Dear. 匿名様・陽咲様

私はこの日、蘭ちゃんと女2人で、自由が丘のとあるパティスリーを訪れていた。ポアロではなく別の喫茶店を選んだのには理由がある。

実は、幼馴染の新一と付き合うことになったんです、と蘭ちゃんから報告を受けたのはつい先日のことだった。けれど彼は蘭ちゃんの返事を聴くや否や、またもや事件のためにどこかに行方を晦ましてしまったとのことで、付き合いたてのはずなのに遠距離恋愛のような気がするんです、と言って蘭ちゃんは嘆いていた。遠距離どころかこれ以上ない至近距離恋愛だろうと思ったが、コナン君イコール新一君である、という事実を彼女に教える訳にはいかないので、私は苦笑しながら適当に相槌を打った。

そこで、実際に遠距離恋愛をしている私の話を参考にしたいから、一度恋愛相談に乗ってくれませんかと頼まれたのだ。蘭ちゃんからデートに誘われて、断るなんて選択肢は私の中には勿論ない。折角だから、普段は行かないようなお店に行ってみようということで、この自由が丘のパティスリーまでわざわざ足を運んだのである。

注文したロールケーキがテーブルに届けられると、蘭ちゃんはそれじゃあ早速、と口火を切った。

「以前安室さんには訊いたことがあるんですけど、お2人が付き合うことになったきっかけって何だったんですか?」
「きっかけ?」
「はい。告白したのは安室さんからなんでしょう?でも、具体的な馴れ初めまでは教えてもらえなくって」

もしよかったら付き合うまでの馴れ初めを教えてもらえませんか、と言って蘭ちゃんは身を乗り出した。自分たちより少し年上のカップルである私達の、所謂“オトナの恋愛事情”が気になって仕方ないのだろう。
私はううん、と小さく唸って首に掛かったヘッドホンに触れた。

恋人になって欲しい、と零さんに言われたのは、GWに起きたIoTテロの事件の時である。けれどそれ以前からお互いの気持ちは知っていたし、キスもキス以上のこともしてきたのだ。哀ちゃんじゃないけれど、付き合いましょうと口約束をしていなかっただけで、もう殆ど恋人同士のような関係だったと言えるだろう。

それに、私達がお互いに対する恋心を自覚したのは、警察庁警備局の保有するNOCリストが盗まれたあの事件の時である。もう会えなくなるかも知れないと、これが最後になってしまうかも知れないと思ったから、お互いに手を伸ばした。そうしたら、自覚していた以上にお互いに対する愛情が自分の中のウェイトを占めていたことに気付いたのだ。

だから、具体的に恋人になった馴れ初めを、と言われても、

「……成り行き?」

としか答えられなかった。

「ええーっ、何ですかそれ!?」
「だって、それ以外に何て表現したらいいのか解らないんだもの。私達が親しくなるきっかけも、一般的にありがちなシチュエーションじゃなかったし」

何せ、初対面でいきなり国家権力を揺るがすサイバーテロの主犯扱いされたのだ。こんなに強烈なインパクトを残す出会いもないだろう。それから事件の解決のために協力し合うようになって、ギルバートの秘密を打ち明けて、心から信頼し合えるようになったのだ。そこからお互いの事を意識するようになるまでに、時間はそう掛からなかった。

とはいえ、こんな事情を赤裸々に蘭ちゃんに話せるものではない。彼女は零さんと私が、公安警察とその協力者であるという事実を知らないのだから。
私が適当なことを言って誤魔化そうとしても、蘭ちゃんは引かなかった。

「じゃ、じゃあ、初めてのデートはいつですか?」
「デートって言えるのかは解らないけれど、初めて2人で出掛けたのは出会った翌日だったわね」
「それじゃ、初めてのキスは?」
「正確な日にちまでは覚えてないけど、出会って2ヵ月くらいだったかしら」
「えっ!?もうその頃には、お付き合いされてたんですか!?」
「ううん、付き合ってはなかったわ。深夜にドライブに誘われて、話をしていたら目が合って、そのまま何となく……って感じ」
「そ、それは安室さんから……?」

蘭ちゃんは頬をほんのりと染めながら、手に持っていたフォークをぎゅっと握りしめた。その様子にふと思い付いたことがあって、私はふふふ、と口角を上げた。

「そういう蘭ちゃんこそ、新一君とはもうキスしたの?」
「えっ!?いいいいいえっ、そんなことは、全く!!」
「なぁんだ。告白の返事はキスだったって聴いたから、蘭ちゃんから情熱的なキスをしたのかと思ってたのに」
「違います!き、キスって言ってもほっぺです!!ていうか、誰から聴いたんですかそんな話!!」
「園子ちゃんがこないだポアロに来た時に、情感たっぷりに語ってくれたわよ。清水の舞台っていう最高のロケーションで、人前で堂々とキスしてましたよーって」
「もう、園子ってばー!」

蘭ちゃんはここには居ない園子ちゃんに向かって非難するような声を上げた。真っ赤に染まった耳が何とも言えず微笑ましい。私がにこにこしながらクリームたっぷりのロールケーキを咀嚼すると、蘭ちゃんは誤魔化すようにゲホンと空咳をした。

「それより、今はさくらさん達の話です。馴れ初めが普通じゃないっていうのは解りましたけど、それじゃあ、さくらさんは安室さんのどんな所が好きなんですか?」
「どんな所が好きか……?」
「はい。こういうことをされたらときめくとか、こういう仕草が好きだとか、恋人ならではの視点ってあるじゃないですか」

壁ドンとか顎クイとか、後ろからハグされるとか。と、蘭ちゃんは少女漫画でありがちなシチュエーションを羅列して、私の反応を窺った。問われた私はと言えば、

「……壁ドンはされたことがあるけど、ときめくというよりは、恐怖を感じたわ」

と、ぶるりと肩を震わせた。私が彼に壁ドンらしきものをされたことは2回ほどあるが、1回目は彼がNOC疑惑を掛けられて組織の人間に命を狙われ、赤井さんと共に助けに行った時で、2回目はドイツでデートをした時のことだった。1回目は真面目に命の危機を感じたし、2回目は怒った彼のあまりの剣幕に、ときめくどころではなかったのだ。

「そうなんですか?それじゃ、顎クイとか後ろからハグとかは?」
「されたことはある、とは思うんだけど。安室さんって女の扱いも手慣れてて、自然な流れでそういう接触をしてくるから、それが特別なシチュエーションだと思ったことがなかったのよね」
「へぇー……。自然体でそういうことが出来るっていうのも素敵ですね!」
「何だか、私達の話ってあんまり参考にならないわね。ごめんなさい」
「そんなことないですよ!大人同士の恋愛って感じで、聴いてるこっちがドキドキしちゃいました」

蘭ちゃんはそう言って朗らかに笑ってくれた。けれど、私の胸には奇妙なしこりが残ったままだった。一般的に胸キュンシチュエーションと呼ばれるものにときめかない自分の感性が、何だかいびつに感じられたのだ。

(今度零さんに会った時に、じっくり検証してみようかしら)

そんなことを胸の内でぼやきながら、私は手元のダージリンに角砂糖を1つ溶かしこんだ。

******

「…………」
「どう?零さん」
「どう、と言われても……」

僕は途方に暮れて肩を竦めた。さくらは僕の顔を至近距離で覗き込みながら、真面目くさった表情で小首を傾げる。

(首を傾げたいのはこちらの方なんだが……)

ポアロでのバイトを終えて、さくらを連れて自分のマンションに戻ってきたのが今から3時間ほど前の話である。一緒に夕食を作って、買ってきたデザートを味わって、食後のコーヒーで一息入れる所までは、いつもの部屋デートと何ら変わりない雰囲気だった。

しかし、彼女は突然「ちょっと検証したいことがあるから協力して」と言い出した。協力とは言っても、具体的に何をしたらいいのかと尋ねた僕に、彼女は思いがけないことを言った。

「ちょっとね、顎クイをさせて欲しいの」
「―――うん?」
「こう、ソファの背もたれに背中を預けて……、そうそう、そんな感じ」

言うなり彼女はソファに腰掛けた僕の膝に乗り上げて、僕の体を背もたれと自分の腕の間に閉じ込めた。それから流れるような仕草で頬に掌を滑らせて、顎の下に指を添えられる。
このままキスでもしてくれるのかと思って僕もじっと彼女を見返すと、彼女は真剣な表情のままこう言った。

「どう?零さん」
「え?どうって、何が?」
「私にこういうことをされたら、ドキドキする?」
「……まあ、それなりには」
「本当に?その割には全く、瞳孔の大きさに変化は見られないわ」
「ドキドキしたら、瞳孔の大きさが変わるのか?」
「ええ。交感神経の働きによって瞳孔散大筋が動いて、黒目がちになるのよ」

だけど今のあなたは何の変化も見られなかった、と言って彼女は考え込むように自分の顎に手を当てた。全く話が読めないのだが、取り敢えず彼女は僕をときめかせようと奮闘しているらしい。

「あとは何て言ってたかしら……。あ、そうそう、後ろからハグ、だったわね」

彼女は1人でそう呟くと、膝の上から立ち上がって僕の体の向きを変えさせた。そのまま後ろからぎゅっと抱き着かれ、彼女の柔らかい胸が僕の背中に押し付けられる。

「どう?ドキドキした?」
「さっきと同じだ。それなりにドキドキしている」
「それなり、ね……」

彼女は不満そうに僕の肩口に額を擦り付けた。その子供っぽい仕草に、自然と笑みが零れる。

「いきなりどうしたんだ?今日は僕を喜ばせる日なのか?」

僕が肩越しに彼女の顔を振り返ると、彼女は笑わないで聴いて欲しいんだけど、と前置きしてから、蘭さんと交わした会話の内容を教えてくれた。
曰く、一般的に胸キュンシチュエーションと呼ばれる行為が、自分達にとっては特別でも何でもなくなっていることが不安なのだと。お互いにときめきが少なくなっている、所謂倦怠期に入ってしまったのではないかと思って不安なのだと、彼女はぽつりぽつりと語った。

あまりにも的外れな心配事に、僕は思わず吹き出してしまった。

「何を気にしているのかと思えば、まったく。倦怠期なんて、そんなことある訳がないだろう」
「だって、私にこうされても、特別にドキドキしたりしないんでしょう?」

むう、と頬を膨らませる彼女に、僕はその腕を外して体の向きを変え、ソファの上で向かい合った。膨らんだ頬をつつき、細い顎を持ち上げて流れるようにキスを仕掛ける。最初は驚いたように目を見開いていた彼女も、心得たように瞼を下ろして僕の唇を受け入れた。

「ん……、零さん……」
「……ふっ。ほら、おいで」

そう言って僕が両腕を広げると、彼女はぽすんと僕の胸に飛び込んできた。それを難なく受け止めて、僕は柔らかい髪を何度も撫でた。

「そろそろ種明かしをしようか。さっき言った通り、僕は君に顎クイされようと後ろからハグをされようと、特別にドキドキすることはない」
「…………」
「でもそれは、“特別”“その時だけ別格に”ドキドキする訳じゃないと言いたかったんだ。つまり僕は、いつもどんな時でも、君の姿を見るだけでドキドキしているんだよ」
「……本当に?」

ここで彼女は目を輝かせて僕を見上げた。不機嫌そうに尖らせていた唇は、今は僅かに笑みの形を浮かべていた。

「ああ。今なんか、密着してるから僕の心拍数が君にも伝わっているだろう」
「確かに、一般的な拍動よりも少し速いような気がするわ」
「そうだろう?だから心配しなくても、僕はいつだって君に惚れているし、君を見ると最初から目が丸々と黒目がちになるんだよ」

安心させるように微笑みかけると、彼女はほんのりと頬を染めて俯いた。やがて彼女の中で納得がいったのだろう、蕩けるような笑みを浮かべながら彼女は大きく首肯した。

「……私も、一緒だわ。あなたを見ると、自然と鼓動が早くなって、ドキドキして」
「うん」
「特別に胸をときめかせることがなくても、私はいつだってあなたに恋をしている。あなたのことを思うと胸がぽかぽかと温かくなって、包まれているような気になれるの」
「はは。随分情熱的な告白だな」
「茶化さないで、ちゃんと聴いて。……ねえ、零さん」

彼女はここで真顔になって、僕の頬に両手を添えた。

「私ね、蘭ちゃんにあなたの好きなところはどこ?って訊かれても、答えられなかったの」
「へえ?それは随分寂しい話だな」
「でも、それって変な意味じゃなくて」

彼女の親指が僕の目尻をなぞる。心地いい声が耳朶を擽り、僕は口を噤んで彼女の瞳をじっと見つめた。

「私はね、毎日、違うあなたに恋をしてるの。昨日はあなたの声に癒されて、今日はあなたの香りに安心して……。そうやって、毎日あなたの色んな所を知って、もっともっと好きになってしまうのよ」

彼女はそう言うと、僕の頬に音を立てて唇を触れさせた。はにかむようなその笑顔を見て、僕はさっきの自分の発言を早くも撤回したくなった。

特別にときめくことはない?それなりにしかドキドキしない?誰が言ったんだ、そんな戯言。

僕はさくらの体をきつく抱き寄せた。その首筋に鼻先を埋め、仄かに香る柑橘系の香りを胸いっぱいに吸い込む。

「零さん?急にどうしたの?」
「すまない、さくら。さっきあれだけ大見得を切っておいて何なんだが」

今、ものすごくときめいた。

彼女の顔を見られないまま呟くと、彼女は一瞬虚を突かれたように息を呑んで、やがて勝ち誇ったように小さく笑った。その余裕の態度が悔しくて、彼女にも僕と同じくらいドキドキさせてやりたくて、僕は彼女の白いうなじに決して弱くはない力で咬み付いた。


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