Dear. 寛乃様

あっ、と上擦った声が漏れた。それまで順調に歩を進めていた脚が止まる。
私の視線の先にあったのは、いつも遠くから眺めていることしか出来なかった憧れの人の姿だった。

(安室さんだ。よかった、今日もこのコースを散歩してたんだ)

今日の安室さんはスポーティーなジャージに身を包み、犬のリードを握って杯戸公園の中のドッグランを走っていた。それが、ポアロで会える時とは全く違う雰囲気を漂わせていて、特にスポーツマン萌えを感じない私であっても思わずどきどきしてしまう。

私はここ3カ月間で、米花町にある喫茶ポアロにしょっちゅう通うようになった。所謂常連客と言ってもいい。お目当てはポアロで提供される梓さんのカラスミパスタ、なーんて健全な理由ではもちろんない。

そう、私のお目当てはただひとつ―――イケメン店員の安室さんに会う事だった。
イケメンで物腰も柔らかくて料理も上手な安室さんの噂は一瞬で広まった。私のような大学生だけでなくJKたちにも大人気で、ポアロの従業員として公然と彼の隣に立つことを許されている梓さんを目の敵にしている子も多い。

だけど、私は知っていた。真の敵は梓さんではなく、他にいるということを。

「ハロ、いいか。今からこのボールを投げるから、取ったらすぐに戻って来るんだぞ」
「アンッ!」
「いい返事だ。いくぞ」

それっ、という掛け声と共に、安室さんの手からゴム製のボールが放たれた。それは青空に放物線を描き、数十メートル向こうのベンチまで飛んで行く。
そしてそのボールは、まるで狙ったようにベンチに座っていた人影の腕の中に納まった。
その人物の顔を認識して、私は安室さんの普段とは違う顔を見られた喜びも束の間、唇をへの字に曲げて鼻白んだ。

(やっぱり、あいつも居た)

あいつ―――安室さんとやけに親しい謎の女・本田さくらは、受け取ってしまったボールと安室さんを交互に見比べた。

「えっ、安室さん、このボール……」
「ほら、ハロ行け!Go ahead!」
「アンッ!」

本田さくらの困惑なんて何のその、安室さんは追い打ちを掛けるように彼女が座るベンチに愛犬を嗾けた。安室さんの命令を受けた犬は猛ダッシュで、本田さくらに向かって走り出す。

「アンアンッ!」
「えっ、ちょっ、待っ……」

いくら小柄とはいえ、元気いっぱいの犬に突進されれば華奢な彼女にはひとたまりもない。ベンチの上に仰向けに倒れ、長い髪が散らばった。

「きゃっ、ハロちゃん、Stop!Stop it!」
「アンッ!」

彼女の胸元に飛び込んだ犬は、取って来いと言われたボールのことなんて忘れたかのように彼女の顔や首筋に体を擦り付けていた。その光景を目を細めて眺めていた安室さんは、満足げに笑いながら本田さくらの居るベンチに向かっていく。

「よーしよしよし、よくやったぞハロ」
「アンアンッ!」
「もう、安室さんってば。いきなり私を巻き込まないでくださいよ」
「すみません、さくらさん。あなたがあまりにも無防備にこちらを見ていたものだから、つい」

安室さんは悪戯が成功した子供のような顔で笑った。その笑顔のまま、犬の脇に手を差し入れて愛犬を抱っこして、仰向けに寝転んだままの彼女に手を差し伸べると、彼女は乱れた髪を押さえながらその手を借りて体を起こした。

その一連の流れがあまりにも自然で、私はぎりりと唇を噛み締めた。安室さんにあんな風に手を差し伸べてもらえるなんて羨ましい、という思いと、見せつけてんじゃねーぞこのバカップルが、という思いが率直に現れた行動だった。いや、本音を言えば本田さくらと安室さんをカップル扱いするのは本意ではないが、さすがにこんなシーンを見せられてまだ勘違い出来るほど、私だっておめでたくはない。

そう、私達安室さんファンにとっての真の敵は、ポアロの同僚である榎本梓じゃない。この、普段はポアロにも顔を見せないくせにやたらと常連面をしている謎の女、本田さくらこそが、私達の真の敵だった。

実を言うと、私がこうして安室さんと本田さくらが一緒に居る所を見るのは、これが初めてのことではない。見かける場所もこの杯戸公園に限った話ではなくて、米花町の堤無津川の河畔公園だったり、米花駅前だったりした。2人で歩いていることもあるが、私が偶然見かけた時は大抵安室さんの愛犬が一緒に居た。

この愛犬というのが、これまた私にとっての天敵である。
見た目は確かに愛くるしい。つぶらな瞳、ちょっとアホっぽい麻呂眉毛、くりんと丸まった尻尾にはあざといくらいの愛嬌を感じるし、飼い主である安室さんや本田さくらに対しては、それらの武器を如何なく発揮してうまく取り入っている様子である。
だけど、一度敵と認識した相手には容赦がなかった。

試しに、これまでの私とあの犬との熾烈な戦いぶりを振り返ってみよう。

私達が最初に干戈を交えたのは、2週間前のことだった。安室さんがこの犬のリードを握り、堤無津川の周りをランニングしていた所を、通学中のチャリの上で見かけたのである。
私は一気にテンションが上がり、進路を大幅に変更して堤無津川に向かった。風景の写真を撮っているように装って、いつもと雰囲気の違う恰好の安室さんを激写出来ないかと思ったのだ。だから、私は川べりから少し離れた所に自転車を止め、スマホのカメラを起動させた。

けれど、私の目論見は外れてしまった。まるで私がカメラを構えていることが解っていたかのように、彼の愛犬はいきなりこちらを振り向き、バウワウと吠えたのだ。突然のことに私は驚き、バランスを崩してその場に尻餅をついた。自転車が倒れて派手な音を立てた。
いたた、と思わず唸ったその時、背後から手が差し出された。

大丈夫ですか、どこか怪我をしていませんか?と、鈴が鳴るような声でその手の持ち主は尋ねてきた。私は他人の目の前で盛大にすっ転んだ気まずさから、素っ気なく大丈夫ですと答えて、自力で立ち上がって砂埃を払った。
それならよかった、気を付けてくださいねと朗らかに笑って、相手はさっき私が凝視していた方向へ―――安室さんとその愛犬のもとへ、小走りで近寄った。今度はあの犬も吠えることなく、その足元に嬉しそうにすり寄った。

それが、本田さくらだった。

私が次にあの犬とやり合ったのは、それから1週間後のことだった。バイトに向かう途中、のんびりと杯戸公園で愛犬の散歩をしている安室さんを見かけたのだ。この時、私は前回の失敗を踏まえ、この前よりも遠い距離でカメラを構えた。
しかし、それでもあの犬は敏感にカメラの存在を察知した。ウウウ、と唸る声が聴こえたと思った時には、あの犬は私に向かって助走をつけて飛び掛かってきた後だった。

うぎゃあ、と色気もへったくれもない悲鳴を上げて、私は踵を返して逃げ出した。50メートルほどの距離を走ってようやく振り返ると、あの犬はまだ歯を剥き出しにしたままこちらを威嚇するように睨んでいた。

そしてその向こうで、本田さくらが安室さんに何かを手渡しているのが見えた。私の見間違いでなければそれは、安室さんがポアロに勤務しているときは大事そうにポケットにしまわれているスマートウォッチだった。

その次にこの犬と鉢合わせしたのは、つい3日前のことだった。その日は珍しく安室さんの姿は見えず、本田さくらがあの犬のリードを握っていた。

(ああそうですか、犬の散歩も代理で任されるほどの仲ってことですか)

遠回しに親密アピールしてんじゃねえよ、と地味にイラっとした私は、ずかずかと本田さくらに向かって歩み寄った。今日はカメラを構えている訳ではないのだから、吠えられる謂れはないだろうと思ったのだ。
そしてそのままの勢いで、さりげなく彼女の肩にタックルをかまそうと思ったその時、あの犬の目が光った。いや、実際にはそんな現象は起こらなかったのかも知れないが、少なくとも私の目にはそう映った。
ギャワン、と前触れもなく一吠えし、あの犬は本田さくらを庇うように前に出た。本田さくらはそれまで私が近寄っていることにも気付いていなかった様子で、突然大声を出した犬の様子に目を丸くしていた。

ハロちゃん、こんなに人が多い所で大声出しちゃだめでしょう?と、彼女はその場にしゃがみ込んで窘めるように犬の背中を撫でた。そしてこちらを見上げると、眉を下げてぺこりと頭を下げた。
すみません、いつもはこんなに吠えたりしない子なんですが。よっぽど腹に据えかねるようなことでもあったのかしら。―――例えば、大事な人を傷付けられそうになったとか。
と、彼女はまるでこちらの悪意を見抜いていたかのようなことを言った。犬に至近距離で吠えられてガチでびびっていたことと、心を読まれたようで気味が悪かったため、私は返事もそこそこにその場を離れた。30メートルほど歩いて振り返ると、彼女もあの犬ももうこちらに興味などなくしたかのように背中を向けて、雑踏の中に紛れ込もうとしていた。

その数メートル向こう側で、彼女に向かって手を振る安室さんの姿が見えた。

そして今日、ここ杯戸公園のドッグランで犬を遊ばせる安室さん(と本田さくら)の姿を見つけてしまったという訳である。2週間という短い期間で鉢合わせし過ぎではないだろうか。ここまでくると運命の皮肉というか、いっそ嫌がらせとしか思えない。

(でも、今日はさすがにこれだけ距離があるし、吠えられることはないよね)

と私は高を括って、ドッグランの柵の外から安室さんに向けて性懲りもなくカメラを構えた。だって、こんなにリラックスした様子の安室さんを、本田さくらに独占されるのはどうしても嫌だったのだ。

そうして安室さんの横顔にピントを合わせようとして、私は彼の顔がこちらを向いていることに気付いた。その目と口は驚きに丸くなっていた。

「あっ、ハロ!こら、Wait!」

安室さんの焦ったような声がしたかと思うと、聞き覚えのありすぎる唸り声が段々と近寄ってくるのが解った。カメラに集中していたせいで、本田さくらの腕の中にいた安室さんの愛犬がこちらに駆け寄ってくるのに全く気付いていなかったのだ。

「ワウワウッ!!」
「ひえええええっ」

歯を剥き出しにして駆け寄ってくる姿を認め、私は即座に逃げ出した。これで何度目だ、いつもいつも邪魔しやがって、と毒づきながらも、その声が聴こえてこない距離まで脇目もふらずにひた走る。そうして公園の出口付近まで来て振り返ると、あの忌々しい犬は得意げに「アンッ」と鳴き、額を安室さんの足元に擦り付けていた。安室さんは苦笑しながら犬の背中をわしゃわしゃと撫でた。

今日も今日とて撃退されてしまった私は、ぐぬぬと唇を噛み締めながらすごすご引き下がらざるを得なかった。これ以上ここに長居して、安室さんに妙な疑いを持たれたくはなかったのだ。

(今日のところはこれで退散してあげるけど、次こそは覚えてなさいよ!)

きっといつか、あのおっかない犬の目を出し抜いて、安室さんのオフショットを手に入れて見せる。そう決意を新たにして、私は杯戸公園を後にした。

だから、私は知らなかった。私が立ち去った後の公園で、こんな会話が交わされていたことを。

「よくやったぞ、ハロ。お前は本当に優秀な番犬だな」
「アンッ!」
「あーあ、可哀想に。彼女はきっと、毎回あなたがハロちゃんをけしかけているなんて、夢にも思っていないでしょうね」
「人聞きの悪いことを言わないでください、さくらさん。僕はただ、穏便にことを済ませようと思っているだけですよ」
「……とても“ゼロ”らしいやり方ですね」
「お褒めに預かり光栄です」

本当におっかないのはあの犬ではなく、安室さん本人なのだと私が知るのは、もうしばらく先のことだった。


BACK TO TOP