Dear. ミユ様

「さくらさん、明日の昼間はお暇ですか?もし良ければ、ショッピングに付き合ってもらえると有り難いんですが……」

恋人である零さんにそんな話を持ち掛けられたのは、ポアロで私が開発中のソフトウェアのバグを一生懸命修正している最中のことだった。一旦休憩したらどうですか、との言葉と共に差し出されたコーヒーに口を付け、ありがとう、と微笑み返す。そんなありふれたやり取りのあとに、唐突にそんな提案をされて、私はきょとんと目を丸くした。

「ショッピングですか?」
「はい。実は、探偵の仕事で潜入捜査を依頼されまして」
「潜入捜査?」
「ええ。そのための下準備を、さくらさんに手伝ってもらいたいんです」

詳しく話を聴いてみれば、今回の依頼を最初に引き受けたのは彼ではなく、彼の(一応)師匠にあたる毛利さんだったらしい。毛利探偵事務所に今回の依頼主が訪れたのはつい昨日のことで、やって来たのは初老の男性と、私と同年代の女性が1人だったそうだ。そして驚くべきことに、彼らは東都大学の教授と学生だと名乗ったのだという。

「東都大学の?」
「はい。さくらさんの母校ですよね」
「ええ。でも、大学の教授と学生が、一体どんな事件の依頼で毛利さんの所へ来たんですか?」

うちの大学で毛利さんほどの有名人が駆り出されるような事件が起きたなんて、聴いたことがない。私が首を捻っていると、零さんはここで一旦周囲に視線を走らせた。誰もこちらを注視していないことを確認し、私の耳許に口を寄せる。

「ここだけの話なんですが……、大学の重要図書が窃盗の被害に遭っているそうです」
「えっ?」
「図書館のゴミ箱に、貸出用の本に付けられているタグが捨てられていたんだとか」

はあ、と私は小さく頷いた。うちの大学の図書館の蔵書は、タグが付いたまま図書館の外に持ち出そうとすると警報が鳴るシステムになっているため、犯人はわざわざその部分を切り取って本を持ち出したのだ。そして他の学生がそれに気付き、教授に相談したのだという。

「でも、図書館にはカメラが設置されていますよね?」
「防犯カメラにもそれらしい人物が映っていないので、大学としても犯人に目星が付けられないんですよ」
「それでどうして毛利さんに潜入捜査の依頼が来たんですか?警察に通報したらいいんじゃ?」
「そこが今回のややこしいポイントなんです」

零さんは再び体を屈めた。吐息が耳朶を擽って、私は小さく首を竦める。

「大学の図書館ということは、市営の図書館と違って誰でも気軽に入れる空間ではないでしょう?」
「あっ」

今度こそ得心がいった。大学の図書館の入り口には、学生証や職員証のコードを読み取るためのゲートが設けられているのだ。つまり、中に入ってそんな窃盗を犯すことが出来るのは、学生もしくは職員の誰かということになる。防犯カメラに犯行現場の映像が残っていないことからも、犯人はカメラの死角を熟知している人間か、カメラのデータを操作できる立場の人間ということが窺えた。内部犯の可能性が高いから、大学側も下手に警察に捜査を依頼して、大事になるのを嫌ったのだろう。

そこで穏便に捜査を進める探偵として白羽の矢が立ったのが、誰あろう毛利小五郎だったという訳である。

「事情は把握しました。でも、どうして安室さんが担当することになったんですか?」

私が当然の疑問を口にすると、零さんは体を起こし、わざとらしく肩を竦めてみせた。

「ちょうどその時、毛利先生の事務所に差し入れを持って行ってたんです。そうしたら、偶々依頼人が来る時間と被ってしまって。僕だったら大学の図書館に居てもおかしくない風貌だからって、事件を丸投げされてしまったんですよ」

私は苦笑とも微笑みともつかない表情で零さんを見上げた。毛利さんの言い分は解理解できるけれど、忙しいこの人に更なる仕事を押し付けるのは、出来ればやめて欲しかった。

「そういう訳で、僕は今度大学生として東都大学の図書館に張りこむことになったんですが、今時の大学生がどんな格好をしているのかよく解らなくて。それで、現役の学生であるさくらさんに、服装のレクチャーを受けたいなと思ったんです」

なるほど、そうした経緯で冒頭の発言に繋がったのか。私はふむ、と顎に手を当てて、零さんの普段の服装を思い浮かべてみた。

彼はご覧の通りの童顔だし、特に新しい服を購入しなくても十分学生で通用すると思うのだが。大学は10代の若者から、70代の教授まで様々な年齢の人が集まる場である。沖矢昴だって、零さんよりもずっと年上のような見た目だけれど、堂々と院生として名乗っているのだ。零さんなら、何も頓着する必要はないように思った。
私のそんな考えを見抜いたのか、彼は先手を打って朗らかに笑った。

「というのは体のいい口実で、単純にあなたとショッピングデートを楽しみたいというのが本音なんですけどね」
「っ、」

急に声音を変えて迫られると、慣れているはずの私でさえ、ついつい赤面してしまう。そんな私の反応を面白がるように、彼は芝居がかった仕種で私の手を取った。

「あなたの色で、僕を染めてくれませんか?」

この男にこんな口説き文句を言われてちょっとでもグラつかない女がいるならば、是非目の前に連れて来て欲しい。そんなたらればを言ってみたくなるほど、零さんは完璧な笑顔で迫ってきた。けれど、ここで私の生来の負けん気がむくむくと顔を擡げてきた。ただ諾々と頷くのは面白くない。
私はぐっと顎を引くと、彼の整った顔を上目遣いで見据えた。

「解りました。でも、こちらにも条件があります」
「条件?」

彼は私のそんな反応を予想していなかったのか、面食らったように目を瞬かせた。

「ええ。あなたが東都大学の図書館に行く時、私も連れて行ってください」

私は大学の客員研究員なので、図書館にも問題なく入ることが出来るし、私が現場に居たほうがギルバートの力も存分に借りることが出来る。

「足を引っ張るようなことはしませんから、お願いします」
「それは初めから心配していませんが」

いいんですか?と戸惑い気味に訊き返されて、私はにっこりと微笑んだ。

「はい。あなたの仕事が早く片付くのなら、ぜひお手伝いさせてください」
「……解りました。さくらさんが力を貸してくれれば百人力です」

初めは私が同席することに消極的だった零さんは、ここで完全に腹を括ったようだった。

「それならこうしましょう。僕の服を選ぶ時に、さくらさんの服も僕に選ばせてください」
「え?」
「今回は潜入する場所も場所ですし、目立たない服装にする必要があるんです。でも、さくらさんの私服はそういう向きではないでしょう?」
「……まあ、確かに」

派手好みをしている訳ではないが、肌の一部を見せる服や体にフィットした恰好を好んでいる自覚はある。そうでないととんでもなく太って見えるのだ、主に胸に付いている脂肪のせいで。男性に服を選んでもらうなんて初めての経験だが、零さんが相手ならきっと間違いはないだろう。
私がその気になったのを見て取って、零さんは自信満々に口端を吊り上げた。

「それじゃ、明日の11時にさくらさんの泊まっているホテルに迎えに行きます。先にランチをして、それから買い物に行きましょう」
「解りました。お待ちしています」

私は殊勝に微笑んで頷いた。理由はどうあれ、零さんとショッピングデートが出来るのだ。折角だから、心ゆくまで楽しんでやろうじゃないか。
こうして私と零さんは、お互いを地味に、目立たないように見せるための服装を選びに、ショッピングデートをすることになったのである。



翌日、零さんに連れて来られたのは駅前の大きなデパートだった。紳士服もレディース服も豊富に取り揃えられているし、レストラン街も充実していることから、移動も楽でいいだろうとのことらしい。

「安室さん、ここに行ってみませんか?」

私はフロアガイドにざっと目を通し、アメリカの若者に人気のあるメーカーのお店を指差した。普段着やスーツ以外にも、香水などの嗜好品の分野で高い評価を得ているブランドである。

「カルバン・クラインですか。若者に人気のブランドですね」
「ええ。いつもの安室さんの恰好よりも、だいぶラフな印象になるんじゃないかと思います」

それにここなら、メンズ服以外にウィメンズ服も取り扱っている。どうせ普段と違った服装を選ぶなら、同じメーカーで揃えてみるのもいいんじゃないかと思ったのだ。
私の提案を受けて、零さんはにっこりと微笑んだ。

「妙案ですね。早速行ってみましょう」

連れ立ってお目当てのアパレルショップへやって来ると、私は早速ジャケットのラックに近寄った。

「こんなタイプのジップアップジャケットはどうですか?中にセーターを合わせて、細身のジーンズを履いたら、上下のバランスも良さそうですよ」
「いいかも知れませんね。色使いも抑えているから、そう目立たずに済みそうだ」
「安室さんは髪の色が明るいから、服の色は控えめでも全体的に暗くならなくていいですよねー」

私は彼の体の前でジャケットをいくつか合わせて、うん、と1人で頷いた。

「やっぱりこれかしら。長い手足が映えてとても素敵よ」

私が太鼓判を押すと、彼は満足げな顔でそれを受け取り、今度はさくらさんの番ですね、と言って私の肩を押した。

「さくらさん、カーキ色のジャケットなんて持ってました?」
「カーキはブラウスとスカートくらいしか持っていませんね。1枚持っておくのもいいかも……」
「よく似合ってると思いますよ。ほら」

神妙な顔で考えこむ私の後ろから、零さんはジャケットを持って鏡の前に私を誘導した。背後から抱き締められるようなポーズで服を体の前に合わせられて、鏡の中の零さんと私の視線が絡まる。急に距離を詰められて、自分の頬が赤く染まっていくのが嫌でも解った。
そんな私を見て、零さんは肩に置いていた手を下に滑らせた。二の腕をなぞり、手首まで撫で下ろすと、動けない私の指に自分の指をねっとりと絡ませる。

そして、吐息混じりの声で私の耳許に囁きを落とした。

「まあ、脱がせてしまえば何を着ていても同じだがな」
「…………っ」

ぞく、と背筋を悪寒が走り抜けた。こんな場所で、こんなに明るいうちから何てことを言うのだろう。慌てて耳を押さえ、体を捩って彼の腕から抜け出すと、私は涙目で意地悪な恋人を睨み付けた。

「……安室さんのえっち」
「はは、すみません。さくらさんが可愛らしい反応をするから、つい」

揶揄われているのだと解っていても、彼の言葉に翻弄されてしまう自分が悔しかった。私はぐぬぬ、と唇を噛み、零さんの腕をポカポカと叩いた。

「もう、早く買ってこのお店から出ましょう。店員さんの視線が痛いわ」
「あはは、解りました。会計を済ませてくるので、そのジャケットもこちらに預けてもらえますか?」
「えっ、私の服は自分で支払いますよ」
「いえいえ、捜査に付き合ってもらうのはこちらですから。お礼にプレゼントさせてください」

そう言うと、彼は有無を言わせない笑顔で私の手からカーキのジャケットを奪っていった。それなら今回は、彼の言葉に甘えさせてもらうとしよう。年上の男性としてのメンツもあるのだろうし。

「お待たせしました。それじゃ、行きましょうか」
「ええ、ありがとうございます」

零さんはすぐに会計を終えて、私の元に戻ってきた。お揃いの紙袋を肩から提げて、意気揚々とショップを出る。今回は潜入捜査のための服装選び、という名目だったけれど、そんな色気のない目的でさえもこうして楽しいデートに変えてしまうのだから、零さんの発想には感心させられてばかりいる。

「この捜査が終わったら、またこの服を着てどこかに出掛けてみましょうか」
「いいですね。どこかにハイキングに行くのはどうかしら」
「ああ、それは楽しそうだ。その時は僕がサンドイッチを作りますよ」
「それなら、私はデザートを作って持って行きますね」

他愛も無い未来の約束を交わしながら、私達は手を繋いでデパートの中を歩き回った。穏やかな午後のひとときを一緒に過ごせる幸せを噛み締めるように、私達はぴたりと寄り添っていた。


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