Dear. ハル様

私はとある居酒屋の引き戸を開け、中に居た店員さんに声を掛けた。

「すみません。萩原さんって方はこちらにいらっしゃいますか?」

ここは私の実家から電車で3駅ほど離れた、繁華街の中の居酒屋である。なぜ私がこのお店に来て、萩原さんという方を訪ねているのかと言うと、話は30分ほど前に遡る。

つい先程、家のデスクトップパソコンで開発中のアプリの挙動をテストしている最中に、“安室透”のアカウントから萩原と名乗る人物のメッセージが届いた。曰く、警察学校時代の同期で飲み会をしているのだが、3徹明けで参加していた零さんが眠ってしまったのだという。だから恋人である私に迎えに来て欲しいと、要約するとそんな内容のメッセージだった。

ギルバートに確認を取ってみると、零さんが今日、同期の方々と飲みに行って、途中で寝落ちしてしまったというのは事実であるらしい。そこで私は実家を出て、ギルバートの案内でここまでやって来たという訳だ。

店員さんが冒頭の私の質問に答えようとしたのと同じタイミングで、入り口付近にあったトイレのドアが開き、中から男性がのそりと出てきた。

「ああ、萩原様でしたら奥の個室の、」
「ん?」
「?」
「今、萩原って言った?」

店員さんの声を遮ったのは、トイレから出てきたばかりの男性の声だった。男性は私の顔をまじまじと見つめ、やがて短く納得したような声を上げた。

「あ!ひょっとして、降谷の彼女?」
「え?……ええと、はい」

降谷零の名前をこんな場所で出してもいいものか解らず、曖昧な返事をする私の肩を、男性は力強い手で掴んだ。

「えー、すっげえ美人じゃん!散々可愛い可愛いって聴かされちゃいたけど、ここまでとはなー!」
「あ、ありがとうございます?」
「あっ、ごめんなこんな入り口で。こっちこっち」

男性に肩を押されるまま、私は戸惑い気味に歩を進めた。奥から聴こえてきた賑やかな声に、おずおずと中を覗き込む。
掘り炬燵を囲んで座っていたのは、3人の男性だった。煙草を口に咥えたくせ毛の男性、癖のないサラサラヘアの髭を生やした男性、体格のいい眉毛の太い男性の3人である。仲睦まじく談笑する様子を外から眺めていると、その空気を敢えて壊すかのように、私の肩を掴んでいた男性が大声を張り上げた。

「はーい、ちゅうもーく!待望の降谷の彼女、ご到着でーす!」
「っ!?」

耳元で響いた突然の大声に驚く間もなく、彼は私の体をずい、と押し出した。その場で踏ん張ることも出来ずに、私はたたらを踏みながら室内へと足を踏み入れる。

「あ?降谷の彼女?」
「萩原お前、本当に呼んでたのかよ、って……」
「え、ゼロの彼女?どんな人……」

各々が思い思いの反応をしながら振り返る。しかし私の顔を見た途端、3人ともぴたりと動きを止めてしまった。私は人見知りする方ではないけれど、初めて会う人達ばかりに囲まれて平然としていられるほど強心臓でもなかった。まして相手が零さんの友人というなら猶更である。

「こ、こんばんは。零さんとお付き合いをさせてもらっています、本田さくらといいます」

簡単に名乗って頭を下げる。こんな風に零さんのお身内に自己紹介をしたことなどなかったから、妙に緊張してしまう。そんな私の背中を叩いたのは、私をここまで案内してくれた男性である。確か名前は、萩原と呼ばれていただろうか。

「そーんな畏まらなくたっていいんだぜ?ほら、こっちに座った座った!」
「でも、あの、零さんは」
「降谷ならそこで寝てるよ。ほら、さくらちゃんが来たのも気付かずぐっすりと」

そこ、と言って萩原さんが指さしたのは、髭を生やした男性の向こう側だった。座布団を枕にして、彼はこちらに背を向けるように横になっていた。
ほっと小さく息を漏らし、私は零さんの元へ歩み寄る。この人が酔い潰れるなんて珍しい。ギルバートの話によれば、彼はここ数日眠っていなかったということだし、よっぽど疲労が溜まっていたのだろう。気の置けない仲間達との飲み会ということで、緊張の糸が切れてしまったのかも知れない。

「それじゃ、私は零さんを連れて帰りますね」
「ええー、そんなこと言わずにさぁ。折角だし、俺らもさくらちゃんと話したいな」
「でも……、私は部外者ですし、突然混ざったらご迷惑なんじゃ?」
「迷惑だったらそもそも呼ばないって!な?」

萩原さんは綺麗に片目を瞑り、残りの3人の顔を見回した。何故か一様に沈黙を保ったままの3人は、それでも彼の言葉にこくりと頷いた。

「ほら、決まり!さくらちゃんも、遠慮せずに何か飲み物注文しちゃってよ」
「……ありがとうございます。それじゃ、1杯だけ」

朗らかに笑う萩原さんの笑顔に、私は根負けして肩の力を抜いた。零さんはこんな友人に囲まれて仕事をしているんだな、と思いながら、私は髭面の男性の隣に腰を下ろした。

「そんじゃーまずは自己紹介からだな!俺は機動隊所属の萩原研二。降谷からはハギって呼ばれることもあるぜ。ホラ次、時計回り!」
「あ、ああ。初めまして、ゼロの幼馴染の諸伏景光です。ゼロに彼女が居るとは聴いてたけど、こんなに綺麗な人だとは思わなかった」
「おいおい、降谷の彼女を口説くのはそこまでにしておけよ。俺は伊達航。警視庁刑事部の捜査一課に所属してるぜ。こん中じゃ唯一の既婚者だな」
「サラッと自慢すんな。俺は松田陣平。萩原とは同僚だ。降谷の彼女っつーから、どんなゴリラみてーな女が来るかと思ってたのに、当てが外れたな」

最後に自己紹介をしてくれた松田さんは、喉の奥で笑って煙草の灰を灰皿に落とした。

「ご、ゴリラ?どういう意味ですか?」
「降谷自体が身体能力とか体力とかゴリラ染みてるだろ?その降谷と付き合ってられる女なんて、同じくらい腕っぷしが強い女かと思ったんだよ」

零さんを形容するには馴染みのない単語に、私は思わず吹き出してしまった。

「ふふ……っ、零さんをゴリラだなんて、あはははっ」

モデルだの王子様だのと言われることはあっても、ゴリラなんて野性的な生き物に例えられるのを聴いたのは初めてである。流石は気心の知れた友人同士と言うべきか。
私の笑いが収まったのを見て、萩原さんは早速と言わんばかりに身を乗り出した。

「さくらちゃんは、どこで降谷と知り合ったんだ?」
「零さんがバイトをしている喫茶店です。私も元々、あそこでバイトをしていたので」
「ああ、あのポアロとかいう喫茶店な。そんなら初めに会った時は、降谷零としての顔は知らなかったんだな」
「あ、でも、その日のうちに本名と職業について教えてもらいましたよ。零さんの方からビジネスパートナーになってくれ、って持ち掛けられたんです」

私の言葉に、4人は一様に目を丸くした。あの警戒心の強い降谷がか、と伊達さんが呆気に取られたように呟く。

「初対面の相手に自分の名前を許すなんて、よっぽど君のことを信頼してたんだな」
「ああ。俺もゼロとは長い付き合いになるけど、あいつが他人に対して、初めからそんなに心を開いてる所なんて見たことないな」

あれで心を許してくれていたとは到底思えないけれど、確かに初めて会った人間に自分の本名や所属を明かすということは、ゼロに所属する捜査官としてはかなりのレアケースなのだろう。あの時はこんな関係になるなんて思ってもみなかったけれど、出会った瞬間からお互いに何か帰するところがあったのかも知れない。

くすぐったさに口元が緩みそうになるのを堪えながら、ちびちびとラムコークに口を付けていると、不意に背後から衣擦れの音が聴こえてきた。ようやくお目覚めか、と思って振り返ろうとするが、それより先に力強い腕が私の腰に巻き付いた。

「きゃ、」
「……なんでさくらがここに居るんだ?」

私を背中から抱きしめつつ、眠気の抜け切っていない声で彼は当然の疑問を口にした。私はラムコークをテーブルの上に避難させ、肩口に埋まった頭を後ろ手に撫でた。

「ふふ。あなたを迎えに来たのよ、寝坊助さん」
「……、そうか……」
「ちょ、ちょっと零さん、苦しい……」

ぎゅううう、と腹部を抱き寄せる腕に力が籠り、思いっきり伸し掛かられる。密着した部分から彼の鼓動が伝わってきたが、今はそれにときめいている場合ではなかった。

「待って、起きたんなら帰りましょう?ほら、一旦この手を離して」
「んー?んー……」

私の訴えが聴こえているのかいないのか、零さんは更に体重を掛けてきた。このままだと押し潰されそうだ、と思った時、寝惚けた零さんの頭に容赦のないチョップが落とされた。

「痛っ!……何だよ、ヒロ」
「こら、ゼロ。彼女を困らせるなよ」

呆れたように目を眇め、チョップした形のまま手を上げていたのは景光さんだった。萩原さんと松田さんはニヤニヤしながら私達を見つめていて、伊達さんは額を押さえて俯いている。

「嘘だろ……。あの降谷が、いくら酒が入っているとは言え、彼女相手だとこんな態度になんのかよ」
「いやー、いいもん見させてもらったわ。降谷、いちゃつくのは構わないけど、せめて家まで我慢しろよー」
「俺も萩原に同感だ。タクシー捕まえてやっから、降谷は帰る支度をしろ」
「…………。チッ」

松田さんがタクシー会社に連絡を入れ始めると、耳元から舌打ちの音が聴こえてきた。子供っぽい態度に苦笑しつつ、若干腕の力が緩んだ隙に背後を振り返る。

「あなたのコートはどこ?取って来るわ」
「そこの、ベージュのトレンチ……」
「ああ、俺が取る。ほらよ、降谷。自分で着られるか?」
「まだおねむだって言うんなら、俺が着せてやろうか?」

イイ笑顔を浮かべながら差し出された萩原さんの手を、零さんはぺしっと叩いた。

「必要ない。それくらいならさくらに手伝ってもらう」
「おーおー、見せつけるねえ」
「ラブラブなのは解ったから、もうお前はとっとと帰れ」

松田さんが見ていられない、と言いたげにヒラヒラと手を振った時、外の様子を見に行っていた景光さんが戻ってきた。

「ゼロ、本田さん、タクシー来たぞ。足元に気を付けて」
「ありがとうございます、景光さん。皆さんも、急にお邪魔してすみませんでした」

零さんに靴を履いてもらい、自分もブーツに足を通すと、私は室内を振り返ってお辞儀をした。

「いやいや、こっちこそ急に呼び出して悪かったよ」
「次はさくらちゃんも一緒に飲もうな!」
「帰ってからも程々にしておけよ。明日足腰立たなくなるぞ」
「もう、松田さんってば」

くすくすと肩を揺らして笑っていると、個室の外から不機嫌そうな零さんの声がした。

「さくら、帰るぞ」
「はぁい。それじゃ、これで失礼します」
「ああ、気を付けて!」
「降谷を頼んだぞー」

温かい掛け声に見送られて、私と零さんはお店を出た。タクシーと一緒に待っていてくれた景光さんに頭を下げて、車内に乗り込む。

「じゃあな、ゼロ。本田さん、またの機会に」
「はい。お休みなさい」

短い挨拶を交わしたのを見計らい、タクシーはゆっくりと動き出した。安室透名義で借りているマンションの住所を告げると、零さんは腕組みをして後部座席に深く体を沈めた。

「どうしたの?今日は随分ご機嫌ナナメね」
「……起き抜けに、他の男とお前が親しげに話しているのを見せられたら、こんな顔にもなるさ」

どうやら彼は、自分の同期相手にやきもちを妬いていたらしい。私はふっと破顔して、甘えたな彼の頭を撫でた。

「解ったわ。今晩は特別に、何でもあなたの言うことを聴いてあげる。だから機嫌を直してくれない?」
「何でも?」
「ええ、何でもよ」

私が最大級の譲歩をしてみせると、彼は顔を上げて私の瞳をまっすぐに見つめてきた。我ながら甘やかしすぎだとは思うものの、仲間内での飲み会でさえ途中で寝落ちするほど疲れている彼の体調を思えば、こんな対応になるのも致し方ないだろう。

「……それなら、まあ、許す」
「ふふ、ありがとう。マンションに着いたら起こしてあげるから、それまでもうひと眠りしておいたら?」
「ああ、そうする。お休み、さくら」
「お休みなさい、零さん」

零さんは先程までとは打って変わって、機嫌のよさそうな顔で私の肩に寄りかかってきた。そして振動の少ないタクシーに揺られる内に、彼は再び微睡みの世界に旅立って行った。
その穏やかな寝顔を見下ろして、私は唇を綻ばせた。

お休みなさい、零さん。束の間の休息だけれど、どうかいい夢を。

私が心の中でそう呟いたその時、彼は私の声が聴こえていたかのように柔らかく微笑んだ。触れ合った箇所から広がる温もりが、ぽかぽかと心を満たしていくようだった。


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