Dear. ミユ様

今日はさくらがドイツでの留学生活を終え、日本に帰国してくる日である。

彼女は元々、本来3年かかる博士課程を2年で修了させ、日本に戻ってきて就職するつもりだと言っていた。その後、研究室のメンバーにもう2年留学を延長しないかと持ちかけられたり、人工知能研究センターの所長のツテで見合いをさせられそうになったりと色々なハプニングがあったが、さくらはそれを全て断って、僕のいる日本に帰って来ることを選んでくれた。

自分の夢を諦めることになったのではないかと気に病む僕に、彼女は満面の笑みを浮かべてそんなことはないと言い切った。

「日本も漸く平和になったし、あなたとゆっくり過ごせる日が1日も早く来て欲しかったもの」

僕が潜入捜査をしていた黒の組織が壊滅したのは、今からちょうど半年前の話である。あの日のことは、今思い返してもよく生きて還って来れたと自分でも思うほどで、全てが終わった後、僕は気が付いたら病院の堅いベッドに寝かされていた。どうやら僕は手術が必要な程の大怪我を負ったらしく、目が醒めた時、さくらは包帯に包まれた僕の手を握りしめ、声も出さずに泣いていた。

組織関連の後処理にも多大な労力を要したが、半年が経過して僕の身辺もかなり落ち着きを取り戻した。そこにきて彼女が帰国してくるという。これはもう、密かに抱き続けてきた夢を彼女に打ち明けるべきだろうと、僕は空港の搭乗ゲート前で彼女を待ちながら、自分で自分を鼓舞していた。

ちなみに今、僕がいる空港は羽田ではない。大阪府の泉佐野市にある、関西国際空港である。彼女が大阪の大学で講演を行う予定があるからと、待ち合わせ場所を関西に変更したのだ。関西方面に積極的に出向いたことは少なかったが、空港の景色はどこも大きく変わらないな、と一人ごちた。

「降谷さん、さくらが乗る便が滑走路に入ってきます」

左手首から聞こえてきた声に、僕はスマホを弄っていた手を止めて顔を上げた。ルフトハンザ航空の尾翼が黒く塗られた白い機体が、ちょうどA滑走路に入ってきた所だった。
やがて機体が完全に静止し、タラップから大勢の乗客が降りてくる。あの中にさくらがいる。早く、早く会ってこの腕に抱き締めたい。
逸る気持ちとは裏腹に、僕はその場からじっと動かなかった。こんなことで舞い上がっていては、この後彼女に大事な話をする時にはきっと緊張してしまって上手く喋れないだろう。そんな姿を見られたくないがために、僕は努めて平静な振りをし続けた。

どれほどそうしていただろうか。僕が腰を下ろしていた革張りのソファの前に、細身のシルエットの影が差した。
相手は黒いサングラスを掛けた、黒いスーツケースを足元に鎮座させた女性だった。サングラスの下の、チェリーレッドの唇が開く。

「ねえ、お兄さん。この後お時間あるかしら?」
「……生憎、恋人を待っている所なんです」
「あら残念。その恋人って言うのはどんな人なの?」
「そうですね。美人でスタイルがよくて頭も天才的によくて、それから……」
「それから?」

彼女は両手を腰に当てながら上半身を折った。薄手のニットの大きく開いた襟ぐりから白い肌が見えたが、今度は視線を逸らさなかった。

「それから、長く会えなかった恋人と久しぶりに会う時にも遊び心を忘れない、茶目っ気のある可愛い人。それが、僕の恋人です」

僕はそう答えながら、彼女の手を取るために立ち上がった。サングラスの弦に指を掛け、慎重に外してやる。
その下から現れた藍色の瞳は、悪戯っぽく細められていた。

「お帰り、さくら」
「ふふ。零さん、お出迎えありがとう」

ただいま。さくらはそう言って、蕩けるような微笑みを浮かべた。僕はその背中に腕を回し、自分のトレンチコートに皺が寄るのも構わずに強い力で抱き寄せた。

「今日の講演は5時までだったな」
「?……ええ」
「迎えに行く。その後の時間は僕にくれ」

簡潔に自分の要望だけを告げる口調に、さくらは僕の余裕の無さを感じ取ったらしい。すり、と胸元に頬を擦り付けられて、より体が密着した。

「ええ。今晩中ずっと、私の時間はあなたにあげる」

その言葉の甘美な響きに、僕は短く息を吐き出した。僅かに体の隙間を開けて、彼女の顔を覗き込む。僕の意図を察した彼女は、顎を上げて瞼を下ろした。
人通りの多いゲートの前で、多くの通行人に見守られながら、僕達の影は1つになった。

*****

講演が終わって大学の正門をくぐると、零さんは既にすぐ傍まで車を回してくれていた。

「この後はどちらへ?」
「君と一緒ならどこへでも。……と言いたいところだが、行き先は勝手に決めさせてもらった」

自信満々に微笑むと、彼は後部座席に置いていたリーフレットを渡してくれた。三つ折りのそれに目を落とし、表紙の文字を読み上げる。

「神戸港発着のナイトクルーズ?」
「ああ。船の上でディナーを摂ろうと思って」
「わあ、素敵ね。色んなレストランがあるみたいだけれど、どのデッキに行くの?」
「それは着いてからのお楽しみだ」

片目を瞑ってみせた零さんは、どこの芸能人かと思うほど様になっていた。

19時前に神戸港に到着し、私達はポートタワーや対岸のオリエンタルホテルなどの夜景を見ながらクルーズ船に乗り込んだ。

「よく知ってたわね、こんなクルーズ」
「この日のために調べたんだ。今日泊まるホテルからもクルーズ船が出るんだが、こちらの方が口コミ評価が高かったからな」

零さんが予約したというお店は、船尾の部分にある鉄板焼きのレストランだった。私は本日のおすすめワインを注文し、零さんはノンアルコールのブラッドオレンジジュースを頼んでいた。

「どうせこの後ホテルに泊まるのに、あなたは飲まないの?」
「ああ。まだその時じゃない」
「?」

何やら真剣な表情で言う零さんに、私は小さく首を傾げた。けれど彼は笑って「君は気にせず飲んでくれ」と言うだけで、それ以上話してくれるつもりはないようだった。

目の前でシェフが用意してくれる料理の数々に、私はいちいち感動していた。

「美味しい!ただ野菜を焼いただけなのに、お塩の種類によってこんなに味わいが変わるのね」
「この赤こんにゃくは僕も初めて食べるな。近江八幡の名物だったか」
「あなたの炊き込みご飯、一口もらってもいい?」
「ああ、どうぞ。蛸の味が染み込んでいて美味しいぞ」

一通りの食事を終えると、船はちょうど明石海峡大橋付近の折り返し地点にやって来た。

「お客様、よろしければデッキに出ていただいて、夜景をお楽しみいただけますがいかがでしょうか?」
「夜景を?」
「はい。Aデッキの方から、明石海峡大橋や六甲の山々がご覧いただけますよ」

ウェイターの勧めに従って、私達はデザートを摂る前に甲板に出ることにした。曲がりくねった階段を上ると、夜風が柔らかく私達の頬を撫でた。遠くに見える明石海峡大橋が、夜空に白く浮かび上がる。

「あっちが淡路島ね。淡路島には行ったことがある?」
「一度だけ。道の駅で大量の玉ねぎが入ったハンバーガーを食べたな」
「ああ、淡路島と言えば玉ねぎよね。私はまだ行ったことがないわ」
「いつでも行けるさ。これからはいつでも、君は日本に居るんだから」

彼は私の髪を撫でながら、噛みしめるように言った。こんなに私が帰国したことを喜んでくれるなんて、こちらの方が恥ずかしくなるほどの喜びようだ。

ふと、頭上から低いうなり声のような音が響いた。遠くの空に、赤と緑のランプが灯っているのが見える。神戸空港へ向かう飛行機が、大橋の上を通過しようとしていた。

「わぁ……」

思わず声が漏れたのは、飛行機のライトが海上に反射して、水面がきらきらと輝きに包まれたからである。光は明石海峡大橋を通り過ぎ、徐々にこちらの船に近付いてきた。

「船の上ならではの光景ね。とても綺麗……」

私がうっとりとその景色に見入っていると、隣で零さんが小さく咳払いをしたのが解った。

「さくら」
「なぁに?」

短い掛け声に振り向くと、彼は強い眼差しでこちらを見下ろした。
飛行機のライトが彼の蒼い瞳に写り込んで、美しく反射していた。

「帰国したばかりで、落ち着かない時にこんなことを言うのは、フェアじゃないかも知れない」

零さんはでも、と言って私の左手を取った。

「君が帰って来ると聴いた時から、ずっと伝えたかった。……さくら」

君のこれから先の時間を、全て僕にくれないか。と言って、彼は私の掌に唇を押し付けた。

「今晩だけじゃ足りない。君の一生の時間を僕にくれ。後悔はさせない―――とは、断言できないが」

仕事柄、家を長期間空けることもあるし、危険な任務に赴くこともある。心配を掛けることも多いだろうし、その分苦労も負わせるだろうと彼は続けた。

「それでも、君を僕の物にしたい。君に、僕の家族になって欲しい。……どうか、考えてみてくれないか」

堅い口調で紡がれた言葉に、私は彼がお酒を頼まなかった理由を悟った。生真面目な彼は、この言葉を―――どこまでも率直なプロポーズを、酔った弾みの発言だと受け取られたくなかったのだろう。
とっくに頭上を通り過ぎた飛行機の音を聴きながら、私は握られた手に目を落とした。

「……こんな日が来るなんて、思ってもみなかったわ」
「うん?」
「あなたに初めて会ったあの日。私、面倒事の匂いがするからって、極力あなたには深入りしないようにしようと思っていたの」

懐かしい話を始める私に、零さんは疑問をその目に浮かべた。

「でも、あなたがNOCだと疑われて、死にそうな目に遭って。あのIoTテロの事件があって、あなたが決死の思いであのカプセルを止めた時、私は自分の気持ちから逃れられないことを悟ったの」

この人を喪ったら、私は今度こそ生きていけない。そう思うほどに、彼は私の中で大きな存在になっていた。

「考えるまでもないわ。私の命を、私のこれからの人生を、丸ごとあなたにあげる。その代り、重くなったと言って途中で放り投げたりしないでね」

私は握られた手の上に、自分の手を重ねた。私の力強い返事を聴いて、彼は躊躇いを振り切ったように私を強く抱き締めた。

「さくら……、さくら、さくら」
「はい、零さん」
「好きだ。お前を愛している。必ず、お前を幸せにしてみせるから」

暖かな腕に包まれて、ありったけの愛の言葉が降ってくる。既にこんなにも幸せなのに、これでは足りないと彼は言う。
だったらお手並み拝見といこうか。私をどうやって幸せにしてくれるのか、彼を信じてついて行ってみよう。

「ええ。私も、あなたを幸せにすることを誓います」

夜風が心地よく頬を撫でるデッキの上で、私達はキスを交わした。仄かに潮風の香りがする、一生忘れられないキスの味だった。


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