Dear. まゆな様

不機嫌そうな声に呼び止められたのは、昼食にポアロで零さんお手製のサンドイッチを味わって、幸せな気分でお店を出た5分後のことだった。

「ねえ、ちょっと。アンタさぁ」
「はい?」

振り返った先に立っていたのは、さっきまでポアロで賑やかにお茶をしていた女性客の3人組だった。私に声を掛けてきたのは眼鏡を掛けた背の高い女性で、その後ろに派手なメイクの女性と、最後尾に清楚なワンピースに身を包んだ女性が立っていた。
彼女たちはここ半年の間に、ポアロに通うようになったお客様である。いつも零さんに熱い視線を向けているとは思っていたものの、まさかこのパターンは―――。

「アンタさ、安室さんに媚売りまくってベタベタしてるけど、どういうつもり?」

眼鏡の女性が険しい眼差しで告げた台詞に、私は零れそうになった溜息を飲み込むために天を仰いだ。

(まさかじゃなかった……)

こんな風に、ポアロのお客様に零さんとのことで絡まれるのは初めてのことではない。最初は私が零さんの代わりにバイトに入っている時に、自称常連とかいう女性客にとんでもないクレームを付けられたのである。あの女子高生達の時は、ギルバートの力を借りて脅してやったらその後は一切姿を見せなくなったが、今回はどう対処したものか。
こういうのは下手に刺激をしない方がいいだろう。私はできるだけ表情を変えないまま、落ち着いた声で返答した。

「どういうつもりもこういうつもりもありません。私はあなたたちと同じ、ただのポアロの常連客ですよ」

こういう所で零さんとの関係をバラすような真似は悪手である。今のご時世、口コミというのは恐ろしい威力を持つものだ。ポアロの看板である“安室さん”にスキャンダルが発覚したら、それだけで客足が遠のく可能性は大いにある。
だから私は堂々と嘘を吐いた。私の迂闊な言動のせいで、ポアロに迷惑が掛かるような真似は避けたかった。

私の返答を聴いた眼鏡の女性は、胡散臭そうに唇をへの字に曲げた。派手なメイクの女性が後を引き取る。

「常連?その割に、あんたの姿を見かけたことなんて滅多にないんだけど?」
「私は普段、日本に居ないので。帰国した時くらいしかポアロに顔を出せないんです」
「ケッ!はいはい、そういう自慢はいいから。いい?あたし達が言いたいのはね」

ここで派手なメイクの女性は一呼吸置いた。腰に手を当てて、ずい、と身を乗り出してくる。その気迫に圧されて数歩下がると、路地裏の壁に背中がついた。すかさず顔の横に勢いよく手を突かれ、風圧で髪が舞い上がる。

あれ、この体勢はまずいのでは。通りからも近くの店内からも死角に入り、誰もこの現場を見咎めることが出来なくなった。
私のそんな焦りを知ってか知らずか、目の前の彼女はゆったりとした口調で居丈高に言った。

「ただの常連客のくせに、あんな特等席に座って安室さん独り占めしてんじゃないわよ。他の店員ともやけに親しそうだったのも、どうせ安室さんに取り入るためなんでしょ」

他の店員というのは、恐らく梓のことを言っているのだろう。私がポアロで勤務していたことを知らないだけならまだしも、“安室さん”よりもよっぽど長く勤務している梓の事を他の店員呼ばわりするなんて、彼女たちは本当に“安室さん”の上っ面しか興味がないのだとここで確信した。

「取り入るなんて、そんなつもりは」
「言っとくけどね」

私の言葉を遮って、派手なメイクの女性は一番後ろに立っていた清楚系の女の子を指差した。

「この子はあんたなんかよりずっと前から、安室さんのこと見てたんだから。だから、たまにしか顔を見せないあんたなんかよりも、よっぽど安室さんと仲良いの。今更あんたの割り込む隙間なんてないから、今後一切安室さんに近付かないで!」

その言葉に、私は改めて清楚なワンピースに身を包んだ彼女に目を向けた。一見大人しそうに見えた彼女は、よく見ると誰よりも憎しみの籠った目で私を睨み付けていた。

(なるほど、この子がこの3人のボスなわけね。正直、一番関わりたくない人種なんだけど……)

大人しそうに装っている野心家ほど面倒くさいものはない。どうあしらおうかと私が考えを巡らせていると、これまで一言も発していなかった清楚系ボスがこちらに向かって歩いてきた。

「安室さんって、ラテアートが得意なんです。あなた、そのことは知ってました?」
「…………。いいえ」
「私がお願いしたら、あの人は何でも描いてくれるんです。動物でも、花でも、何でもね」
「はあ」

思わず漏れてしまった気のない返事が気に食わなかったのか、彼女はキッと眦を吊り上げて私の髪に手を伸ばしてきた。前髪を鷲掴みにされ、額に鋭い痛みが走る。

「いっ……!」
「それで、私はあの人にいつもこうお願いするんです。ハートマークを描いてほしいって」

言いつつ彼女は私に自分のスマホ画面を向けてきた。痛みに閉じていた瞼を開いて画面を見ると、そこには確かに可愛らしいハートマークの描かれたホットラテの写真が表示されていた。
それを見て、さすがの私も少し怯んだ。こんなことで零さんの浮気を疑うつもりは全くないが、他の女にこんな思わせぶりなことをしているのを見て平静でいられるほど、私も人間が出来ていない。
私が多少なりともショックを受けたのを感じ取ったのか、彼女はすっぴん風に仕上げた目元をにやりと歪めた。

「これであなたも解ったでしょ?安室さんの本心が。だったらこれ以上痛い目に遭う前に、さっさと身を引いたほうがいいんじゃないですか?」
「…………」
「さもなければ、そのお綺麗な顔に傷が付くことになりますけど」

恐ろしいことを言いながら、彼女は私の前髪を掴む手に益々力を籠めた。痛みから目尻にうっすらと涙が浮かぶのが解って、こんな女のせいで泣きそうになっていることが言いようもなく悔しかった。
早く何かを言わないと。とにかくこの場を何とか穏便におさめようと、私は必死に頭を働かせた。

けれど、私が口を開くより早く、路地裏に人影が差した。

「その手を離してくれませんか。彼女は僕の大事な人なんです」

その声に、私を取り囲んでいた3人組は一斉に肩を跳ねさせた。面白いように同じ表情で固まった彼女たちは、恐る恐る声のした方を振り返り、そして小さな悲鳴を上げた。
彼女たちの視線の先に立っていたのは、満面の笑みを湛えた“安室さん”だった。ここはポアロからは少し距離が離れているはずだ。だから当然、勤務中の彼には私が彼女たちに囲まれれているこの現状が見えていない。なのに、どうして彼がここに居るのだろう。

その時、私の首許でヘッドホンがヴヴヴと震えた。それだけで察した。ギルバートが零さんのスマートウォッチに向けて、私の窮状を発信してくれたのだと。

固まったまま動かない私達を見て、零さんは苛立たしげに靴底で地面を叩いた。

「聴こえませんでしたか?僕はその手を離してくださいと言ったんです」

口許は確かに笑っているのに、その声は絶対零度の冷たさを纏っていた。つまり摂氏マイナス237.15度である。

「は―――、はいっ」

蛇に睨まれたカエルのごとく、清楚系ボスは私の前髪からがちがちに強張った手を離した。私を壁際に追いやっていた派手なメイクの女も体をどけ、零さんと向き合う。
零さんはつかつかと乱暴な足取りで私の元へ歩み寄ると、彼女たちから私を隠すようにすっぽりとその腕で覆ってくれた。
その優しい温度に背筋を震わせる私の頭を撫でて、彼は3人組に鋭い視線を向けた。

「寄ってたかって1人の女性を脅すのは、楽しかったですか?」
「あ……、あの」
「わ、私達、そんなつもりじゃ……」
「そんなつもりじゃなければ、一体何のつもりだったと言うんですか?さっきの体勢はどう見ても、穏当に話し合いをしているようには見えませんでしたが」
「あ、あたし達はただ、安室さんに纏わりつくその女に注意してただけなんです」
「ほぉー、注意、ですか」

この期に及んで見苦しい嘘を吐く女達に、彼は皮肉げに口端を吊り上げた。

「僕が聴いていた限りでは、あなた達はこの女性に対して、身を引かなければ今日以上の痛い目に遭わせる、と言っていたように思えるのですが?」
「そ、それは、口からでまかせで」

まだうだうだと言い訳を続ける彼女達の態度に、零さんはとうとう笑顔の仮面を脱ぎ捨てた。

「刑法208条、暴行罪。暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する」
「ひっ」
「それから刑法222条、脅迫罪。生命、身体、自由、名誉又は財産に対し害を加える旨を告知して人を脅迫した者は、2年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処する」

すらすらと法律の知識を披露する零さんの横顔を、私は呆然と見上げた。“安室透”の顔しか知らない彼女たちには、彼がどうしてこんなに刑法に精通しているかなんて、想像もつかないことだろう。

「あなた達のやったことは、これだけの重大な罪に問われるべき行為なんです」
「……あ、」
「あむろさん、」
「僕が出るべき所へ出れば、あなた達はそれだけの罪を償わなければならない」
「…………!」
「れ―――安室さん、そのくらいで」

今にも泣き出してしまいそうな3人組を見ていると、さすがに可哀想になってきて、私はもういいから、と言いながら零さんの袖を引っ張った。けれど零さんはそれくらいでは聴く耳を持たなかった。

「いいえ、さくらさん。僕は自分の大事な人を傷付ける相手に対し、容赦をするつもりはありません」
「落ち着いてください、安室さん。それ以上言うと、あなただって脅迫罪に問われます」

私の窘める声に、零さんは漸く冷静さを取り戻してくれたようだった。それもそうか、と小さく頷き、また3人組に向き直る。

「いいでしょう。今ならまだ、彼女にきちんと謝罪をすれば見逃してあげます。ですが、今後も態度を改めないつもりなら―――」

その先は言わなかったが、彼の言いたいことは十分すぎるほど3人組に伝わった。彼女達は引き攣ったような声を上げ、ぼろぼろと涙を零しながらその場に泣き崩れた。

「ご、ご、ごめんなさぁぁぁい」
「謝るから、謝りますから、これ以上嫌いにならないでぇ」
「もうその人に因縁ふっかけたりしないからあああ」

わんわんと泣き出した3人組に、通行人が何事かと路地裏を覗いていく。けれど零さんの腕の中で縮こまる私を見れば、どちらに非があったのかは一目瞭然だったらしい。すぐに彼らはもと来た道へと戻って行き、その場にはしくしくとすすり泣く声だけが残された。

「その言葉、決して忘れないでくださいよ」

不機嫌を隠しもせず、零さんは私の手を引いてその場を離れた。歩幅の大きい彼に付いていくのは大変だったが、私も小走りでその後ろに従った。ポアロへ向かっているのかと思ったが、どうやら反対側へ行こうとしているらしい。
5分ほど歩いて辿り着いたのは、元々の私の目的地である米花駅だった。私を気遣ってここまで送ってくれたのだ、と気付いてお礼を言おうとすると、被せるように零さんが口を開いた。

「言っておきますが」

未だにむすっとした顔つきの零さんは、私の髪を一房掬って指先で弄んだ。

「僕はお客にラテアートを頼まれることはあっても、絶対にハートマークなんて描いたことはありませんよ」

その言葉に、私はきょとんと目を丸くした。徐々にさっきの3人組との会話を思い出し、ああ、と頷く。

「あの清楚系ボスとの会話、あなたも聴いていたんですね」
「はい、ギルバートのマイクから。念のために録音もしておきました」
「さすが安室さん、抜かりないですね。……それじゃ、あの写真は」

本当に零さんが描いたのかと思ってショックを受けたあれは、零さんが提供したものではなかったということだろうか。私のそんな疑問に、零さんは強い口調で答えてくれた。

「それは恐らく、梓さんがサービスで描いたものです。ですがさっきの女性は、あれを僕が描いたものだと言い触らして、他のお客さんにも絡んでいたようだったので、どのタイミングで、どうやって止めさせようかと思っていたんです」
「それならグッドタイミングでしたね。絡んだ相手が私なら被害も最小限で済みますし、これに懲りてもう二度とポアロには近寄らないでしょうし」

飄々と嘯く私に、零さんは顔を歪めて軽く頬を抓ってきた。

「そういうことを言わないでください。さくらさんに手を出されるのが、僕にとっては何よりも痛いんですから」
「安室さん……」
「あなたが無事で、本当によかった」

私の顔のすぐ横で、彼の拳が握られるのが解った。こんな人目に付く場所でさえなければきつく抱き締めていたのに、と言わんばかりの眼差しに、頬がじわじわと熱くなる。

「……はい。助けていただいて、ありがとうございました」

このお礼はまたの機会に、と告げて時計を見る。乗ろうと思っていた電車はとっくに行き過ぎてしまっていて、次の電車ももうすぐ到着しそうだった。そんな私を見て、彼は小さく手を振った。

「それじゃ、行ってらっしゃい」
「ええ、行ってきます。安室さんも、バイト頑張ってくださいね」

そう言って私は彼に背を向け、改札を抜けた。電車が到着するアナウンスに急かされるようにプラットホームへ向かい、列の最後尾に並ぶ。

思いがけないトラブルに巻き込まれた時はどうしようかと思ったけれど、助けに来てくれた零さんはまるで王子様のように恰好よかった。その光景を思い出して胸を熱くしながら、私はやって来た電車に乗り込んだ。

それ以降、件の3人組は一度もポアロに近付くことはなくなったという。そしていつしか、私は女性客の間で“手を出してはいけない人”として認定されていくことになるのだが、そんな情報が私の耳に入って来ることは一切なかった。


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