることを確認して。先生はそこで大きくため息を吐いた。肺の中の空気を全て出し切ってしまうかのような、長くて深い溜息だった。

「……藤原さん。少し揺れますが、落っこちないようにしてくださいね」
「へ?」

唐突な言葉に目を白黒させる私をよそに、先生は私に向かって両手を伸ばした。肩と膝の裏に手が添えられて、視界が急転する。あっという間に私の体は宙に浮かび、私は自分が先生の腕に抱えられていることを知った。

「へっ!?いやいや、先生、下ろしてください!」
「駄目です。起き上がるのもきついんでしょう?」
「いやでも、ほら、汗臭いですし!だから平気ですってば……!」

文句を言っているうちに、先生は軽々と私を抱えたまま階段を上り、私の寝室へ入っていった。静かにベッドに横たえられて、顔から火が出そうになる。
先生は私を寝かせた姿勢のまま、覆いかぶさるように私の顔を覗き込んだ。間近に先生の整った顔が迫り、熱のせいだけではない汗が全身に浮かび上がる。
やがて、こつんという音と共に先生の額が私の額に重なった。

「……どうやら、大分熱は下がっているようですね。よかった……」

本当にほっとした、と言いたげな声音で、先生は私の頭を撫でた。さっきの傷付いたような表情が蘇り、私はその手をそっと握った。

「藤原さん?」
「……大丈夫、です。私、こんなことで死んだりしませんよ」

死ぬなんて大袈裟な、と自分でも思いつつ、何故だかその言葉がすんなりと喉から滑り落ちた。私の言葉を聴いた先生は目を瞠り、探るような目を向けてくる。
さすがにこれ以上は先生が求めている言葉が解らなくて、私はただじっと先生の蒼い瞳を見つめていた。

無言で見つめ合う私達の空気をぶち壊したのは、後から私の部屋にやって来た2人だった。

「あー、盛り上がってるとこ悪いねんけど」
「みずほ、アタシのノートのコピー取ってきたから、テーブルの上置いとくで」
「!!!!」
「っ、……なんだ、2人とも見ていたんなら声を掛けてくださいよ」

安室先生はさすがに手慣れたもので、すぐにいつも通りの表情に戻ったけれど、私にはとてもじゃないけど、そんな余裕がなかった。

「ほな、アタシらはお邪魔みたいやし、帰ろか?平次」
「せやな、藤原も安室先生がおったら安心やろしなー」
「ま、待って待って!ごめんってば、お願いだから帰らないで!」

私が体を起こして懇願すると、2人は顔を見合わせて意地悪く笑った。

「そんなに言うなら、しゃーなし残ったるわ。ほら、プリン買うてきたから、食べれそうなら持ってくんで」
「プリン!食べたい!」
「解った解った、ほんなら大人しく待っとき」

2人が出て行った室内で、私は安室先生と顔を見合わせて笑った。こんな風に、体調を崩せばすぐに手が届く場所に先生が居ることが、私を何より安心させてくれた。

結局この後、母親が帰って来るまで3人ともうちに居てくれて、古文の復習をしたり予習をやったりしているうちに、あっという間に時間は過ぎて行った。テスト勉強が不十分、どころかいつも以上にみっちりと勉強できたお陰で、実力テストではぶっちぎりの1位を獲ることが出来たのは余談である。


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