Dear. マリナ様・清歌様

“それ”は何の前触れもなく、私の実家の部屋に現れた。

「……ギルバート」
「はい、さくら」
「これは一体何かしら?」
「私のカメラが捉えた映像とスキャン画像では、何の変哲もないぬいぐるみのように見えます。中に入っているのはコットンだけですので、爆弾や監視カメラ、GPSと言った物は仕込まれていませんよ」

ギルバートの返事を聴いて、私は恐る恐るベッドの上の“それ”に手を伸ばした。やや固めの生地の服に包まれた胴体に手を添えて、そっと持ち上げる。私の顔と同じくらいの全長の“それ”は、当たり前だがぴくりとも表情を変えないまま、私を無機質に見返してきた。

「私の気の所為でなければ、何だかとっても見覚えがある姿をしているんだけれど」
「奇遇ですね。私も同じことを考えました」
「でも、彼の姿をこうして形に残すことはご法度のはずよ」
「ですからこのぬいぐるみは、彼がご自分で用意したものでなければ、不思議な力によって勝手に顕現した物なのでしょう。さくらが寝惚けて、せっせとこのぬいぐるみを自作したのでなければね」

超が付くリアリストである人工知能から“不思議な力”なんて非科学的な言葉が飛び出して、私はがっくりと肩を落とした。けれどこれまでも、お酒を飲んで猫耳が生えたり、博士に貰った風邪薬を飲んで幼児化したりと、割と非科学的な目に遭遇してきたのだ。今更これしきのことで動揺しない程度には、私にも耐性がついてきた。

“それ”は―――私の手の中で静かに微笑みを浮かべるぬいぐるみは、私の恋人である零さんの姿をそっくり写し取ったような外見をしていた。いや、降谷零のぬいぐるみというよりは、ポアロの黒いエプロンを着けていることから、これは安室透のぬいぐるみと言った方がいいのかも知れない。
彼の浅黒い肌を模した茶色いフェルト生地の顔、蒼い瞳、色素の薄い髪。いつもは意地悪な微笑みと言葉で私を翻弄する彼が、今はこんなに愛らしい姿になって私の掌の上に納まっている。その構図を想像して、私は何だか一周回って楽しくなってきた。

「よく見ると可愛いじゃない。あの零さんがこんなに可愛い姿になるなんて、考えたこともなかったわ」
「これだけデフォルメされていても、きちんと特徴を捉えているのは素晴らしいと思いますが、可愛いという意見には同意しかねます」
「あら、あなたにはどんな風に見えているの?ギルバート」
「私から見れば、ぬいぐるみのくせにきりっとした顔を崩さない辺りが、とても降谷さんらしいと思います」

その指摘ももっともだ、と私は声を立てて笑った。ぬいぐるみになっても決め顔を崩さないなんて、実にプライドの高い零さんらしい。

「そのぬいぐるみを、どうするつもりですか?さくら」
「そうねー。今晩、零さんのマンションで会う予定だから、一緒に連れて行ってあげましょうか」

私がぬいぐるみを掲げて言うと、ギルバートはそれは面白そうですね、とぎこちなく笑った。
自分にそっくりなぬいぐるみを見て、彼は一体どんな顔をするだろうか。愉快な想像を巡らせつつ、私はそれを自分のショルダーバッグの中に忍ばせた。

*****

「……で、ここに連れてきたと言う訳か。ちょっと見せてもらってもいいか?」
「ええ、どうぞ。よく出来てるわよね、あなたの髪型を再現するのって地味に難しそうなのに」

さくらがこの部屋に来た時から、妙にうきうきしていたことには気付いていた。だが、まさかその原因が、僕そっくりに作られたぬいぐるみのせいだとは思ってもみなかった。

並んでソファに腰掛けながら、僕は彼女の持ってきたそれをまじまじと見つめた。

「突然、このぬいぐるみがベッドの上に出現していたんだったな」
「ええ。私が寝惚けて作った形跡もないし、誰かがこれを持って私の部屋に侵入した形跡もなかったわ」
「中身は本当に安全なのか?」
「ギルバートの内臓カメラでスキャンしたから大丈夫よ。中身は全部コットンですって」
「爆弾テロや盗聴器の類ではなかったか……」

僕はかつて彼女を組織に勧誘し、従わなければ抹殺しろと指示を出してきた組織の人間を思い出していた。ジンやベルモットはあの時、さくらが僕の恋人ではないかと疑っていたのだ。もしも彼らが未だに彼女を狙っていたとしたら、僕に良く似たぬいぐるみを作って彼女の部屋に置いておき、爆破させるくらいのことをしても可笑しくはない。
だが、さすがに彼女の優秀なセコムはそのあたりのことも織り込み済みだったようである。何でも、彼女のヘッドホンには空港の荷物をチェックするものと同様のスキャンレートカメラが組み込まれているらしい。毎度思うが、彼女は一体このヘッドホンにいくつの機能を付けているのだろうか。

それにしても、と言って僕はぬいぐるみを顔の高さまで持ち上げた。

「本当に僕に瓜二つだな。正直気味が悪い……」

僕がぬいぐるみの足を持って逆さまにぶらつかせると、彼女はむっと頬を膨らませた。

「そんな持ち方しないで、可哀想よ」
「可哀想?」
「ええ。持つならちゃんと胴体を支えてあげなきゃ」

どうやら彼女はこのぬいぐるみにすっかり愛着を持ってしまったようで、扱いが雑な僕の手からぬいぐるみを奪って行った。ぬいぐるみの頭を撫で、彼女の柔らかい胸に顔を埋めさせる。

「何だ、すっかり気に入ったみたいだな」
「だってこんなに可愛いんだもの。それに、あなたに子供が居たらこんな見た目なのかなって思ったら、邪険には出来ないわ」
「…………」

無意識なのだろうが、そこで“僕と自分の間に子供が生まれたら”という発想にならないあたりが彼女らしい。僕の立場が立場なだけに、僕と結婚して子供を作って、というありふれた幸せを想像することが難しいのだろう。
僕が神妙な顔つきで黙り込むと、彼女は僕の姿をしたぬいぐるみを正面からじっと見つめた。

「この子がどこから来たのか解らないけれど、折角私の所に来たんだもの。今日は目一杯可愛がってあげるわ」

そう言って、彼女はぬいぐるみの頬に自分の頬を摺り寄せた。彼女が意外とぬいぐるみや人形を可愛がるタイプであることは知っていたが、その相手が自分の姿をしているとこうも居心地が悪くなるものか。

(いや、居心地が悪いと言うよりむしろ……)

本物が目の前にいるのに、偽物ばかり可愛がられて腹が立つ、という方が正しい。小さな僕の手を握り、その体を抱き上げ、剰え額にキスを贈るなんて、出血大サービスすぎやしないだろうか。本物の僕でさえ、滅多にそんな対応をしてもらったことがないのだが。

「……さくら」
「んー?」
「そんなにぬいぐるみの方がいいのか?」

本物がここにいるのに、と言って僕は彼女の袖を引っ張った。彼女はそんな僕の態度に、目を細めてころころと笑った。

「なぁに、零さん。ヤキモチ?」
「……うるさい」

僕はぬいぐるみを手放さない彼女の背後から、細い腰に腕を回した。首筋に額を押し付け、構え、とアピールをする。

「ぬいぐるみにキスするくらいなら、僕にしろ。あと、その場所は僕の特等席だ、他の男に譲るつもりはない」
「他の男って、大袈裟ね。……ん、ちょっと、どさくさに紛れて変なところに触らないの」

さりげなく胸を揉もうとした手は、ぺしっと叩かれた。本物の僕に対してはこの塩対応である。僕は益々不貞腐れて、彼女の胸元からこちらを見上げるぬいぐるみを睨み付けた。心なしかドヤ顔に見えるのが実に腹立たしい。自分がよく浮かべる表情だけれども。
そんな僕の心境を読んだのか、彼女は肩越しに振り返って小首を傾げた。

「ふふ、あなたのそんな顔が見られるなら、この子を連れてきた甲斐はあったわね」
「……わざとやっていたのか」
「ちょっとだけね。お陰でこんなに可愛いあなたが見られたわ」
「可愛いと言われても嬉しくない」

僕は彼女の腰に回した腕に力を込めた。苦しくなったのか、彼女は笑いながらギブ、ギブと僕の腕を叩いた。
それにね、と彼女は更に続けた。

「この子、あなたと同じ姿をしているんだもの。好きにならない方が可笑しいわ」
「……そうやってさらっと僕を口説くのは狡いと思うぞ」

僕が照れ隠しにそっぽを向くと、彼女は大きな瞳に悪戯っぽい色を乗せて顔を寄せてきた。

「いつも私があなたに翻弄されてばっかりだもの。偶にはいいでしょう?」

してやったり、と微笑む顔が可愛くて、僕は唇をへの字に曲げた。

「じゃあ、もう満足しただろう。いい加減にそいつじゃなくて、僕を構ってくれないか」

僕が真剣な眼差しで彼女の顔を覗き込むと、それまで余裕の表情を浮かべていた彼女の頬に僅かに朱が走った。

「……ええ、いいわ」

彼女は僕の頬に手を添えて、触れるだけのキスをした。何度か角度を変えて交わるうちに、彼女の体は力を失ってソファの上に倒れ込む。
その上に覆いかぶさって、僕は自分にそっくりなぬいぐるみを彼女の腕から引き剥がした。乱暴に扱うと彼女が怒るので、ソファの前のローテーブルの上に置いてやる。

「っ、……ここでするの?」
「駄目か?」
「駄目じゃない、けど……その子が見てるみたいで恥ずかしいわ」
「見せつけてやればいい。ぬいぐるみにはこんな風に、君を満足させることは出来ないだろう?」

無機物相手に張り合うのも馬鹿馬鹿しいが、この時の僕は本気だった。彼女はそんな僕を呆れたような目で見つつ、結局は苦笑して僕の子供っぽい独占欲を受け入れた。

「ええ。期待しているわ」

彼女のお許しを得て、僕はようやくさくらの胸元に顔を埋めた。物言わぬぬいぐるみは、互いに貪り合う僕達を見ていられなくなったのか、いつの間にかテーブルの下に落ちてしまっていた。

結局この、出所が不明のぬいぐるみは翌朝には姿を消していた。突然現れて突然消えていった“それ”の正体に、僕とさくらが揃って首を捻ったのは言うまでもない。


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