Dear. 匿名様

今日は私の通う高校のクラスマッチの日である。クラスごとに女子バレー、男子バレー、女子バスケ、男子バスケなどの種目に分かれ、総合順位を競い合うイベントだ。私は勿論、女子ソフトボールを選択していた。

「いいですか、皆さん。理系特進クラスにだけは、絶対に負けてはいけませんよ」

朝のHRでそう力説する安室先生は、いつものスーツ姿ではなくネイビーのスポーツウェアを着ていた。普段は隠れている下腿部のラインが露になっていて、女子生徒の目はそれだけでハートになっていた。

「安室先生の赤井先生アレルギーは、相変わらずすごいなあ」
「犬猿の仲というか、水と油だもんね」
「よう飽きんとやってはるわ。なんや安室先生て、赤井先生を前にしたら、ちょっと子供っぽくならはるんやなあ」
「そこが可愛いポイントやんか!なあ、みずほ?」

同意を求める和葉に大きく頷き、私は制服を脱いで体操服に着替えた。クラスマッチの全種目が終われば、エキシビションが待っている。毎年クラスごとの成績が発表される前に、先生たちによる襷リレーが行われるのだ。

「赤井先生も今年はリレーで走るって言うし、安室先生が躍起になってるのは、そういう理由もあるんだと思うよ」

去年は安室先生と伊達先生による熾烈なバトルが繰り広げられたリレーだけど、今年は安室先生と赤井先生のバトルが注目の的になりそうだ。安室先生の走っている姿を想像して、私はにやけそうな口元を一生懸命引き締めた。



そうして見事総合優勝を成し遂げた私達は、この後の表彰式と、賞品としてもらえる学食1週間無料券に胸を躍らせていた。私が参加していたソフトボールは、残念ながら蘭や園子のいる理系特進クラスに負けて準優勝だったけど、それでも目一杯ボールに触れて楽しむことが出来た。

しかし、ここで不測の事態が発生する。エキシビションの襷リレーに参加するはずの安室先生が、リレー開始の30分前になっても姿を見せなかったのだ。それを知ったクラスの皆は大慌てで安室先生捜索隊を派遣した。私も捜索隊の一員として、グラウンドから離れた旧校舎の周辺を走り回っていた。

(こんなことなら、先生の電話番号でもゲットしておくんだった)

全く下心なくそんなことを思いながら、きょろきょろと辺りを見渡す。すると、人気のない裏庭の桜の樹の下に、目立つ金色の後頭部を見つけた。夕陽を反射して光る髪が、まるで映画のワンシーンのように綺麗だった。

けれど今は、見惚れている余裕なんて微塵もない。私はクラスのグループラインに向けて、“目標を発見した。これより確保にうつる”とメッセージを送り、じりじりと先生の背後の渡り廊下に回り込んだ。

「安室せんせ、ぃ……」

言葉が不自然なところで途切れたのは、先生に向き合うようにして隣のクラスの女子が立っていたからだ。先生はこちらに背中を向けているからその表情は窺えないけど、相手の子の顔が驚くほど真剣なのは見て取れた。

「…………」

私は出し掛けた足をそっと戻し、気付かれないように廊下の隅にしゃがみ込んだ。盗み聞きをするつもりじゃなかったけど、今動いたら逆に空気をぶち壊しかねないと思ったのだ。
いや、漸く先生を見つけるまでに掛けさせられた手間を考えれば、飛び入り参加して空気をぶち壊しても許されるような気もするけれど、相手の子の眼差しから、私は彼女と先生が何を話していたのか、粗方察しがついていた。

やがて、葉擦れの音さえ聞こえてきそうな沈黙の後で、安室先生が口を開いた。

「すみません。僕は、教師と生徒という以前に、あなたをそういう対象としては見れません」

安室先生らしい、相手に寸分の隙も与えない断り文句だった。これが“自分は教師で、あなたは生徒だ”とか言ってはぐらかされたら、変に期待をさせちゃったりすることもある。
振られてしまった相手の子は、声を震わせながらも気丈に笑った。

「そう、ですよね。伝えたかっただけなので、大丈夫です」

ありがとうございました、と最後に付け加えて、彼女は振り返りもせず一目散に駆けて行った。

膝を抱えて蹲る私は、彼女の気持ちが痛いほど解った。教師と生徒という障害があっても、どうしても気持ちが募って仕方なかったのだ。それをきちんと自分の言葉で伝えようとしたのは立派である。ただし、もっとTPOを考えてもらえると有り難かったかも知れない。

他人事のようにそんなことを考えていた私の頭上に、笑みを含んだ声が掛かった。

「覗き見とは、お世辞にも良い趣味とは言えませんね。藤原さん」
「ひえっ、……バレてましたか」

ぐり、と顎を90度上向けてみれば、そこには渡り廊下の手すりに肘をついた先生が、苦笑しながら私を見下ろしている姿があった。

「すみません。好きで覗き見をしていた訳ではないんですが」
「解っていますよ。相手の方は気付いていなかったようですから、安心してください。……ところで、僕に何か用事があったんじゃないんですか?」
「あ、実はそうなんです」

先生に促されて、私はここまで走ってきた理由を思い出した。屈伸の要領で立ち上がり、この後のリレーの時間が迫ってきていることを手短に伝える。

「なるほど、そうでしたか。すみません、手間を取らせてしまいましたね」
「いえ、私は大丈夫です。でも時間がないので、急いで校庭まで戻りましょう!」

私がそう言って、先生と連れだって校庭に戻ろうとした時だった。
ピシャーン、ゴロゴロ……と、まるでコントのようなタイミングで、空が光って雷が鳴った。

「えっ……」
「嘘、雷!?」

私達が空を仰ぎ見た瞬間、ぼたぼたと大粒の雨が地面を叩きつけた。さっきまで確かに晴れていたはずの空は、いつの間にか真っ黒な雲で覆われていた。校庭に戻ろうとしていた私達の上にも、バケツをひっくり返したような雨が降り注ぐ。

「ゲリラ豪雨か。藤原さん、一旦屋根の下に入りましょう」
「は、はい!」

先生の差し伸べられた手を握り、べちゃべちゃになってしまった靴を踏みしめながら、私達は旧校舎の中に入った。外に居たのは一瞬なのに、底冷えするような冷たさが全身を包んでいた。

「これ、この後リレーとか表彰式とか、出来るんですかね?」

私が外の様子を伺いながら尋ねると、安室先生はスマホを触りながら難しいかも知れませんね、と答えた。

「雨雲レーダーで確認する限り、あと2時間はこの雨雲が上空に居座るそうです」
「そんなー……」

しょぼん、と私が肩を落とすと、安室先生はそんな顔をしないでください、と言って微笑んだ。

「大丈夫、表彰式が出来なくても、賞品は逃げたりしませんよ。僕達のリレーはあってもなくても一緒ですし」
「ええっ、そんな。私、先生が走っている所、見たかったです」
「……藤原さん」
「だって、先生がスポーツしてる所、すっごくカッコいいから……って、今のなし、なしです!」

うっかり本音を零してしまい、私は両手を振って誤魔化した。先生の耳にも勿論聞こえていただろうけれど、先生は肩を揺らして笑うだけで、深く突っ込んでは来なかった。

「それよりも、そのままの格好でいたら風邪を引いてしまいますよ。僕の上着も濡れていますが、よかったら羽織っていて下さい」

安室先生はそう言って、自分が来ていたウインドブレーカーを脱ぎ、私に手渡してくれた。

「えっ、そんな、恐れ多い」
「いいから、着ていて下さい。もうすぐ実力テストですし、体調を崩してはことですから」

私の遠慮や躊躇など素知らぬ振りで、安室先生はやや乱暴に私の頭に自分のウインドブレーカーを被せてきた。そんな風に言われては、私としても断れない。今度の実力テストが私にとってどれだけ重要な意味を持つのかは、安室先生が一番よく解っている。私が先生のウインドブレーカーを羽織っている間、先生はスマホをいじって他の先生達に連絡をつけていた。

その横顔をじっと見つめてみる。先生が濡れた前髪を掻き上げると、滴った雨粒が先生の細い顎を滑って、胸鎖乳突筋を伝って鎖骨の窪みに落ちた。その手が首元に伸びて、白いTシャツの襟首を引っ張ると、先生が言葉を紡ぐのに合わせて喉仏が動くのが見えた。

やっぱり好きだなあ、と、馬鹿みたいに単純な言葉が頭を支配する。
あの桜の樹の下で、生徒の告白を断っていたシーンを見てしまった直後だと言うのに、私の正直すぎる心臓は、薄い胸の下でばくばくと音を立てていた。
先生の動き一つ一つに見惚れている間に、先生は通話を終えてスマホをズボンのポケットに入れた。

「……そんなに見られたら、穴が開いてしまいますよ」
「あ、ご、ごめんなさい。何だか変な感覚になって」
「変な感覚?」
「なんか、雨に濡れた先生を見てたら、懐かしいような気になって……。変ですよね、私、先生のそんな顔を見たのは初めてなのに」
「…………」

さすがに不躾すぎたかと、私が濡れた頭を掻くと、先生は真顔になって腰を屈めた。私の顔を至近距離で覗き込んで、そっと頬に手を添えてくる。ひんやりとした指先の感触に、ぴくりと肩が跳ねた。

「先生、」

思わず視線を上げて、―――すぐに後悔した。安室先生の蒼い瞳が、私の知らない熱を湛えてこちらを射抜く。

壁の向こうから聞こえる雨音が、私と安室先生を外の世界から遮断する。2人だけの世界にいるような気になって、束の間、呼吸がしづらくなった。

沈黙が苦しくて、けれど何を言えばいいのかも解らなくて。先生の目を見ているのも怖くて、私は思わず瞼を下ろした。それを見て、先生が息を呑んだのが伝わってくる。

「……藤原」

先生が何かを言い掛けた、その瞬間。

ヴーッ、ヴーッと、私のポケットの中のスマホが揺れた。

「っ、はい、もしもし!」

一瞬で我に返って、慌てて通話に応じると、電話口から聞き慣れた声がした。

「アンタ、今どこで何してんの?こっちは急なゲリラ豪雨で、皆で教室に戻ってきてんけど」
「か、和葉……。ごめん、こっちも雨に降られちゃって、旧校舎に避難してる」
「旧校舎て、間に屋根ないからこっちに戻って来られへんやんか。傘持って迎えに行こか?」

ありがたい申し出に、私は一も二も無く頷いた。和葉は「そんなら15分くらい待っとって」と言って通話を切った。
賑やかな和葉の声が聞こえなくなって、再び私達の間に沈黙が訪れた。

「あ、安室先生。あと15分くらいで、和葉が迎えに来てくれるみたいです」

私が気まずい空気を振り払うように大声を出すと、先生は残念そうに肩を竦めた。けれどその目に先程感じた熱は見られなくて、そのことに私はほっと息を吐いた。

「そうですか。では、それまで僕達はのんびりと、ここで雨音でも聴いていましょうか」

先生はそう言って廊下の隅に腰を下ろした。とんとん、と先生が指で示した通り、私はその隣に少し間を空けてしゃがみこみ、ウインドブレーカーを胸の前で掻き合わせた。

和葉が来るまで、あと15分。
雨に閉ざされた2人の世界が終わるまで、残すところあと15分だった。


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