Dear. 千颯様・ミユ様

僕がその瞬間に間に合ったのは、本当に奇跡としか言いようがない。

オルゴール調の音楽が流れる暗い室内で、たった今この世に生れ出でたばかりの小さな命が、初めて自分の力で呼吸をする。

「うあ―――っ、あ―――っ」

そして一瞬の静寂ののち、火が付いたように泣き始めた我が子を、僕とさくらは食い入るように見つめていた。

「ああ、元気な男の子ですねぇ」
「泣き声も立派立派!」
「ごめんねー、ちょっとだけ身長測らせてねー」

赤ん坊を抱き上げた医師と看護師が、脂肪に塗れた肌をタオルで拭ったり、体重計に載せたりしているのを横目で見やって、僕は分娩用ベッドに横になったままのさくらを振り返った。
大仕事を終えたばかりの彼女は、半ば放心状態で僕を見返してきた。

「……赤ちゃん……」
「ああ。元気な男の子だ」
「あなたと、私の……」
「ああ。……さくら」

本当にありがとう、お疲れ様。
そう言って僕が彼女の手にキスを贈ると、彼女は目尻に涙をためて、大きく息を吐き出した。

この日を迎えるまでに乗り越えなければならない壁は多かった。妊娠初期のひどい悪阻や仕事のストレスによる流産未遂など、彼女の妊娠生活は決して順調とは言えなかった。仕事柄、僕が常に付き添ってやることも出来なかったため、不安で堪らない日々を過ごしたこともあったのだ。

それでも、あの子はこうして無事に僕達のもとに生まれて来てくれた。

「ほーら、ママのお隣に行こうねー」
「まだ顔立ちははっきり解らないけど、これはどうやらパパ似かなー?」

にこにこと微笑みながら、看護師がおくるみに包まれた赤ん坊をさくらの枕元に寝かせる。ふがふがと言葉にならない声を発して両手を動かしている様子に、確かにこの子は生きているのだと実感して、ぶわりと胸が熱くなった。

「生命力の強い子だな。あれだけ色々あったのに、こうして元気に生まれて来てくれて」
「……ほんと、あなたによく似てる……」
「確かに、肌の色は黒そうだな」

血色のいい頬を指の背でそっと撫でると、息子はそれが擽ったかったのか、再び激しく泣き始めた。

「ぅあ―――っ、ああ―――ッ!」
「……っと、」

思わず手を引込めてしまった僕とは対照的に、さくらは疲れ切った体を捩って息子に向き直った。その表情は慈愛に満ち溢れていて、もうすっかり“母親”の顔になっていた。

「よしよし……、いっぱい泣いて、いっぱい食べて、大きくなろうね」
「あ―――!」
「……ほんと、元気な子……」

さくらがそっと小さな手許に指を伸ばす。それを察知していたかのように、息子はさくらの指をきゅっと握りしめた。

その瞬間、さくらの涙腺が決壊した。

「……ふ……っ」

声を殺して涙を流す彼女に被せるように、甲高い声が空気を震わせる。

「あ―――っ!」
「あー」
「ぅああ―――っ」
「うあー」
「……れい、さん……?」

息子の産声に合わせてあー、あー、と声を上げる僕に、さくらは涙に濡れた目を丸くしながら僕を見つめた。

「ほら、君も合わせてごらん。生まれて初めてのセッションだ」
「……セッションって」
「あ―――!」
「ほら、この子も“早く”って言ってるぞ」
「…………」

さくらは僕と息子の顔を何度も見比べていたが、やがて根負けしたように口を開いた。細めた目尻から一筋の涙が伝い落ちて、白いシーツに染みを作る。

「あ―――っ!」
「あ―――」
「……あー」

家族揃っての不揃いな三重唱は、息子が泣き疲れて眠ってしまうまで続いていた。



令と名付けられた息子は、それは可愛らしく、それは元気に成長していた。

「降谷さん!降谷さん助けてください!!」

踏まれた猫の悲鳴のような声がリビングから響いたのは、さくらが買い物のために偶然家を空けている時だった。

「どうした?ギルバート」
「待ってください、私は食べ物じゃありませ―――ぎゃああああ!」

彼らしからぬ焦った声に、急いでリビングへと足を向ければ、そこには僕のスマートウォッチをあむあむと口に入れてご満悦の表情の息子が居た。

一瞬で状況を把握して、僕はこみ上げる笑いを噛み殺した。近頃、息子は目に着いた物を何でも口に入れてしまうようになったため、精密機械の類は彼の手の届かない所に置いていたつもりだったのに。洗い物をする時に邪魔だからと、時計を腕から外していたのが仇となってしまった。

「一体何事かと思ったぞ。大丈夫か?ギルバート」
「……大丈夫じゃありません……。早く助けてください……」
「ほーら、令。ばっちいからぺっ、しような」
「うー?」

令は僕によく似た大きな瞳をくりくりと動かしながら、不思議そうな顔で僕を見上げた。

「はい、あーん」
「あー」
「よしよし、いい子だ。これはパパの大事な仕事道具だから、あっちに置いておこうな」

この時計は防水加工だし、洗えば問題なく使えるだろう。そう結論付けて、時計を持って洗面所に行こうとすると、途端に息子の顔が歪んだ。

「ふぇ、」
「えっ」
「びゃああああああ!うあああああああ!」
「えっ!?何だ、どうした!?」

前触れもなく号泣し始めた赤ん坊を前に、僕はみっともなく狼狽してしまった。おむつはさっき替えたばかりだし、ミルクの時間には早すぎる。眠い時に寝ぐずりをする傾向はあったが、ついさっきまであんなにすやすや眠っていたのだ、こんなにすぐに眠くなったりするとは思えなかった。

「どうした、令。ほら、大好きなキリンさんのぬいぐるみだぞ」

音の鳴るぬいぐるみを振ってご機嫌を取ろうとしても、息子は聴く耳を持たなかった。こんな小さな体のどこにそんなエネルギーがあるのだろう、とうっかり感心してしまうほどの声量で、令はわんわんと泣き続けた。

「あーっ、あーっ!!」
「……ギルバート、どうしたらいいと思う?」
「父親であるあなたが解らないのに、人工知能の私が解る訳がないじゃないですか」

途方に暮れて助けを求めても、相棒はつれない返事を寄越すだけだった。しかし、彼の声が時計のスピーカーから聞こえてきた瞬間、それまで泣き喚いていたモンスターはぴたりと動きを止めた。

「ん?」
「どうしました?」
「いや、急に泣き止んだから、何がきっかけだったんだろうかと思って」
「そうですね……。第三者の声が聴こえたから、びっくりして冷静になれたんでしょうか?」

その意見も一理あるな、と思って、僕は遠ざけておいたスマートウォッチを再び令の眼前にぶら下げた。すると、令は目に見えて機嫌を直し、涙でべたべたになった頬を綻ばせながらこちらに手を伸ばしてきた。

これはひょっとして、第三者の声が聴こえて冷静になったというよりは、むしろ。

「あー、うー、」
「なんだ、令。ギルバートのことが気に入ったのか?」
「ううー」
「……そうなのですか?令君」
「あー!」

令はまるで僕達の言葉を理解しているかのようなタイミングで、大きく首を縦に振った。そして僕の手からスマートウォッチを取り戻すと、きゃっきゃっとはしゃぎながらベルト部分を口に入れた。
こらこら、と口先だけで窘めながら、ギルバートの声に楽しそうに反応する息子を見て、僕はとあることを思い付いた。

「そんなに気に入ったんなら、その時計はお前にやろうか」
「うー?」
「降谷さん?」
「こないださくらが言っていただろう?これと同じシリーズで、新しいモデルを発表するつもりだと」
「ああ、なるほど。ちょうど買い替え時かも知れませんね」

赤ん坊に好き勝手に弄ばれながらも、人工知能は冷静な口調を崩さなかった。赤ん坊が気に入った物を口に入れるのは仕方がないことだと、最早諦めの境地に達したのかも知れない。

「それではこの端末は、これからは令君のおもちゃになる訳ですね」
「そういうことになるな。息子をよろしく頼むよ、相棒」
「お任せください。腕によりをかけて、英才教育を施してあげますよ」

ギルバートは自信たっぷりな口ぶりでそう言って、ぎこちなく笑った。

この日から、さくらを、そして僕を献身的に支え続けてくれた人工知能は、息子にとって掛け替えのない“初めての親友”となったのだった。


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