Dear. なのか様

空は気持ちいいくらいの快晴だった。もしも今日、バイトに入っていなければ、杯戸公園にハロちゃんを連れて散歩に行きたいくらいの気候だった。

だというのに、私の心にはどんよりと厚い雲が掛かっていた。

「こんにちはー、ってさくらさん!」
「さくらさん、こんにちは!今日は臨時のバイトですかー?」
「蘭ちゃん、園子ちゃん、いらっしゃい。そうなの、梓が風邪でダウンしちゃってね」

カランカランと鳴ったドアベルにも負けないくらいの甲高い声に、私は笑顔を貼りつけて振り返った。彼女達に説明した通り、今日は梓が風邪でポアロに出勤できなくなったため、偶然帰国していた私がピンチヒッターとして出勤することになったのである。

「今日は安室さんも一緒ですか?」
「ええ。シフトが終わるのは、私の方が早いんだけどね」

バイト終わりに一緒に映画でも観に行こうと誘われているので、それまで一緒に残業するつもりだった。私がそう答えると、女子高生2人はきゃあっ、とはしゃいだ声を上げた。

「随分賑やかですねぇ。蘭さん、園子さん、いらっしゃいませ」
「あ、安室さん!」
「安室さんこんにちはー!」
「安室さん、2人があなたのハムサンドをご所望ですって。お願いできますか?」
「解りました。こちらに座ってお待ちくださいね」

蘭ちゃん達がテーブル席に座ったのを見届けて、私は零さんに続いてキッチンに入った。
その時、下腹部に鈍痛が走って、私は一瞬動きを止めた。

「…………」

これはまずい。痛み止めの薬が切れたのかも知れない。今日はバタバタとホテルを出てきてしまったから、予備の薬を持ってくるのを忘れていた。

(まあ、バイトが終わるまでは何とかなるかしら)

ふう、と小さく息を吐いて、私は蘭ちゃん達が注文したコーヒーを淹れるために棚からコーヒーカップを2客取り出した。

「さくらさん」
「はい?」
「どうかされましたか?」
「え?どうかって、どういう意味ですか?」

私はすっとぼけて首を傾げた。けれど零さんの目は真剣で、こちらの心を見透かそうとしているかのようだった。その強い眼差しに気圧されて、私は思わず目を逸らした。

「私は何ともありませんよ。変な安室さん」
「……そうですか。僕の取り越し苦労だったならよかった」

でも、と言って零さんは私の腕を掴んだ。耳元に顔を寄せられて、擽ったさに肩を竦める。

「顔色が悪いぞ。いよいよ辛くなったらすぐ僕に言ってくれ」

それまでは、僕もなるべくお前の意思を尊重するから、と零さんは私の頭を撫でてくれた。
ああ、これは気付かれてしまったかも知れない。女性特有の問題を恋人に知られてしまったことが気恥ずかしくて、私は視線を合わせられないまま首肯した。それに満足そうに頷くと、零さんはハムサンドを作るための材料を冷蔵庫から取り出した。

休憩時間にバックヤードで体を休めていると、零さんはひょっこりと顔を出して言った。

「さくらさん。今日のバイトが終わった後、映画に行くのをやめて僕の家に来ませんか?」

私は項垂れていた背中を伸ばし、力なく微笑んだ。

「でも、もう映画のチケット取ってもらったんじゃ……」
「キャンセルは簡単に出来ますから、ご心配なく。あなたは何も心配しなくていいから、僕の家に行きましょう」

零さんは珍しく、こちらの意見を一切聴く気がないとばかりに断言した。普段ならそれでも二つ返事で了承していたのだけれど、今日は正直に言って、彼の家に行くことだけは避けたかった。

「……でも、今日は私、」
「解ってますよ。何もしません」
「…………」
「でも、そんなに真っ青な顔をしたさくらさんを1人でホテルに帰したくないんです。僕の不安を和らげるためと思って、ここは折れてもらえませんか?」

そう言う彼の目はどこまでも穏やかだった。真剣にこちらの身を案じてくれているのが伝わって、私はほっと安堵の息を吐いた。

「ありがとうございます。それじゃ、お言葉に甘えて、安室さん家にお邪魔します」
「はい。本当は、バイトももう上がってもらっていいよ、と言えたらよかったんですが」
「もう少しでシフトも終わるので、それまでは頑張ります。でも、本当にありがとう」

こちらの不調をすぐに見抜き、支えてくれようとする彼の言葉に、私はぎりぎりと下腹部を苛んでいた痛みが多少和らいだような気持ちになった。



それから3時間後、零さんと私は連れ立って、彼が安室透名義で借りているアパートの1室にやって来た。彼は私をリビングに案内するとすぐさまソファに座らせて、何か欲しいものはないかと尋ねてきた。

「欲しい物……。痛みどめとかがあれば嬉しいんだけど」
「ロキソニンならあるが、それでいいか?」
「ええ、十分すぎるくらいだわ」

私が弱弱しく微笑むと、彼は一旦寝室に引っ込んで、薬の入った箱とこげ茶色のブランケットを持って戻ってきた。

「痛みが辛いときは、体を温めるといいんだろう?ひとまずそれを被っていてくれ」
「ありがとう。……わぁ、肌触りが良くて気持ちいい」

私は手渡されたブランケットを体に巻き付け、ふわふわした表面に顔を埋めた。後頭部を大きな手で撫でられて、ぽかぽかしたものが胸の中に広がっていく。

「零さんの匂いがする……」

ほう、とため息を吐きながらそう言うと、零さんはふと笑って私の体をブランケットごと抱き締めた。

「僕の匂いってどんな匂いなんだ?」
「そうね、どこか甘いのに清涼感がある香りかしら?」
「よかった。変な匂いじゃないんだな」
「少なくとも、私は好きよ。あなたの香り」

逞しい胸板に頬を擦り付けながら甘えた声を出すと、零さんは私の顎に指を添えて上を向かせた。数秒間無言で見つめ合って、どちらからともなく瞼を下ろす。重なった唇から伝わる熱が、いつもよりずっと直接的に彼の心情を訴えているようだった。

「さくら……」
「ん……、ふふ。何て顔をしてるの、零さんってば」
「うるさい。こっちが手を出せない時に、そんなに可愛いことを言うのは反則じゃないか?」
「だって、お預けをされてる零さんが可愛くて」
「しかも確信犯か。まったく、僕の恋人は性質が悪いな」

零さんはもぞもぞとブランケットの中に手を忍び込ませて、私のお腹をゆっくりと撫でた。痛みに強張っていた筋肉が、その温かさに少しずつ解されていく。

「吐き気はないか?人によっては寝たきりになるくらい重い場合もあるんだろう?」
「ええ。吐き気や眩暈は、今のところはないわ」
「そうか、それならまだよかった。ホットミルクくらいは飲めるかな」
「ホットミルクを作ってくれるの?あなたが?」

嬉しい、と私が弾んだ声を出すと、彼はそれじゃあちょっと待ってろ、と言ってキッチンに向かった。テキパキとミルクパンを取り出して牛乳を入れ、蜂蜜を落として火にかける。
ミルクが温まる間、私はキッチンに立つ彼の横顔をじっと見つめてみた。以前、彼が体調を崩した時に看病しに来たことがあったけれど、彼も今、あの時の私と似たような心境なのかも知れない。

それから間もなく、彼は2つのマグカップにホットミルクを移し入れ、リビングに戻ってきた。

「お待たせ。……そんなにじっと見つめて、どうした?」
「この前、あなたが風邪でダウンした時のことを思い出していたの」
「ああ、僕が寝惚けて夢だと思い込んでいた、あの時のことか」
「ええ。夢の中の私には思いっきり甘えられる、なんて言われて、現実の私はちょっとさみしかったのよ」
「それはその……、悪かった。自分がこうして看病する側に立ってみて解ったよ。体調が悪い時には、遠慮なんてせずに甘えてくれる方が嬉しいんだって事をな」

零さんは照れくさそうに苦笑いをしながら、私の手許にマグカップを差し出した。ありがたく受け取って、火傷しないように注意しながら口を付ける。

「おいしい。蜂蜜と牛乳以外にも、何か入ってるのかしら?」
「よく解ったな。何だと思う?」
「ううん……、もう少しで思い出せそうなんだけど」

喉まで出かかっているのに、どうしてもその先が思い出せなくて、私はマグカップをじとりと睨み付けた。そんな私を揶揄うように笑って、零さんは自分のマグカップをぐいと傾けた。

「さくらが元気になったら、作り方を教えてあげようか」
「えっ、本当に?」
「ああ。だからその時までは、隠し味に何を使ったかは内緒にしておくよ」
「……解ったわ。元気になってからのお楽しみという訳ね」

すぐに答えが知れなくてがっかりしたような、けれどお楽しみが続くことが嬉しいような。どちらも正直な気持ちだったけれど、彼と並んでキッチンに立つ未来を想像したら幸せな気分になれたので、ここは誤魔化されておくことにしよう。

「ありがとう、零さん。あなたが傍に居てくれてよかった」
「どういたしまして。今日はこのまま、ゆっくり休んでいってくれ」

私は彼の言葉に頷いて、その胸元に身を寄せた。ふわふわのブランケットの向こうから、零さんの静かな鼓動が聞こえてくる。

甘いミルクの香りが漂う部屋で、私達はいつまでも寄り添い合っていた。その中に微かに漂う清涼感のある香りの正体を私が知るのは、翌日になってからのことだった。


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